雪の匂い
- 山崎行政書士事務所
- 1月18日
- 読了時間: 4分

雪の匂いは、街のそれと違う。鼻の奥に刺さる冷たさの中に、針葉樹の青い樹脂の気配が混ざっていて、吸い込むたびに肺の内側が洗われていく。ポーランドのイゼラ山地――オルレの集落に着いたのは、空がいちばん澄む時間だった。雲は薄く、冬の青がそのまま頭上に張りつめている。陽は低いのに光が強く、雪面は白というより、細かなガラスの粒が無数に敷き詰められたみたいにきらめいていた。
足元の雪を一歩踏むと、「ぎゅっ」と短い音がした。粉雪のふわりではなく、冷えきった雪が圧を受け止めるときの硬い鳴き声。靴底の周囲から雪が少しだけ盛り上がり、すぐに沈黙へ戻る。その沈黙が、驚くほど深い。遠くの車の音も、人の声も聞こえない。あるのは、たまに風が森の上を撫でる気配と、自分の吐く息だけだ。
目の前には、広い雪原が開けていた。まっさらな白一色……ではない。雪の上には、いくつもの細い線が走っている。クロスカントリースキーの跡だろう。まっすぐ伸びる筋、途中で交差する筋、ゆるく弧を描く筋。誰かがここを横切り、曲がり、止まり、また進んだ痕跡が、雪の上にそのまま「地図」になって残っている。私はその線を目で追いながら、知らない人の時間に触れているような気分になった。見えない誰かが、ここで息をして、ここで前に進んだ。そのことが、静けさの中でやけに温かい。
雪原の中央に、背の高いトウヒが一本、真っ直ぐに立っていた。枝は重たく垂れ、緑の層が幾重にも重なる。陽を受けた部分だけが少し金色に染まり、日陰は深い緑から黒へ落ちる。木の影が雪面に長く伸びて、スキーの線と交差し、雪の白をさらに白く見せている。影は冷たいのに美しくて、私はうっかり足を止めた。冬の景色は、派手に何かを主張しない。けれど、静かなまま心の奥へ入り込んで、動けなくさせる力がある。
左手の斜面の向こうに、家々が見えた。急な屋根に雪が乗り、棟の線が丸くなっている。木造の壁は陽に照らされて柔らかい色を帯び、窓は空の青を薄く映している。煙突から煙は出ていない。それが少しだけ寂しくて、同時に、妙に安心した。ここは誰かの暮らしの中心というより、冬の間だけ眠る場所――そんな風に見える。眠っているからこそ、余計な音がなく、森と雪と空が等しい力でそこにある。
遠くには、森の帯が地平線を作っていた。針葉樹が密に並び、黒緑の海のように続いている。山の稜線はなだらかで、冬の光の中では厳しさよりも静けさが勝つ。私はその森を見ながら、なぜだか自分の胸の中が少し軽くなるのを感じた。旅に出る前、頭の中には予定や締切や返事の必要なメッセージが絡み合っていた。ほどけない糸を無理に引っ張って、指先が痛くなるみたいな日々。けれど、この雪原の前に立つと、その糸がいったん視界の外へ押しやられる。大事なのに、今すぐ大事にしなくていいものとして、そっと脇へ置ける。
私は雪の上の線を一つ選び、ゆっくり歩き出した。足を上げるたび、ズボンの裾に冷気が当たり、膝の裏がきゅっと縮む。けれど歩くほど血が巡り、身体の内側に小さな火がついていく。息を吸う。冷たい。吐く。白い。――それだけのことが、いつの間にか確かなリズムになる。雪の上では、呼吸が生活の中心に戻ってくる。普段は背景に退くはずの呼吸が、ここでは主役だ。
ふと、雪原の真ん中で立ち止まり、振り返った。さっきまで見ていた線の上に、私の足跡が新しく重なっている。たった数十歩の跡なのに、それが妙に愛おしい。私は旅先でよく「何かを見た」「どこへ行った」と結果を欲しがる。でも今は、足跡があるだけで十分だと思えた。ここに立った。ここで息をした。ここで冷たさを感じた。――それだけが、私の今日の証拠になる。
空は相変わらず澄んでいる。雪は眩しいのに、目が痛くならない。冬の光は鋭いはずなのに、どこか柔らかい。たぶん、雪が光を分散しているのだろう。世界が刺々しくならないように、白が間に入って、角を丸めてくれる。私はそのことにふと気づき、「自分もそうでありたい」と思った。誰かの言葉や出来事に、すぐ尖って反応するのではなく、一度、雪みたいに受け止めて、光を散らせる人間でいたい。
家々の方へ戻る途中、森から一羽の鳥が飛び立ち、羽音だけが空気を切った。たったそれだけの音が、この場所では大きく響く。私はその響きを胸の奥で受け止め、少しだけ笑った。静けさは、孤独と紙一重だ。けれど、孤独は必ずしも寂しさではない。むしろ、余白だ。余白があるから、心が勝手に整い始める。
オルレの雪景色は、何かを「見せつける」場所ではなかった。ただ、そこにある。雪が屋根を丸くし、森が遠くまで続き、誰かのスキーの線が白の上を走っている。私はその「ただそこにある」に救われながら、ゆっくりと集落の方向へ歩いた。足元ではまた、雪が小さく鳴った。その音は、今日の私にとって、いちばん確かな旅の記憶になった。





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