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重箱の黒

重箱の蓋は、棺の蓋に似ている。黒漆が光を呑み、光を呑んだまま返す——返ってくるのは、こちらの顔の「輪郭」だけだ。輪郭だけが戻るとき、人間は自分の中身を疑う。正月の朝、台所の隅で私はその輪郭を見た。眠りの名残りを貼りつけた顔、都会の乾いた癖をまだ落としきれぬ眼。黒は祝福の色ではない。黒は、祝福の言葉が届かぬ場所の色だ。

母は、何も言わずに蓋を開けた。開ける指が、妙に丁寧だった。丁寧さは愛情に似ている。似ているから危険だ。丁寧な手つきほど、こちらの罪を浮き彫りにする。母の指先は、年のぶんだけ節くれだっていた。節は努力の跡だ。努力の跡ほど見苦しいものはない。見苦しいのに、見苦しさがなければ生は保てない。

重箱の中に、世界が収まっていた。世界は整っている。整いすぎて、不気味だった。黒豆が艶を持ち、数の子が黄に透け、栗きんとんが金色の粘りで光り、伊達巻が渦を巻いて、海老が背を曲げたまま黙っている。どれも生き物の形を残しているのに、どれも生きてはいない。生きていないものほど、祝われやすい。生きていないから、安心できるのだ。

「ほら、冷めないうちに」

母が言った。冷めないうちに、とは奇妙な言葉だ。おせち料理は、本来、冷めるために作られる。火を離れ、味を濃くし、日持ちするように塩や糖で時間を縛りつける。時間を縛りつけた料理を、冷めないうちに食べろと言う。矛盾は、生活の中でいつもいちばん誠実だ。

私は座卓の前に座り、箸を持った。箸は軽い。軽い箸が、こんなに重いものを運ぶ。重いのは食べ物の量ではない。意味だ。意味の重さほど厄介なものはない。意味は胃では消えないからだ。

テレビでは、晴れ着の女が笑っていた。笑いは明るい。明るい笑いは、部屋の隅を見えにくくする。見えにくくなる隅に、父の席があった。父は去年の秋から病院にいる。生きているのに、ここにいない。いないという事実ほど、正月に似つかわしい不在はない。正月は、いつも「いないもの」を数える儀式なのだ。

母が盃を出した。酒が注がれ、透明な液体が、盃の内側でひと呼吸する。透明は清潔のふりをする。透明のふりほど不潔なものはない。透明は、匂いを隠してしまうからだ。酒は匂いを持つ。匂いを持つものだけが人間を酔わせる。

「あなた、今年はどうするの」

母は、箸を動かしながら言った。質問は、正月の刃だ。年の初めに投げられる質問は、いつも一年分の重さを持つ。

どうする。東京へ戻り、同じ机に座り、同じ会議で同じ笑い方をするのか。それとも、ここに残るのか。残るという言葉は美しい。美しい言葉ほど危険だ。残るために何を捨てるのか、誰も言わないからだ。

私は答えの代わりに、黒豆を一粒つまんだ。黒豆は、甘く煮しめられ、艶を持っている。艶は誘惑だ。誘惑はいつでも「大丈夫」という顔をする。歯で潰すと、皮がわずかに抵抗し、次に中身が崩れる。崩れるとき、甘さが広がった。甘さは優しい。優しさは油断を生む。油断した胸に、ふいに父の声が差し込んできた。

——豆は、まめに働けってことだ。

父はそう言って、笑ったことがある。笑いは薄かった。薄い笑いは照れの仮面だ。父は照れた。照れる父を、私は当時うまく見られなかった。見られないものほど、後で胸に刺さる。

数の子に箸を伸ばすと、母がほんの一瞬だけ目を伏せた。数の子は、あまりにも明快な象徴だ。数。子。子がいないことは、罪ではない。だが罪ではないものほど、家族の席では罪の形をとる。

私は数の子を噛んだ。ぷつぷつと歯の間で弾ける。弾ける音は、生の音に似ている。似ているから残酷だ。生は、こうして小さく弾けるくせに、肝心なところでは驚くほど黙る。父が倒れた日、父は何も言わなかった。ただ手の甲の血管が浮き、息の回数が変わり、目が遠くなった。言葉は一つもなかった。

「病院、行く?」

母が言った。箸を置かずに言う声だった。箸を置かずに言える問いは、生活に根を持っている。根を持つ言葉ほど折れない。折れない言葉は、こちらの逃げ道を塞ぐ。

「行くよ」

私は言った。自分の声が思ったより低かった。低い声は決意のふりをする。ふりをしているうちに、決意は形になる。形になった決意は、後で自分を縛る。だが縛られない決意は、ただの気分だ。

母は小さく頷いた。頷きは楽だ。頷けば、説明を省ける。説明ほど重いものはない。説明は、誰かを納得させるためにある。納得は、ここではむしろ残酷だった。父がなぜこうなったのか、私がなぜこうなのか、母がなぜ一人で重箱を詰めるのか、納得してしまえば、すべてが「当然」になってしまう。当然になった不幸ほど、冷たいものはない。

