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蝉の死骸


 幹夫がその蝉を見つけたのは、静岡市の或る住宅街の路地であつた。駿府の町の夏は、海に近いせゐか妙に湿つぽい。しかもその湿り気が、日中の熱をどこまでも手離さない。午後三時を少し過ぎた頃、狭い路地のアスフアルトは、まだ陽炎(かげろふ)を立ててゐた。幹夫は下宿から歩いて五分ばかりの小さな薬局へ行かうとしてゐた。――別に薬を買ふ訣でもない。行く先といふものがないのが苦しくて、行く先の代りに薬局を選んだだけである。


 路地の曲り角に、白い線が引いてある。その線の上に、黒褐色のものがひつくり返つてゐた。蝉である。腹を上にしてゐる。翅(はね)は片方が折れ、もう片方も粉を吹いたやうに白くなつて、どこか紙屑に似てゐた。脚は六本とも宙を掻く格好のまま、固まつてゐる。固まつてゐる癖に、今にも動き出しさうな、嫌な自然さが残つてゐる。


 幹夫は立ち止まつた。立ち止まるのに理由は要らなかつた。彼はこのところ、何事にも立ち止まつてゐた。何事にも歩き出せないといふのと、立ち止まつてしまふといふのとは、同じやうでいて少し違ふ。幹夫はその違ひを、蝉の死骸の上で考へた。


 蝉の周囲には蟻が二、三匹集まつてゐた。蟻は腹の縁を嘗め、脚の関節を探り、翅の裏へ潜り込まうとしてゐる。蝉はもう抵抗しない。抵抗しない以上、それは蝉ではなく、蝉の形をした資源に過ぎない。幹夫はさう思つて、急に胸の奥が薄く冷えた。


 蝉は、何日生きるのだらう。


 幹夫の頭には、「蝉の命は七日」といふ言葉が浮んだ。どこで聞いたのかも分らぬ、さういふ手合の言葉である。七日――一週間。人間の一週間は、役所の暦にも、電車の時刻表にも、月曜日から日曜日まできちんと折目が付いてゐる。併し蝉の七日には折目がない。折目がないくせに、終りだけは確実にある。


 幹夫は腕時計を見た。時計は黙つてゐた。秒針が黙々と進むのを「黙つてゐる」と言ふのは妙だが、幹夫の感じではさうであつた。秒針は何も語らない。語らない癖に、着実に蝉の死へ向つてゐる。いや、蝉の死はもう終つてゐる。秒針が向つてゐるのは、幹夫自身の方かも知れない。


 ――荘子の言ひに、蟪蛄(けいこ)は春秋を知らず、といふ。


 幹夫は中学で習つた漢文の断片を思ひ出した。蝉は春と秋を知らない。短い命だからである。だが「知らない」といふことは、損であらうか。得であらうか。春秋を知らない代りに、蝉は夏を知り尽してゐるのではないか。知り尽してゐるといふのは、ただ鳴き尽すといふ意味である。鳴くことが知ることだとすれば、蝉は存外、賢いのかも知れない。幹夫はそんなことを考へてから、自分の考へ方が、急に癪(しやく)に障つた。


 賢いも愚かもあるものか。死骸は死骸である。


 彼はしゃがみこんで、蝉を覗き込んだ。蝉の複眼は濁つてゐる。濁つてゐるのに、幹夫を見てゐるやうに見える。見てゐるやうに見えるものは、見てゐるのである。少なくとも、見られてゐる方は、見られてゐる気がする。その気が、現実の半分以上を占めることがある。幹夫はその半分以上に、いつも敗けてゐた。


 彼はふと、蝉の生涯を「計算」してみたくなつた。計算さへすれば、納得が行く気がした。納得が行けば、何かが片づく気がした。――片づく訣がないのに。


 蝉は土の中で何年ゐるのか。七年か、六年か。種類にもよるだらう。静岡のこの辺りで鳴くのは、油蝉(あぶらぜみ)が多い。油蝉の幼虫は、六年くらゐ土中で暮す、とどこかの本に書いてあつたやうな気がする。六年。六年は二千百九十日である。そこに七日を足せば二千百九十七日。――二千百九十七日生きて、七日鳴いて、死ぬ。


 幹夫はその数字を舌の上で転がした。二千百九十七。妙に長い。長い癖に短い。長いのは「待つ時間」で、短いのは「目に見える時間」だ。人間の生活にも、その配分はよく似てゐる。幹夫は二十三年生きてゐる。二十三年は八千三百九十五日。だがそのうち、彼が「生きてゐる」と感じた日は幾つあるか。幾つもない。或は一つもない。さう考へると、幹夫は蝉よりも蝉らしく思へた。土の中で、声もなく、出口も知らずに、ただ根の汁を吸つてゐる――それが幹夫の生活に似てゐた。


 その時、背後から小さな足音が聞えた。


「兄ちやん、何してるの?」


 振り返ると、近所の子供がゐた。小学校の低学年らしい。短いズボンの膝が土で汚れてゐる。子供は幹夫の視線の先を見て、すぐに叫んだ。


「うわ、死んでる!」


 子供は嫌がるでもなく、面白がるでもなく、ただ声を出した。声を出せば、それで済むと思つてゐる声である。幹夫は何も答へなかつた。答へる言葉がない訳ではない。だが答へれば、説明が始まる。説明が始まれば、意味が生まれる。意味が生まれるといふのは、時として恐ろしいことだ。


