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虹の切符

 日曜日の朝は、蒲原の海がいつもより早起きでした。駿河湾はまだ眠い青で、波は低く、白い泡だけが先に目を覚まして、浜の小石をひとつずつ撫でていました。薩埵峠の影は夜の名残りを背中に背負いながら、それでも少しずつ薄くなって、山も海も「今日は何かある日だ」と言い合っているようでした。

 幹夫は八つ。目が覚めたのは、まだ祖母が台所で火を起こす前でした。

 目が覚めた理由は、夢でも腹の音でもなく、胸の奥のどこかが勝手に“起きろ”と叩いたからでした。こつ、こつ、こつ。心臓の太鼓が、いつもより軽く鳴っています。軽いのに、落ち着かない。

 父の葉書には、「次の日曜日には帰れるかもしれない」とあったのです。

 かもしれない――その四文字は、ふわふわした綿のようで、掴んだ途端に指の隙間から逃げてしまいそうでした。でも、逃げそうなものほど、幹夫はぎゅっと握りたくなりました。握って、形にしたくなりました。形になれば、こわくなくなる気がしたのです。

 幹夫は布団からそっと抜け出して、玄関へ行きました。父の下駄は、いつもは棚の上のいちばん奥にしまってあります。祖母が大事にしているのです。

 幹夫はそっと下駄を取り出し、雑巾で磨きました。木の肌は乾いていて、指の腹で撫でると、こまかな木目がざらり、と触れます。ざらり、が、なぜだか幹夫の胸の中の“ざらり”にも似ていました。

 ――帰るかもしれない。 ――帰らないかもしれない。

 希望と怖さが、同じ場所に住んでいる。住み方が仲が悪い。だから胸が、ずっと揺れている。

 磨き終えると、下駄は少しだけ明るい色になりました。明るくなるのを見ると、幹夫の胸の奥の綿も、ほんの少しだけ膨らみました。

 縁側へ行くと、窓辺の青いガラスの星が、朝の風でゆれていました。からり、と鳴るにはまだ風が弱くて、星は声を出す前の喉みたいに静かでした。隣のブリキ箱の“割れた貝の星座”も、朝の光の中ではただの砂と欠片に見えます。けれど幹夫は知っていました。夜になると、あれはちゃんと光る。割れても、光り方が変わるだけだ。

 その“知っている”が、今日の幹夫を少し支えました。

 朝ごはんの味噌汁は、いつもより少しだけ濃く感じました。祖母が味噌を多めに溶いたわけではありません。幹夫の舌が、期待で勝手に敏感になっているのです。

「幹、今日はどうする?」 祖母は、わざと何でもないふうに聞きました。何でもないふうに聞くのは、幹夫の胸の綿を驚かせないためです。

「……駅、行っていい?」 幹夫は、声が震えないように言いました。震えは、希望が漏れる音です。漏れるのが恥ずかしい。

「行っといで」と祖母は言いました。「でも、帰ってこなくても怒っちゃだめだよ。父さんの足が遅いんじゃなくて、仕事の足が重たいんだから」「うん」と幹夫は言いました。

 “うん”と言いながら、胸の奥のどこかが小さく反抗しました。

 ――足が重たいって、ぼくの足だって重たいのに。

 自分でも嫌な考えでした。嫌なのに浮かぶ。浮かぶと、もっと嫌になる。嫌になると、息が浅くなる。

 幹夫はその息を誰にも見られないように、箸を静かに置いて、立ち上がりました。

 外へ出ると、空は薄い雲を何枚も重ねていました。雲は白い布団のようで、でも布団の下の空気はむしむしして、肌にまとわりつきます。みかん畑の葉が、朝の熱をためこもうとして、しっとり光っていました。

 駅へ向かう途中、畦道のわきでこういちに会いました。こういちは、袖をまくって、手首を出していました。夏の気配がそうさせるのです。

「幹夫、駅行く?」「うん……父さん、帰るかもしれないって」 幹夫が言うと、自分の口から出た「かもしれない」が、空気に触れて、いっそう軽くなりました。軽くなるほど、落ちそうで怖い。

 こういちは、少しだけ目を丸くして、それからうなずきました。

「じゃ、ぼくも行っていい? ……一緒に待つ」

 “一緒に待つ”という言葉が、幹夫の胸の綿にそっと紐を結びました。ひとりで待つと、綿は風でどこへでも飛んでいきます。紐が一本あると、飛びすぎない。

 二人は並んで歩きました。歩くたびに、靴底が土を押し、土がふむ、と音を返します。遠くで踏切が――カン、カン、と鳴りました。鳴り方がいつもより乾いて聞こえたのは、幹夫の耳が「汽車」を探しているからです。

 蒲原の駅は小さく、ホームは潮の匂いを少しだけ含んでいます。駅の木のベンチは昼の熱をまだ知らなくて、座るとひんやりしました。

 幹夫は、汽車が来る方向を見ました。線路は、薩埵峠の影の方へ伸びて、そこから先が見えません。見えないところから、父は来るはずだ、と幹夫の胸が言います。胸が言うたびに、心臓がこつん、と鳴ります。

