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蒼いT字

機関室の熱は、夏より先に来る。海の上で季節が遅れていても、鉄の腹の中だけは常に真夏で、石炭の粉は汗と混じって肌に貼りつき、呼吸のたびに喉の奥が黒くなる。私はその黒さを、武士の墨のように思うことでしか耐えられなかった。――墨は言葉を生むが、ここで生まれるのは言葉ではない。震えだ。鉄の震え、蒸気の震え、そして肉の震え。

「回転、維持!」

伝声管の先から声が落ちてくる。声は、命令の形をしていても、ここへ届くころには湿り気を帯び、まるで自分の胸の奥から出た声のように聞こえる。機関の回転計の針は、細い刃のように震えながら一定の角度を保っていた。針が角度を失えば、艦も角度を失い、角度を失った艦は海に祈ることさえできない。

私は下士官だった。名はありふれ、家もありふれ、ただ腕だけが人より少し太かった。腕を太くすることが、少年の頃の私には唯一の哲学だった。鍛えた腕の筋が硬く盛り上がるのを見るとき、私は世界の不確かさに勝てる気がした。筋肉は裏切らない。裏切るのは言葉と国と、そして時代だ。

機関室の梯子の下を、伝令が走っていった。足音が、鋼板に硬く響く。硬い音は、いつでも不吉だ。柔らかい音なら人はまだ逃げられる。硬い音は逃げ道を塞ぐ。

「敵艦隊発見!」

誰かが叫んだのだろう。声は階上で割れ、金属に反響してここまで落ちてきた。機関室の空気が、ほんの一瞬だけ薄くなった。薄くなるのは酸素ではない。余計な時間だ。余計な時間が剥がれると、世界は急に決断の形をする。

私は、汗に濡れた手袋を握り直した。この手袋は白ではない。煤で灰色に汚れ、指の縫い目がほつれ、親指の腹は擦り減っている。だが私は、この汚れを恥じない。汚れは仕事の証であり、戦の証だ。戦の証とは、いつも後から「勲章」という薄い札を貼られる。札は軽い。軽い札が、重い死体の上に乗って平気で揺れる。私は札の軽さが嫌いだった。

海戦は、上で起きている。旗が上がり、砲が吠え、煙が空を裂き、波が白く立つ。だが私は、ここで回転を守るだけだ。守るという言葉は甘い。甘い言葉はよく燃える。ここで守っているのは艦の速度であり、速度はつまり、誰かが誰かに追いつくための数字にすぎない。

数字のために、人が燃える。

私はその不潔さを、腹の底で噛みしめた。噛みしめると苦い。苦いものだけが現実だ。

一度だけ、上甲板へ上がる許可が出た。蒸気の匂いから抜け出すと、潮の匂いが刃のように鼻腔を切った。潮の匂いは冷たい。冷たさは、熱よりも残酷だ。熱はまだ生き物の匂いを持つが、冷たさは物体の匂いを持つ。海の冷たさは、人間を簡単に「物」にする。

空は青すぎた。青は希望の色ではない。青は無関心の色だ。無関心の下で、人はよく死ぬ。

艦橋のあたりに目をやると、旗が見えた。Z旗――布が風を叩き、風が布を叩き返し、布が生き物のように鳴いている。あの布の中に、言葉が縫い付けられていることを私は知っている。だが布が鳴くとき、言葉はすでに意味ではなく、体温になる。体温になった言葉は、兵の骨に染み込む。骨に染み込んだものは抜けない。

遠く、海の線が黒く厚くなっていた。敵艦隊だ。点が線になり、線が列になる。列は秩序の形だ。秩序は砲弾のために並ぶ。並んだ瞬間、死はもう半分始まっている。

「T字だ」

誰かが言った。その言葉が、妙に軽く聞こえた。軽い言葉ほど危険だ。軽い言葉は人を酔わせる。酔えば、死が美しく見える。私は美しく見える死が嫌いだった。嫌いなのに、どこかで欲してもいた。――死が美しければ、説明が要らない。説明のない終わりほど、甘いものはない。

砲が吠えた。音が遅れて身体に届く。届いた瞬間、胸の中の水が揺れた。空気が震え、甲板が震え、私の歯が一度だけ鳴った。鳴った歯の音が、なぜか恥ずかしかった。恥は、生の証拠だ。

海面に白い水柱が立つ。白は潔白ではない。白は、血の色を最も鮮やかに見せるための背景だ。水柱の白さを見た瞬間、私はこの海戦がいずれ「絵」になることを想像してしまった。絵になる戦ほど残酷なものはない。絵は臭いを消すからだ。臭いが消えると、人は平気で次の戦を夢見る。

私は急いで下へ戻った。下へ降りるほど、砲声が「現実」に変わる。上の砲声は遠い音だが、下の砲声は鉄を通して骨に響く。骨に響く音は、思想を剥がす。剥がれた思想の下に残るのは、ただの恐怖と、ただの仕事だ。

