貝の風鈴
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 9分

昭和二十年代の半ば、蒲原の朝は、海から上がってくる薄い塩の匂いで始まりました。潮はまだ眠たそうに低く、浜の小石はころころと寝返りを打って、こつ、こつ、こつ……と、控えめな音を立てています。みかん畑の葉は夜露を抱えて、重たく光り、風が通るたびに、ひそひそと内緒話をしました。
幹夫は八つ。ランドセルの革がまだ新しいふりをしているのに、背中のあたりでは少しだけ硬い汗がにじんでいました。学校へ行く道は、いつもと同じです。踏切の赤い目、道ばたの野菊、薩埵峠の影の線。――なのに、今日は、道がどこか知らない土地につながっている気がして、足の裏だけが落ち着きませんでした。
その理由は、教室に入ったとたん、黒板の前で先生が言った一言でした。
「杉山俊くんはね、今週で転校だそうです。お父さんのお仕事の都合で、横浜のほうへ行きます」
俊――幹夫の隣の席の、あの俊。
幹夫の耳には、先生の声がいつもより遠く聞こえました。まるで、海の向こうの汽笛が霧をくぐってくるみたいに、言葉の輪郭だけがぼんやりして、胸の中へ届くまでに時間がかかりました。
横浜。地図の上では、ずっと右のほう。海の色も、汽車の音も、みかんの匂いも、蒲原とは違うところ。
幹夫は、机の角を指先でそっと撫でました。木のささくれが、少しだけ指に引っかかります。痛いほどではないのに、そこだけが妙に現実で、幹夫はその小さな痛みにしがみつきたくなりました。
俊は、何も変わらない顔で座っていました。先生の話を聞きながら、鉛筆をくるりと回している。いつもと同じ、少しうまい回し方。――それが、幹夫の胸をいっそう締めつけました。
休み時間、友だちは「いいなあ、横浜は電車がいっぱいだろ」とか「港があるんだって」とか、鳥が餌をついばむみたいに軽い声で言いました。俊は笑って、「さあな」と肩をすくめます。
幹夫も何か言わなければいけない気がしました。けれど喉の奥が、乾いた紙になったみたいにひりひりして、声が擦れてしまいそうでした。
言葉が出ないかわりに、幹夫の中では小さな感情が次々に姿を変えていました。
最初は、信じられない、という白い霧。 次に、置いていかれる、という冷たい潮。 それから、そんなふうに思ってしまう自分が恥ずかしい、という赤い熱。 恥ずかしさの裏側で、どうしようもなく、俊のことが大切だ、という、青い重さ。
それらが一度に押し寄せて、幹夫の胸は、潮に浸った紙袋みたいにふにゃりと形を失いそうになりました。
昼休み、給食のパンの匂いが教室に広がっても、幹夫の鼻は半分しか働きませんでした。先生が黒板に字を書く、チョークのきゅっきゅっという音が、今日は妙に鋭く聞こえます。みんなの笑い声の間に、見えない隙間があって、そこから冷たい風が入ってくるようでした。
幹夫は、ふと、俊の横顔を見ました。 俊のまつげの影が、頬に薄く落ちていました。その影は、いつもと同じ長さなのに、もうすぐ見られなくなる影だと思うと、幹夫の目の奥が熱くなりました。
――泣くな。 ――でも、どうして泣いちゃいけないんだ。
幹夫は、その「どうして」が言葉にならないのが、いちばん苦しかったのです。
放課後、幹夫は俊に追いつきました。校庭の隅の砂は、午後の光でほんのり温かく、靴の裏にさらさらと鳴りながらついてきます。
「俊……帰り、海のほう、寄ってく?」 やっと言えたのは、それだけでした。もっと言いたいことは、胸の中でぐるぐるしているのに、口の出口まで来ると、糸が絡まってほどけません。
「いいよ」 俊はあっさり言って、幹夫の横を歩きだしました。
二人は畦道を抜け、みかん畑の端を通り、潮の匂いが濃くなるほうへ降りていきました。空は高く、薄い雲が、白い魚の群れみたいにゆっくり流れています。
幹夫は歩きながら、俊の靴の踵が上がったり下がったりするのを見ていました。踵が上がるたびに、俊が少し遠くへ行ってしまうようで、胸がきゅっと縮みます。
