返事の鈴
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 8分

九月の蒲原は、朝だけ、夏の背中をそっと撫でて「もう十分だよ」と言うような風を吹かせます。畦道の草の先に露がころんと乗り、その露が光を受けて、小さな硝子玉になりました。稲の穂はまだ青いところもあるのに、首のあたりが少しだけ重たくなって、風が渡るたび、さわ、さわ、と低い声で返事をします。駿河湾は遠くで青い板のように光り、薩埵峠の影は、細い帯になって町の端へ降りていました。
幹夫は八つ。朝の縁側に座って、井戸水で冷やした手ぬぐいを額に当てていました。冷たさが眉の上から胸の奥へ、すうっと落ちていくと、胸の中のざわざわも、いちどだけ底に沈みます。
そのとき、表の道で、
ちゃりん。
郵便屋の鈴が鳴りました。夏の間は同じ鈴でも、秋の入口の鈴は、どこか澄んで聞こえます。澄んだ音は、うれしいはずなのに、幹夫の胸はいつも一度、こわがりました。
――来るものは、いつも「来ないかもしれない」を連れて来る。
祖母が戸口へ出て、赤い帽子の郵便屋から、小さな包みを受け取りました。紙の擦れる音。紐のこすれる音。包みは封筒より厚く、でも弁当箱ほどではありません。厚みがあるというだけで、幹夫の胸の太鼓が、こつん、と鳴りました。
「幹。父さんだよ」
祖母が、いつもより少しだけ声を柔らかくして言いました。
幹夫は返事をしたのに、声が出たかどうか分かりませんでした。喉の奥が、紙みたいに乾いて、言葉の端が引っかかってしまったのです。うれしいのに怖い。怖いのにうれしい。二つが同じ皿に乗ると、息がちょっとだけ苦しくなります。
祖母が、包みの紐をほどきました。ほどく指は落ち着いていて、糸がするり、と逃げ道を見つけるみたいにほどけます。幹夫はその指を見て、胸の中の自分の糸も、同じふうにほどけたらいいのにと思いました。
中から出てきたのは、一枚の手紙と、油紙に包まれた小さなもの。
油紙を開けると、銀色の輪が出てきました。指輪ではなく、もっと大きくて、真ん中がぽっかり空いた輪。薄い金属でできた、工場のどこかの端のような輪です。触ると冷たくて、冷たいのに、手のひらの中で、なぜだか熱を持ちました。金属の匂いがしました。鉄と油と、遠い町の匂い。父のいる場所の匂い。
幹夫の胸の奥の空洞が、からん、と鳴る感じがしました。今日は冷たい鳴りではありません。空き瓶を指で軽く叩いたときの、澄んだ鳴りに近い鳴り方でした。
祖母が手紙を読み始めました。
「……『みきお。写真、届いた。走っている顔が、いい。風が見えるみたいだった』……」
風が見える。 その言葉で、幹夫の胸の中に、運動会の万国旗がしゃらりと鳴る音が、もう一度戻ってきました。戻ってきた音は、胸の奥の棚に、そっと置ける大きさでした。
祖母は続けました。
「……『同封の銀の輪は、工場の端材だ。これを風に当てると、きん、と鳴る。帰れない日もあるが、きん、と鳴ったら、俺が返事をしたと思え』……」
きん、と鳴ったら、返事。
幹夫は、その「返事」の字を見たわけでもないのに、胸の中でその二文字が黒く立ち上がるのを感じました。返事は、言葉です。言葉は遠いところへ届くための橋です。橋があると、遠さが少しだけ怖くなくなる。怖くなくなるのに、橋があるぶん、渡れない日が痛くなる。
幹夫は銀の輪を握りました。握った手のひらに、輪の冷たさが丸く残りました。その丸い冷たさが、父の手の丸い冷たさに似ている気がして、喉の奥がじん、と熱くなりました。
涙はまだ出ません。 出る前に胸がいっぱいになってしまう、あの感じ。 でも今日は、その“いっぱい”の中に、ちゃんと温かいものも混ざっていました。
学校の帰り、幹夫は銀の輪を布で包んで、ランドセルの内側にそっと入れていきました。歩くたび、輪がほんの小さく鳴りました。ころり、ころり。鳴りは小さいのに、「ここにある」という合図だけは確かでした。
踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと通っていきました。窓の中の灯は昼でも薄く、幹夫の目にはそれが、父のいる町へつながる小さな道標みたいに見えました。
こういちは校門のところで待っていました。袖をまくって、手首が少し麦茶色になって、ちゃんと蒲原の子の色になっています。
「幹夫、今日、顔ちがう」とこういちが言いました。「……父さんから、来た」
幹夫が言うと、「来た」という言葉が空気の中で一度光って、それからすぐ、胸の奥へ落ちました。落ちた瞬間、怖さも一緒に落ちてきました。「次は来ないかもしれない」という影が、いつも一緒にくっついて来るのです。
幹夫は、ランドセルから銀の輪を出しました。
こういちは目を丸くしました。
「なに、それ」「工場の……端っこだって」「きれいだね。月みたい」
月みたい、という言い方が、幹夫の胸にすっと入りました。月は遠いのに、夜になると誰の上にも来る。遠いのに、同じ光を置いていく。父も、遠いのに――そう思ったところで、胸の奥がちくりとしました。