 子供は蝉をつつかうとして、手を伸ばした。幹夫は反射的に言つた。


「触るな」


 子供は目を丸くした。幹夫自身も、自分の声の硬さに驚いた。幹夫は慌てて付け加へた。


「……ばつちいから」


 子供は「ふうん」と言つた。納得したのでも、反抗したのでもない。ただ「ふうん」である。子供は幹夫の横をすり抜け、路地の向うへ走つて行つた。走り去りながら、振り向きもせずに叫んだ。


「死んだら捨てるんだよ!」


 捨てる。捨てるとは、何処へ捨てるのだらう。ゴミ袋か。土か。川か。或は忘却の中か。幹夫は子供の言葉を追ひかけるやうに、蝉の死骸を見つめた。蟻が一匹、蝉の腹の縁を離れ、白線の外へ歩き出した。歩き出した蟻は、何かを諦めたのだらうか。或は誰かを呼びに行くのだらうか。幹夫には分らない。分らないことが、妙に羨ましかつた。


 幹夫は立ち上がつた。立ち上がると、蝉は急に小さく見えた。小さく見えれば見るほど、却つてその死が重く感じられた。重いのは死そのものではない。死を見た自分の心である。幹夫は自分の心が、蝉の死骸よりも始末が悪いことを知つてゐた。


 彼は足を一歩前へ出した。蝉の死骸は白線の上にある。避けようと思へば避けられる位置である。避けるのは容易い。容易いことほど、人間はわざと困難にする。幹夫は、避けるのが「善」だと知りながら、避けることが善である理由を疑つた。理由を疑へば、善は急に頼りなくなる。頼りないものに従ふのは、屈辱である。幹夫は屈辱を避けるために、蝉を避けるのをやめた。


 靴底が、蝉の腹を踏んだ。


 音はほとんどしなかつた。乾いた殻が、わづかに潰れるやうな、いや潰れたのかどうかも分らぬやうな、ささやかな感触だけが足の裏に残つた。幹夫はその感触に、奇妙な安堵を覚えた。安堵と同時に、胸がむかむかした。――安堵する訣がない。むかむかする訣もない。訣がないのに、どちらも確かにある。その確かさが、幹夫をいよいよ不快にした。


 幹夫は歩き出した。薬局まで行つても、買ふものはない。併し行つた。行つて、何も買はずに帰つた。帰る途中、あの路地へまた来た。わざわざ来たのか、偶然来たのか、自分でも分らない。分らないまま、彼は白線の上を見た。


 そこには蝉はなかつた。


 蝉の姿の代りに、黒い粉のやうなものが僅かに散つてゐる。翅の破片らしい透明な屑が、日光にきらりと光つた。蟻が群れてゐる。蟻は忙しさうに運んでゐる。運んでゐるものは、もう蝉の形をしてゐない。形を失つたものは、見ても胸が痛まない。痛まない訣がないのに、痛まない。幹夫はそのことに、また一つ羞恥を感じた。


 幹夫は、自分の靴底を見た。靴底には、何も付いてゐない。何も付いてゐないのに、あの感触だけが残つてゐる。残つてゐるのは感触だけではない。踏んだといふ事実が、どこかで彼を見張つてゐる。見張つてゐるのは誰か。神か。良心か。或はただ、彼自身の中の「誰か」か。


 夕方の風が吹いた。遠くで、まだ蝉が鳴いてゐた。鳴いてゐる蝉は、生きてゐるのだらう。だが生きてゐるとは、鳴いてゐることだらうか。鳴けなくなつた蝉は、死んでゐるのだらうか。――幹夫はその問いを、また計算で片づけようとした。片づけようとして、片づかないことを知つてゐた。


 彼は歩きながら、ふと思つた。


 自分の生も、いつか誰かに踏まれるのではないか。踏まれて、粉になり、形を失ひ、蟻に運ばれ、どこかへ消えるのではないか。――その時、自分の八千三百九十五日は、何日として勘定されるのだらう。七日か。二千百九十七日か。或は零か。


 幹夫は歩調を速めた。速めても、答は追ひつかない。追ひつかない答の代りに、夕暮れの影が長く伸びて来た。影は路地の白線の上を滑り、さつき蝉がゐた場所を、何事もなかつたやうに覆つた。


 幹夫はその影を見た。影は幹夫の形をしてゐる。しかし影の中には、幹夫自身がゐないやうに思へた。幹夫は急に、足の裏の感触を思ひ出した。あの、ほとんど音を立てない潰れ方。――彼はその潰れ方が、最も静かな断罪であるやうに感じた。


 幹夫は振り返らなかつた。振り返れば、そこに何もないことを確かめるだけである。何もないことを確かめるのは、時として何かを確かめるよりも残酷である。


 彼はただ、歩いた。歩きながら、いつか自分も、誰かの足の裏に「ほとんど音のしない感触」だけを残すのではないか――そんな想像を、捨てることが出来なかつた。

 
 
 

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