 一台目の汽車が来ました。

 ことことこと――。

 車輪の音が近づくと、幹夫の胸の中で希望が立ち上がりました。立ち上がると、足の裏が少し浮きます。浮いて、息が止まります。

 汽車が止まり、扉が開き、人が降りてきました。買い物籠を持ったおばさん。帽子の男の人。子どもを連れた母さん。知らない顔。知らない顔。知らない顔。

 幹夫の希望は、すとん、と座りました。座った途端、胸の奥が冷えました。冷えるのが早すぎて、幹夫は自分の心が意地悪に思えました。

 次の汽車も来ました。次も。次も。

 来るたび、希望は立って、座って、また立って、また座りました。立ち座りを繰り返すうちに、希望は少し疲れてきます。疲れると、立つときに遅れる。遅れると、「もう来ないのかもしれない」という影が、希望の背中に貼りつきます。

 幹夫は、影を見ないふりをしました。見たら、立てなくなる気がしたのです。

 こういちは、時々話しかけました。

「幹夫の父さん、どんな顔?」「……笑うと、目が細くなる」「いいね」

 いいね、という言葉は軽いのに、その軽さが、幹夫には救いでした。重たいものばかり抱えていると、胸が壊れそうになる。軽い言葉がひとつ混ざるだけで、息が通ります。

 昼近くになって、空が少し暗くなりました。雲が厚くなり、風が止まって、湿り気だけが増えました。駅の屋根の下にいても、肌がぬるくなってきます。

 幹夫は、知らないうちに爪を噛んでいました。爪の先が歯に触れると、からり、と乾いた音がして、その音が自分の焦りを知らせました。

「……雨、来るかな」とこういちが言いました。「来る」と幹夫は言いました。なぜだか、断言できました。胸が重たいとき、空も重たくなる気がするからです。

 そのとおり、ぽつり、と雨が落ちました。 ぽつり、ぽつり。 すぐにざあっ、と増えて、ホームの端の砂利が、雨に打たれて黒くなりました。雨は、空が溜めこんでいたものを一気にこぼすみたいでした。

 二人は駅の軒下へ寄りました。屋根から落ちる雨だれが、一定の間隔で石に当たり、ぴち、ぴち、と小さく鳴ります。その規則正しさが、幹夫の胸の不規則を少し整えました。

 雨が降ると、人の動きが鈍くなります。汽車も少し遅れます。遅れる、という言葉が、幹夫の胸をまた刺しました。刺さるのに、今日はそれが“父が遅れる”と繋がってしまうのです。

 ――遅れたら、今日は来ないかもしれない。

 怖い考えが、雨と一緒に増えていきました。

 雨は十分ほど降って、ふっと弱まりました。そして、雲の切れ目から光が差しました。光はまだ濡れた線路の上で、細い銀の糸になって走りました。

 そのとき、海の方に、虹が出ました。

 虹は大きくはありませんでした。けれど確かに、薄い赤、薄い橙、薄い黄、薄い緑、薄い青が、順番に重なって、駿河湾の上に半分だけ架かりました。虹の端はどこにも届かないのに、届かないまま「橋」の顔をしています。

「……虹だ」とこういちが言いました。

 幹夫は、胸の中で何かがじん、と鳴るのを感じました。虹は、掴めない。掴めないのに、見える。見えるのに、持って帰れない。持って帰れないのに、確かに“あった”と胸に残る。

 “かもしれない”に似ていました。

 幹夫は虹を見ながら、ふっと思いました。

 ――父さんも、どこかでこの虹を見てるかな。

 見ているかもしれない。見ていないかもしれない。でも、見ていると思うと、父のいる町と蒲原が、虹の薄い帯で繋がった気がしました。繋がった気がするだけで、胸の綿が少しだけ落ち着きました。

 こういちは、虹を見上げたまま言いました。

「切符みたいだね。空の」「……虹の切符」 幹夫は小さく言いました。言葉が口から出た瞬間、胸の奥が少し温かくなりました。名前をつけると、掴めないものにも居場所ができるのです。

 夕方になっても、父は来ませんでした。

 汽車は何本も通りました。人も降りました。けれど父の目の細い笑いは、どの窓にもありませんでした。

 幹夫の希望は、もう立ち上がる力がなくなって、ベンチの上でうずくまっているみたいでした。うずくまっている希望を見て、幹夫は、腹の底がきりきりしました。きりきりは怒りの芽です。芽は小さいのに、刺すと痛い。

 ――“かもしれない”なんて、言わなきゃよかった。

 そう思った自分に、すぐ次の自分が怒りました。

 ――父さんが悪いんじゃない。仕事が悪いんだ。

 仕事に怒ると、仕事は顔がないから、怒りの行き場がなくなります。行き場のない怒りは、胸の中をぐるぐる回って、自分を叩きます。

 幹夫は黙って立ち上がり、こういちに言いました。

「……帰る」「うん」とこういちは言いました。余計なことは聞きませんでした。ただ、幹夫の歩幅に合わせて歩きました。

 家に帰ると、祖母が縁側で待っていました。祖母の目は、今日の空みたいに広かった。広い目の前で、幹夫は言葉を探しました。

 祖母は、何かを手に持っていました。小さな紙――電報のような、短い知らせの紙でした。郵便屋が届けていったのか、近所の人が持ってきたのか、分かりません。紙の匂いだけが、いつもと違っていました。