言わなきゃいけない。 「行くな」とか、「寂しい」とか。 でも、そんな言葉を言ったら、俊を縛ってしまう気がしました。 縛りたくない。 けれど、いなくなるのは耐えられない。
幹夫の心は、ちいさな舟が二つの潮に引っぱられているみたいでした。どちらへ漕いでも、もう片方が痛む。痛むのに、どちらも本当。
浜に着くと、波はいつもより静かでした。白い泡が縫い目になって、砂の上にすっと線を引いては消えます。潮に洗われた小石が、まるで誰かのため息みたいに丸く光っていました。
俊が、砂の中からひとつ貝殻を拾いました。小さな耳の形をした、薄い貝。幹夫はそれを見て、なぜだか急に胸がいっぱいになりました。
「それ、きれいだな」「うん。……音が入る貝だって、ばあちゃんが言ってた」 俊が貝を耳に当てると、確かに、しゅう……という音がしました。海の音なのか、風の音なのか、俊の血の音なのか。どれでもあるようで、どれでもないような、遠い音。
幹夫は、心の中でひそかに叫びました。 ――その貝みたいに、ぼくも俊の耳に、何か残せたらいいのに。
けれど、残したいものが、言葉の形になりません。 言葉にならないものは、手からすり抜ける。 幹夫はそのことが怖くて、砂をぎゅっと握りました。砂はすぐに指の隙間から落ち、手のひらに、ほんの少しの湿り気だけを残しました。
「幹夫さ」 俊が言いました。貝殻を見つめたまま。「向こう行っても、たぶん、すぐ慣れると思うんだ。電車も、町も」「……うん」「でもさ、こっちの海の匂いは、たぶん、忘れないと思う」 俊は、それだけ言いました。
幹夫の胸の中で、何かがひとつ、こつん、と鳴りました。 俊は、泣かないふりをしている。 自分と同じだ。 言葉は少ないのに、その少ない言葉の中に、いっぱい詰まっている。
幹夫は泣きたくなって、同時に、泣かせたくないと思いました。 だから、思いきって笑ってみせました。笑い声は少し、乾いた音になりました。それでも俊は、その笑いに合わせて、ふっと口角を上げました。
その瞬間、幹夫の中の青い重さが、少しだけ柔らかくなりました。 寂しさが消えたわけではありません。 でも、寂しさの中に、ちゃんと温かい芯があるのが分かったのです。
転校の日の朝、蒲原の駅は、いつもより少しだけ忙しそうでした。紙袋を持つ人、風呂敷を結んだ人。駅のベンチの木は冷たく、幹夫の手のひらは汗ばんでいました。
幹夫は、昨夜からずっと握っていたものをポケットに入れていました。 浜で拾った、耳の形の貝殻。 俊に渡そう、と決めたのに、決めたはずなのに。
俊の家族が来て、俊が改札の前に立ちました。俊の母さんが何度も頭を下げ、先生が短い挨拶をしました。みんなの声が混ざり合って、幹夫の耳には、潮騒のように聞こえます。
幹夫は前へ出ようとしました。 足が一歩、出ました。 けれど次の一歩が、出ませんでした。
渡してしまったら、ほんとうに行ってしまう。 渡さなかったら、ちゃんとさよならにならない。 その二つの怖さが、幹夫の足首に、見えない紐を巻きつけました。
汽車が入ってくる気配がしました。遠くから、低い振動が近づいてきます。線路が、どこかで小さくうなりました。
幹夫の喉が、きゅうっと縮んで、息が細くなりました。 泣くまいと思えば思うほど、目の奥が熱くなります。 熱くなるのに、涙は出ません。 涙が出ないのは、我慢が上手いからじゃありません。 涙が出る前に、胸の中がいっぱいで、涙の居場所がないだけでした。
汽笛が鳴りました。 それは、前に聞いた「長い笛の龍」の声より、もっと現実の声でした。 現実は、いつだって、やさしさより少しだけ硬い音を立てます。
俊がこちらを見ました。 幹夫と目が合いました。
幹夫はその瞬間、やっと分かりました。 俊も、待っている。 何か大きな言葉じゃなくていい。 ほんの少しの合図を。
幹夫は、ポケットの貝殻を握りました。 手のひらの中で、貝は冷たく、薄く、頼りないほど軽い。 でも、その軽さが、今の幹夫には救いでした。 重すぎるものは渡せない。 軽いものなら、渡せる。
