top of page

返し縫い

 紙を胸の内ポケットに入れていると、歩くたび、そこだけが少し重い。 重いのに、苦しくない。むしろ、その重さがあるから、胸の中の小さな警報が静かでいられる気がした。

 幹夫は浜まで行って、波の音の中で何度も紙を開いたり畳んだりした。 開くと「みきおへ」が立ち上がり、畳むと「ありがと」が折り目の中にしまわれる。 しまわれた「ありがと」は、声より長生きする。

 家へ戻る道、風が吹くたび内ポケットの紙が少しだけ動いて、胸の皮膚の上でかすかに擦れた。 その擦れが、返事の続きを催促するみたいだった。

 夜。 祖母が台所を片づけ、母は座敷で縫い物をしていた。針が布に入って出る音が、家の中の時間をほどよく揃えていく。 幹夫はその音を、いつもより近くで聞いていた。近くで聞くと、針は忙しい音じゃなく、落ち着く音になる。

 母の指が、あるところで止まった。 止まって、少し戻った。 戻って、また進んだ。

 幹夫はそれが不思議で、針先を目で追った。針は同じ穴に戻るのではなく、少しだけ手前に戻って、また前へ行く。戻りながら進むような動きだった。

「母ちゃん、それ……」

 幹夫が小さく言うと、母は縫い目から目を離さずに答えた。

「返し縫い」

 返し。 昨日の封筒の「返」の字が、すぐ胸に浮かんだ。返ってきた紙。返ってきた丸。 あの痛い返り方と、この針の返り方は、同じ字なのに、匂いが違う。

「返すの?」

 幹夫が聞くと、母は針を抜き、糸を指でぴんと張った。

「戻るだに。ほどけんように」

 ほどけんように。 その言い方が、幹夫の胸の奥にすとんと落ちた。

 母は縫い目を指でなぞりながら続けた。

「一回戻って、また進むと、強くなる。……そのまま前だけ行くと、弱いとこが開く」

 弱いとこが開く。 幹夫は、白い宛名欄の空っぽを思い出した。 空っぽのまま開いていた場所。そこが弱いのか、希望なのか、まだ分からない場所。

「紙も?」

 幹夫がぽつりと言うと、母の針が止まった。 止まった時間が、ひと呼吸ぶん長い。 母はゆっくり針を布から抜いて、糸を切らずに指で押さえた。

「……紙も、同じだに」

 母はそれだけ言って、また縫い始めた。 返して、進む。返して、進む。 針の動きが、波みたいに見えた。寄せて返す波。返るのに、浜が少しずつならされていく波。

 幹夫は、内ポケットの紙に触れた。 母の字の「ありがと」。小さな丸。 あれも返し縫いみたいだと思った。声にしないでしまって、でも、ちゃんと残して、次の一針へ進ませる。