「父さんからだよ」と祖母は言いました。「今日は戻れない。仕事が延びたって」

 幹夫の胸の中で、何かが“ぱちん”と切れました。切れたのは糸ではなく、期待の糸です。糸が切れると、手が空になります。空になると、いきなり寒くなります。

「……ふうん」

 幹夫は、それだけ言ってしまいました。言ってしまった「ふうん」は、自分でも嫌でした。冷たいふり。平気なふり。平気じゃないのに、平気なふりをすると、胸の奥が余計に痛む。

 祖母は何も叱りませんでした。叱らないのが、今の幹夫にはいちばんありがたくて、でも同時に、いちばん苦しかった。叱られれば、泣ける。叱られなければ、泣く理由が自分の中にしかない。

 幹夫は、靴もそろえずに外へ出ました。

 外の空気は、雨上がりの匂いをまだ抱えていました。土の匂い。葉の匂い。水の匂い。匂いはやさしいのに、幹夫の胸はやさしくなれませんでした。

 幹夫は浜へ走りました。走ると息が荒くなって、荒い息が涙の代わりをしてくれます。涙は出ないのに、息だけが泣いていました。

 浜に着くと、潮は少し満ちていました。波は、さっき見た虹のことなど知らない顔で、しゅう、と寄せて、ざあ、と返します。知らない顔が腹立たしくて、でも腹立たしいほど、波は正しい気がしました。波は誰の約束も守らないかわりに、誰のことも裏切らない。

 幹夫は砂にしゃがみ込み、指で濡れた砂を掘りました。掘ると、砂は黒く、冷たく、手のひらにまとわりつきます。まとわりつく冷たさが、胸の熱を少し冷ましてくれました。

 幹夫は、砂に字を書きました。

 「とうさん」

 字はすぐ波に消されました。消されると、幹夫の胸が、ぎゅっと縮みました。縮むのに、縮むことが、いまは必要な気もしました。縮まないと、何かがはみ出してしまうからです。

 そのとき、足元に小さな海硝子がありました。雨で洗われて、角が丸くなった透明な欠片。光に当てると、ほんの少しだけ、虹の色が混ざって見えました。赤でも青でもない、薄い色が、ガラスの中でふっと揺れます。

 幹夫はそれを拾って、掌で包みました。冷たい。冷たいのに、どこか温かい。

 ――虹の切符。

 こういちの言った言葉が、胸に戻ってきました。切符は、今すぐ乗れないときでも、持っているだけで「いつか」を信じられるものです。切符は紙で、薄くて、すぐ折れる。それでも、切符があると、行ける気がする。

 幹夫は、海硝子をポケットに入れました。ポケットの中で、ガラスは小さく鳴りました。ころり。ころり。幹夫の胸の太鼓の音に、少し似ていました。

 浜の向こうを見ると、虹はもう消えていました。消えたのに、目の裏には、まだ薄い弧が残っていました。残っているのは虹ではなく、見たという事実の跡です。

 幹夫は、ふっと息を吐きました。吐いた息は、潮の匂いと混ざって、すぐに夜へほどけました。

 ――今日は来なかった。 ――でも、来ない日も、終わる。

 終わる、というのは、なくなることではなく、次へ渡すこと。蛍を返したみたいに。嘘を言い直したみたいに。待った気持ちも、どこかへ返せるのかもしれない。

 幹夫は立ち上がり、家へ戻りました。戻る足はまだ重かったけれど、重さの中に、ほんの少しだけ筋が通っていました。

 夜、窓辺の青いガラスの星が、風でからり、と鳴りました。割れた貝の星座は、月の光で控えめに光りました。空の蛍瓶は透明のまま、でも透明のまま、返した手触りを持っていました。

 幹夫は、今日拾った海硝子を、窓辺にそっと置きました。青い星の隣に、薄い虹の欠片。

 祖母が言いました。

「父さんはね、来られない日でも、きみを思ってるよ。思うのは、来るのより先にできるからね」 幹夫はうなずきました。うなずきながら、胸の奥の空洞が、今夜は少しだけ冷たくないことに気づきました。空洞はまだある。けれど空洞の縁に、虹の弧みたいな薄い線が、一つ残っている。

 幹夫は布団に入り、胸の上で両手を重ねました。

 ――切符は、持っている。 ――行く日は、まだ先かもしれない。 ――でも、今日見た虹は、嘘じゃない。

 遠くで汽車がことことと鳴りました。踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。幹夫はその音を聞きながら、目を閉じました。

 眠りに落ちる直前、胸の奥で小さな灯が点きました。蛍の灯ほど明るくはないけれど、ちゃんと見える灯。

 それは「待つ」ことの灯でした。 待つ灯は、消えやすい。けれど消えても、また点け直せる――幹夫は、そう思える夜でした。

 
 
 

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