「これ、鳴るんだって。風で……“きん”って」「じゃ、鳴らそう」とこういちが言いました。
幹夫は、鳴らしたいのに、躊躇しました。
鳴らすということは、吊るすということです。吊るすということは、風に任せるということです。任せると、落ちるかもしれない。傷がつくかもしれない。傷がついたら、父の匂いが減る気がして、幹夫は怖かったのです。
こういちは、その怖さを見抜いたのか、見抜かないふりをしたのか、ただ小さく言いました。
「鳴らさないでしまったら、返事が眠ったままになるよ」
眠ったまま。 その言葉に、幹夫は蛍の瓶を思い出しました。灯を閉じこめると、灯は弱る。弱るのが嫌で、返した夜があった。預かったものは返せる。返しても、光の通った跡は残る。
幹夫は、息を吸いました。潮の匂いと、稲の匂いが混ざって、肺に入ります。胸の空洞がその匂いで撫でられて、少しだけ冷たさが薄くなりました。
「……うちで、ばあちゃんに聞く」と幹夫は言いました。
縁側で祖母は、網のほつれを縫っていました。針が糸を通る音は、しゃり、しゃり、と涼しくて、幹夫の胸の中の乱れた糸を落ち着かせます。
幹夫が銀の輪を見せると、祖母はうなずきました。
「いい音の輪だね。土星みたいに穴がある」「吊るしても……いい?」「いいさ。鳴らさないと、父さんの“返事”が息ができない」
祖母は、輪の縁にすでに小さな穴が開いているのを確かめ、そこへ細い紐を通しました。結び目は小さく、でもしっかり。結び目は“戻った跡”を作るものだと、幹夫は糸電話の夜に知りました。
窓辺へ行くと、いつものものが並んでいました。
青いガラスの星。 割れた貝の星座の箱。 空の蛍瓶。 虹の海硝子。 庭の竹の短冊。
祖母は青い星の隣に、銀の輪をそっと吊るしました。輪は、青い星と少し距離を置いて揺れました。距離があるのがいい、と幹夫は思いました。近すぎるとぶつかって壊れる。遠すぎると届かない。ちょうどいい張りがあるように、ちょうどいい距離がある。
そのとき、薩埵峠のほうから風が降りてきました。
どっどど――。
風が縁側の柱を撫で、窓辺の紐を揺らしました。
青い星が、からり。 少し遅れて、銀の輪が、きん。
幹夫は、胸の奥がふっと熱くなるのを感じました。 からり、は「ここ」。 きん、は「遠く」。 そんなふうに、二つの音が、まるで短い会話みたいに続きました。
からり。 きん。
音はすぐ消えます。でも消えたあと、空気が少しだけ違って見えました。音が通った跡が、目には見えない線になって残っている気がしたのです。
幹夫は銀の輪を見つめました。輪はただ揺れているだけなのに、揺れ方に父の手の癖が混ざっているように見えて、喉の奥がまたじん、としました。
「……父さん、今、聞こえてるかな」 幹夫は、声に出してしまいました。
祖母はすぐには答えず、針を置いて、窓の外の風の向きを見ました。
「聞こえてなくてもいいよ」祖母が言いました。「聞こえるかどうかより、幹の胸が“聞いた”ってことが大事だ。返事ってのはね、相手の耳に届く前に、自分の胸に届くものもある」
幹夫は、その言葉が少し難しいのに、なぜだか分かりました。 父が本当に今この音を聞いていなくても、父が「きん、と鳴ったら返事だ」と書いたその心は、もう幹夫の胸に届いている。届いたなら、もう返事は半分終わっている。
その夜、こういちが来て、窓辺の音を一緒に聞きました。
からり。 きん。
「いいね」とこういちが言いました。「二つで喋ってるみたい」
幹夫は小さくうなずきました。うなずきながら、胸の奥の空洞を確かめました。空洞はまだあります。消えません。けれど今夜の空洞は、冷たい穴ではなく、音が通る筒でした。筒なら、息ができる。息ができるなら、待てる。
寝る前、幹夫は机に向かって、父へ短い手紙を書きました。
「とうさん」 「ぎんのわ つるしました」 「きん と なりました」 「からり と いっしょに なりました」 「ふうが ここに います」
“早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。けれど今夜は、それが逃げではなく、糸を張りすぎないための加減に思えました。張りすぎると切れる。たるませすぎると寂しい。ちょうどいい張りで、きん、と返事が鳴る。
布団に入ると、窓辺の青い星が、遠くでからり、と鳴りました。少し遅れて、銀の輪が、きん、と返しました。
幹夫は目を閉じ、胸の中でそっと言いました。
――父さん。 ――今日は返事が鳴った。 ――鳴った返事は、消えたけど、通った跡が残ってる。
遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、またざあ、と寄せました。
その音の間で、幹夫の心臓の太鼓が、こつん、と一度だけ返事をしました。 今夜の返事は、切れそうな音ではなく、「つながっている」という静かな音でした。





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