私は栗きんとんを口に運んだ。舌に触れた瞬間、甘さが押し寄せる。甘さは保存の味だ。腐敗を遅らせるための、過剰な甘さ。過剰は贅沢に見える。贅沢に見えるものほど、貧しさの裏返しだ。栗きんとんは金色だった。金色は祝福の色に見える。だが金色は、金色であるがゆえに薄汚れる。金は、指紋を嫌う。嫌うのに、誰もが触りたがる。触りたがるから、金はいつも曇る。

母の手が、海老を小皿へ移した。海老は背を曲げている。老いの象徴だと言う。象徴は簡単だ。簡単な象徴ほど残酷だ。私は海老の殻を剥いた。殻は硬く、硬さは生の鎧だ。鎧を剥ぐと、白い身が現れる。白い身は潔白ではない。白い身は、誰かに食べられるための準備だ。準備された白さほど、哀しい。

「お父さんね」

母が、不意に言った。

「去年、食べなかったの。おせち」

私は箸を止めた。止めた箸は、宙に浮いた刃物に似ている。母は続けた。

「匂いだけ嗅いで、蓋を閉めて。……蓋を閉める手だけは、昔と同じだった」

蓋を閉める手。それが、父の最後の正月の「作法」だったのかもしれない。食べるという行為は、未来へ向かう行為だ。食べれば、体は明日を要求する。明日を要求することが、父には苦しかったのだろうか。あるいは、明日を要求できない自分を、父は静かに恥じていたのだろうか。

恥。恥は、生きる側の感情だ。だから私は、父が恥を持っていたことに、救われるような気がした。救いという言葉は嫌いだ。救いは甘い。甘い救いはすぐ物語になる。だが恥は甘くない。恥は、こちらの喉を締める。締める喉の痛みだけが、虚飾を拒む。

私は伊達巻を食べた。卵の甘さと、魚のすり身の匂いが混じる。混じる匂いは、どこか嘘に似ている。嘘は悪ではない。嘘は、生活の接着剤だ。伊達巻は巻かれている。巻くという行為は、隠すという行為だ。隠したいものがあるから、人は巻く。巻かれたものほど、解かれたときに無防備になる。

私はふと、自分の胸にも何かが巻かれているのを感じた。東京で巻いたもの。言い訳。平静。忙しさ。巻きすぎて、中身が分からなくなった。分からなくなった中身を、正月はいとも簡単に引きずり出す。重箱の黒が、鏡のように私を映すからだ。

「今年は、ちゃんと食べなさいね」

母が言った。その「ちゃんと」が、胸を刺した。ちゃんと、とは何だ。ちゃんと働く。ちゃんと帰る。ちゃんと結婚する。ちゃんと子を持つ。ちゃんと看取る。ちゃんと泣く。ちゃんと生きる。ちゃんとは、いつでも誰かが決めた線だ。線は細いのに、足を切る。

私は母の手を見た。指先に、薄く出汁の色がついている。出汁の色は茶色い。茶色は地味だ。地味な色ほど、生活の本体だ。母は重箱の中を、また少し整えた。整える癖は、崩れる前提の癖だ。崩れるのが怖いから、整える。整えることでしか、母はこの家の時間を保てないのだろう。

私は言った。

「……俺、少し、ここにいようかな」

言葉は、思ったより簡単に出た。簡単に出る言葉ほど怖い。簡単な言葉は、現実の重さに耐えられないことがある。

母は箸を止め、私を見た。その目が潤む前に、母は目を伏せた。潤みは、涙の入り口だ。涙は温かい。温かいものは、すぐに物語へ流れたがる。母は物語にしなかった。物語にしない強さが、母の老いの中にあった。

「そう」

母はそれだけ言った。それだけで十分だった。十分、という言葉も危険だ。十分は満足の顔をする。満足は甘い。甘い満足は腐る。だがこの「そう」は甘くなかった。甘くないから、腐らない。

窓の外で、近所の子が凧を揚げている声がした。凧の糸が風を切る音は、乾いている。乾いた音は正しい。正しい音ほど残酷だ。正月は、こうして乾いたまま進む。

私は、重箱の蓋をそっと持ち上げ、もう一段を開けた。開けるたび、匂いが増える。匂いは時間の扉だ。扉を開ければ、閉じ込めたものが出てくる。昆布巻きの黒い艶、田作りの焦げた甘さ、紅白かまぼこの硬い清潔。紅と白。祝いの色。だが紅は血に似ていて、白は骨に似ている。祝いとは、血と骨の上に布をかけることかもしれない。布をかけなければ、人間は生きられない。生きるというのは、そういう卑しい芸だ。

私は箸を動かし続けた。おせちは、腹を満たすための料理ではない。腹を満たすためなら、こんなに甘くする必要はない。こんなに固くする必要はない。おせちは、時間を固め、痛みを包み、崩れそうな一年の輪郭を、黒漆の箱にいったん収めてしまうための料理だ。

母の手が、また何かを整える。私の手が、また何かを食べる。父の席は空のまま。空は、埋まらない。埋まらない空だけが、家族を家族にすることもある。

黒い蓋の内側に残る、わずかな漆の匂いを嗅ぎながら、私は思った。新しい年とは、真新しい白紙ではない。去年の匂いを、少しずつ噛み砕いて、飲み込める形にする——その不器用な作業のことだ。

そして私は、今日だけはその作業を、逃げずにやる。美しくもなく、立派でもなく、ただ箸の先で。

 
 
 

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