幹夫は声を出しました。 声は震えました。 けれど、ちゃんと俊に届くくらいの大きさでした。
「俊! これ……!」
幹夫は貝殻を差し出しました。 俊は一瞬驚いた顔をして、それから、ふっと笑いました。 その笑いは、浜で聞いた笑いと同じで、少しだけ寂しさが混ざった、やさしい笑いでした。
「ありがとう。……耳に入れとく」
俊は貝殻を受け取って、胸のポケットに入れました。 その仕草が、あまりにも自然で、幹夫の胸の中の結び目が、ほどけました。
――ああ、渡せた。
涙が、そのとき初めて出ました。 出た涙は熱くなくて、潮風みたいに少ししょっぱくて、頬の上を速く流れました。 泣いてしまったのに、恥ずかしくありませんでした。 泣くことは、弱さじゃなくて、ちゃんと「ここにいる」という合図だと、身体が知ってしまったからです。
汽車の扉が閉まり、車輪が動きだしました。 俊は窓越しに手を振りました。 幹夫も手を振りました。 振る手の動きは、海辺の松の枝みたいに、少しぎこちなく、でも精一杯でした。
汽車が去ると、駅の空気がふっと軽くなりました。軽くなったぶん、幹夫の胸の中には、大きな空洞ができました。空洞は冷たく、風が通ります。
幹夫は、その空洞を抱えたまま、駅から浜へ歩きました。
浜は、さっきまでと同じように、波を寄せては返していました。けれど幹夫には、波が少しだけ違って見えました。泡が消える場所に、何か見えないものが残っている気がしたのです。
幹夫は砂にしゃがみ、両手を砂に埋めました。砂は冷たく、指の間をすり抜けます。 すり抜けても、砂は全部いなくなるわけじゃありません。 手のひらに、少しだけ残る。 湿り気が残る。 匂いが残る。
幹夫は、胸の空洞に、静かに言いました。
「俊、行ったな」 言葉にすると、空洞が少し、形を持ちました。「行ったけど……なくなったわけじゃ、ないな」
そのとき、海の上をカモメが一羽、すっと横切りました。白い腹が光り、翼が風を切る音が、かすかに聞こえました。カモメは何も言いません。けれど、幹夫には、あれが「続き」のしるしに思えました。飛んでいくものは、消えるのではなく、ただ別の場所へ移るのだ、と。
幹夫は立ち上がり、空洞のまま歩きました。 空洞は、痛い。 けれど、空洞があるから、風が入る。 風が入るから、いつか、別の温かさも入ってくる。
家に帰ると、縁側の窓辺に、前に拾った青いガラスの星が吊られていました。夕方の光を受けて、ほんの少し青く鳴る、あの星。
幹夫はその隣に、小さな紙を結びました。 紙には「俊へ」とだけ書きました。 それ以上は書けませんでした。書こうとすると、また胸がいっぱいになってしまうからです。
代わりに、幹夫は星の紐を少しだけ短くして、風が通るとき、からり、と鳴りやすいようにしました。
夜になって、薩埵峠のほうから風が降りてくると、星は小さく鳴りました。 からり。 それは、泣いたあとの胸に、ぴったり合う音でした。 さみしさを追い払う音ではなく、さみしさの輪郭をやさしく撫でる音。
幹夫は布団の中で目を閉じ、その音を聞きました。 胸の空洞は、まだそこにあります。 でも空洞の底に、さっきの俊の笑いが、小さな灯のように残っていました。
――耳に入れとく。
俊の言葉が、波の音に混じって、何度も戻ってきます。 幹夫は思いました。
言葉は全部言えなくてもいい。 言えないぶんは、風が運ぶ。 貝が運ぶ。 星が鳴って、運ぶ。
蒲原の夜は、潮の匂いの毛布を町にかけながら、ゆっくり更けていきました。幹夫の胸の中の空洞にも、同じ毛布がそっと敷かれていきました。空洞は消えませんでしたが、冷たさだけが少しずつ薄れて、かわりに、やわらかい眠りが入ってきました。
星が、もう一度だけ鳴りました。 からり。
その音は、別れの音ではなく、続きの音でした。







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