機関室で、衝撃が来た。ドン、という音ではない。世界が一瞬だけ止まり、次に「ズレる」感触がする。ズレは、船の腹の中で最も恐ろしい。ズレは、どこかが裂けた兆しだ。

「被弾!」

叫びが飛び、蒸気の匂いが急に甘くなった。甘い匂いは腐敗の前触れだ。腐敗は、勝利にも敗北にも等しく宿る。誰かが転び、誰かが立ち上がり、誰かが歯を食いしばる。機関室の男たちは、泣かない。泣けば蒸気が濃くなる。濃くなれば息ができない。息ができないと、人はすぐ物になる。

私は弁を回し、計器を見た。針が少し揺れた。揺れは死の前触れだ。針を安定させるために、私は自分の腕の力だけを信じた。腕の力は、ここでは祈りの代わりになる。

そのとき、隣の若い機関兵が呻いた。目を向けると、彼の腹に鉄片が刺さっていた。鉄片は小さい。小さい鉄片ほど残酷だ。小さい鉄片は、英雄譚に入りにくい。英雄譚に入らない死ほど、無駄に見える。無駄に見える死を、私は恐ろしいほど愛おしく感じてしまった。愛おしさは感情移入の毒だ。毒は甘い。

「……母ちゃんに、書いといてくれ」

彼は笑おうとして、笑えなかった。笑えない口角が、血で濡れた。血の濡れは温かい。温かい血は、機械の冷たさの中でひどく異物だった。

私は何も言えなかった。言えば、言葉が彼の死を整えてしまう。整った死は美しい。美しい死は危険だ。危険だから、私は黙った。黙りは卑怯だ。卑怯でも、私は黙るしかなかった。

彼は目を閉じた。閉じた瞼の薄さが、妙に清潔に見えた。清潔に見えることが嫌だった。死は清潔ではない。死はもっと臭く、もっと汚く、もっと滑稽だ。滑稽な死こそ、二度と繰り返してはならない死だと、私は思う。思うだけで、手は動き続けた。

回転を維持する。回転を維持すれば、砲が届く。砲が届けば、敵が沈む。敵が沈めば、こちらが生き延びる。この連鎖のどこに、正義があるのか。正義はいつも、連鎖の外側に貼られる札だ。

夕刻、砲声が薄くなった。薄くなる音ほど不気味なものはない。音が消えると、匂いが戻ってくる。匂いは記憶を呼ぶ。記憶は、人間を眠らせない。

上へ出ると、海は別の色になっていた。青ではない。灰色でもない。油と煤と血が混ざった、名前のない色だ。名前のない色は、世界が言葉に追いつけないときに現れる。

遠くで、船が燃えていた。燃える船は美しい。美しいからこそ恐ろしい。炎は、形を単純にする。単純になった形は、絵になる。絵になると、戦は物語になる。物語は次の若者の胸を熱くする。私はその循環を憎みながら、炎の美しさに目を奪われる自分を憎んだ。

海面に、木片と布と、黒い塊が浮いていた。黒い塊は、よく見ると人間だった。顔が水でふやけ、髪が海藻のように揺れている。死体は、陸より海の方がよほど静かだ。静かすぎて、死が赦されてしまったように見える。赦しは甘い。甘い赦しほど腐る。

救命艇が出た。引き上げられた一人の男が、甲板に倒れた。敵兵だ。ロシア語のうめきが、潮風に切られて断片になる。断片の声は、言葉より肉の音だ。

私は水筒を差し出した。男は一瞬、私を見た。目が澄んでいた。澄んだ目は残酷だ。こちらの勝利を、こちらの誇りを、こちらの言い訳を、いとも簡単に剥がしてしまう。彼の目には、憎しみがなかった。憎しみがないことが、私には耐えがたかった。憎しみがあれば、戦はまだ二人の間の問題でいられる。憎しみがないと、戦は誰かの机の上の「決定」に変わってしまう。

男は水を飲み、咳き込み、そして薄く笑った。笑いは、敵味方の区別を嫌う。笑いは、人間の最後の共同体だ。共同体など、戦場では最も危険な概念だ。危険なのに、私はその笑いに胸が痛んだ。痛みは感情移入だ。感情移入は、戦の中で唯一、人を人間に戻す。

その夜、艦の上で星が出た。星は、戦を知らない。知らない星ほど残酷だ。私は舷側にもたれ、暗い海を見た。海は無数の死を抱いて、平気で揺れている。揺れは優雅だ。優雅さは嘘だ。嘘に見惚れると、人はまた旗を欲しがる。

私は、自分の胸の中に残るものを探した。勝利の歓喜か。帝国の誇りか。英雄譚の種か。どれも薄い。薄いものは、汗で溶ける。

残ったのは、機関兵の最後の声だけだった。

「書いといてくれ」

あの声は、栄光に縫い付けられない。だからこそ残る。残るものほど、戦を拒む力になるのかもしれない。

私は星の下で、初めて祈った。勝利のためではない。敵の滅亡のためでもない。ただ、今日の海が「美しい絵」にならぬように。臭いを消されぬように。死が札で飾られぬように。

祈りは叶わないだろう。叶わない祈りほど、誠実だ。誠実なものはいつも、遅れて胸を刺す。

海は、静かに揺れていた。その揺れの上で、私は自分の勝利を祝うことができないまま、ただ生き残ってしまったという事実の重さだけを、骨の中で確かめていた。

 
 
 

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