 幹夫は急に、返したくなった。 今度は、自分が「返し縫い」をしたくなった。

 祖母が奥の部屋で布団を敷く音がして、家の中の灯りが少しだけ落ち着いてくる。 その落ち着きが、幹夫の背中を押した。

 幹夫は新聞紙の白い裏を一枚持ってきて、畳の隅に座った。 竹を継いだ鉛筆を出す。 芯の黒は、今日も夜より黒い。夜より黒いのに、怖くない黒。

 最初に、四角を書いた。 封筒の形。四角は落ち着く。落ち着くと、胸の中の警報が丸くなる。

 宛名に、「おかあちゃんへ」と書いた。 母の真似をして、ひらがなをゆっくり置く。置くたび、字が紙に座る。座ると、言葉が逃げない。

 次に、幹夫は迷った。 何を書く。 何を返す。

 返したいのは、「ありがと」だけじゃない。 でも「ありがと」だけなら、母の紙みたいに薄くして言える気がした。

 幹夫は書いた。

 > ありがと

 昨日と同じように、最後の「う」は書かなかった。 書かない、というのは嘘じゃない。恥ずかしさを折り畳む形だ。

 それから、母の紙にあった言葉を思い出した。 「きのう こわかったね」

 幹夫は「ね」が嬉しかった。 「ね」があると、怖さが一人の怖さじゃなくなる。 でも、幹夫は「ね」をうまく書けない気がした。書けないと、嬉しさが薄まる気がした。

 幹夫は鉛筆を持ったまま、母を見た。 母は返し縫いを続けている。戻って、進む。戻って、進む。 その背中は、さっきより少しだけ柔らかい。

 幹夫は、声を小さくした。

「母ちゃん……“ね”って、書ける?」

 母の針が止まった。 母は幹夫のほうを見て、少しだけ驚いた顔をした。驚いた顔は一瞬で、すぐ生活の顔に戻る。

「書けるよ」

 母は縫い箱の横の紙切れを一枚引き寄せて、鉛筆で小さく「ね」と書いた。 書き方が、返し縫いと似ている。曲がって戻って、また進む。 たった二画なのに、ちゃんと「ね」になっている。

「ここ、こう曲げるだに。……急がせんように」

 急がせんように。 母が針を扱うときと同じ言い方だった。

 幹夫は頷いて、自分の紙に戻った。 「ね」を書いた。最初は転んだ。転んだけれど、もう一回書いた。 二回目の「ね」は、まだ揺れているのに、ちゃんと笑っているように見えた。

 幹夫は、その「ね」の横に書いた。

 > ね うれしかった

 「うれしかった」の字は難しい。だから、幹夫はひらがなを一つずつ置いて、途中で息を整えて、最後まで置いた。 置けた、というだけで胸が温かくなった。温かくなると、次の言葉が少しだけ出る。

 幹夫はさらに書いた。

 > ぼくも こわかった

 書いてしまってから、少し恥ずかしくなった。 怖かった、なんて書くと、弱いみたいだ。 でも、母が「こわかったね」と書いたのだから、弱いことは悪いことじゃないのかもしれない、と幹夫は思った。

 最後に、名前を書いた。

 > みきお

 そして、紙の隅に小さな丸を描いた。 消印の丸じゃない。 母の丸に似せた、少し揺れる丸。 揺れているのに消えない丸。

 幹夫は紙を折り畳んだ。丁寧に。 折り畳むと、紙は声をしまえる形になる。 しまえる形になった声は、風に飛ばされにくい。

 幹夫は縫い箱のそばへ行き、母がさっき入れた場所を思い出して、同じように――縫い箱の下へ、そっと差し込んだ。 差し込むとき、畳が鳴らないように指先の力を抜いた。 抜く力が、返し縫いに似ていた。戻って、進む。戻って、進む。

 母は気づいたのか気づかなかったのか、何も言わなかった。 針の音は続いた。 けれど、針の音が少しだけ柔らかく聞こえた。

 その夜、幹夫は布団の中で、内ポケットの紙がない軽さを確かめた。 軽いのに、心は軽くない。 軽いのに、どこか満ちている。 自分の声を、返し縫いみたいに家の中へ戻しておいたからだ。

 翌朝、縫い箱の位置が、ほんの少しだけ違っていた。 ずれたというほどじゃない。 けれど幹夫には分かった。母が箱を持ち上げたのだ。持ち上げて、何かを見たのだ。

 朝飯のとき、母はいつもどおり「食べな」と言い、祖母はいつもどおり「熱いで気ぃつけ」と言った。 言葉はいつもどおりなのに、母の湯呑みの置き方が少しだけ柔らかかった。 それだけで十分だった。

 幹夫は、母の針の動きを思い出した。 一回戻って、また進む。 戻るのは負けじゃない。ほどけないようにするための戻りだ。

 返ってきた封筒も、もしかしたら――ほどけないように戻ってきただけなのかもしれない。 そう思うと、胸の中の警報が少しだけ丸く鳴った。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも、返し縫いの針の音は届く。 折り畳まれた返事も届く。 戻って、進む小さな動きが、この家を少しずつ強くしていくのだと、幹夫は指先で覚え始めていた。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page