霜の星図
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

十一月の蒲原は、朝いちばんの空気が薄い硝子みたいに澄んでいて、息を吸うと胸の奥へ、白い道が一本すうっと通る気がします。畦道の土は夜のあいだに固くなり、踏むと、こりっ、と小さく鳴りました。薩埵峠の影は長い帯になって町の端を撫で、駿河湾は遠くで鋼の板みたいに光っています。波は低く、しゅう……ざあ……と、控えめに息をしていました。
その朝、幹夫はまだ暗いうちに目が覚めました。
寒さで目が覚めたのではありません。 “何かが光っている感じ”で、目が覚めたのです。
布団の中から顔だけ出すと、障子の向こうの硝子が、白く、細かく、光っていました。月の光でも、提灯の灯でもありません。白い光の模様が、硝子いっぱいに広がっている。
幹夫は、息を止めました。
――霜の花だ。
霜は、ただ白いだけじゃなくて、葉っぱみたいな形をしていました。細い茎が伸びて、そこからまた細い葉が分かれて、分かれた先が、もっと細い羽みたいになっている。まるで、冬が硝子の上に、見えない筆で描いた草むらです。
幹夫は布団から出て、足の裏をそっと畳に置きました。畳は冷たくて、冷たいのに、その冷たさが「今ここだよ」と教えてくれる冷たさでした。
硝子に近づくと、霜の模様が、もっとはっきり見えました。 白い筋が集まって、どこかで輪になり、どこかで道になり、どこかで枝分かれして――
幹夫の胸の奥が、こつん、と鳴りました。
――星座だ。
割れた貝の星座の箱の中の欠片より、ずっと大きい星座。 火鉢の灰の上に描いた星座より、ずっと透明な星座。 硝子の宇宙に、冬が一晩で作った星座。
幹夫は、嬉しくて、同時に怖くなりました。
嬉しいのは、こんなにきれいなものが、いま目の前にあるから。 怖いのは、日が出たら、すぐ消えてしまうと知っているから。
消える、と分かった瞬間、胸の奥の空洞が、ひゅっと冷たい風を吹きました。凪の日に銀の輪が鳴らなかったときの、あの風。手を伸ばしても、掬えない月を掬おうとしたときの、あの風。
幹夫は、霜の星図に手を伸ばしかけて、止めました。触れたら、溶ける。溶けたら、いなくなる。
――父さんにも見せたい。 ――でも、持っていけない。
その思いが喉の奥で紙みたいにひっかかって、幹夫は小さく息を吸いました。吸った息は白くならないのに、胸の中では白い道になって、少しだけ落ち着きを作ってくれました。
そのとき、奥の部屋で祖母が起きる音がしました。布団がこすれる音、戸が小さく鳴る音。祖母は、幹夫の立っているところを見て、すぐに分かったように言いました。
「霜が咲いたかい」
祖母の声は、驚いた声ではありませんでした。 “毎年のこと”の声。 でも、その“毎年”の中に、ちゃんと今朝の白さが入っている声でした。
「うん……星座みたい」と幹夫が言うと、祖母はうなずきました。
「冬の手紙だね。硝子に来る便りだ」
便り。 その言葉で、幹夫の胸の奥が、こつん、ともう一度鳴りました。返事は音だけじゃない。紙の黒い丸でも、結び目でも、匂いでも来る。霜も、便りになる。
でも便りは、すぐ消える。
「……消えちゃう」と幹夫は言ってしまいました。 言った瞬間、恥ずかしくなりました。消えるくらいで、と自分で自分を叱りそうになる。でも祖母は叱りませんでした。
「消えるよ」祖母は言いました。「だから、写すんだ」
写す。
暗室の白い紙が、白の底から像を出してきたあの夜が、幹夫の胸にふっと浮かびました。急ぐと曇る。じっと待つと出てくる。
「炭、あるだろ。火鉢の」祖母は言いました。「炭は黒いけど、黒いのは“写す道具”になる。紙を当てて、そっと撫でてごらん。霜の星図が、紙の星図になる」
幹夫の胸が、少しだけ軽くなりました。 “残せる”という言葉は、胸の空洞をすこし丸くします。
祖母は火鉢の灰から、小さな炭のかけらをひとつ取りました。炭は黒いのに、手のひらに乗せると、どこか温かい気がしました。火の名残りの温かさではなく、火が通ったという記憶の温かさ。
「紙は薄いほうがいい」と祖母が言って、便箋より薄い半紙を一枚出しました。 紙は白くて、白いのに、霜の白とは違う白でした。紙の白は“待つ白”。霜の白は“消える白”。
幹夫は硝子に半紙をそっと当てました。紙が冷たい硝子に触れると、しゅっ、と吸い付くように貼りつきました。貼りついた瞬間、紙が少し透けて、霜の模様が薄く見えます。
見えたとたん、胸がきゅっとしました。 ――いま、ここにある。
この“いま”を、乱暴にすると壊してしまう。壊したくない。壊したくない気持ちが強いほど、手が固くなる。固くなると、炭で擦る手が重くなる。
幹夫の指先が、少し震えました。
そのとき、門のほうで、ぱたぱた、と足音がしました。 こういちでした。袖をまくった手首が朝の冷たさで少し白く見えます。でも目は、ちゃんと落ち着いていました。
「幹夫、霜?」「うん……写す」
こういちはすぐに状況を見て、声を小さくしました。
「息して。……手、軽く」
息して。
その二文字は、何度も幹夫の胸に梯子をかけてくれました。幹夫は息を吸いました。冷たい空気が肺に入って、胸の中の熱い石が少し丸くなります。丸くなると、指先も丸くなる。
幹夫は炭を持って、紙の上をそっと撫でました。 ごしごしではなく、さらり、と。
すると、紙の白の上に、黒がじわっと広がりました。黒はただの黒ではなく、霜の模様の“間”だけが黒くなる黒でした。霜の筋のところは白のままで、周りが黒く染まっていく。
白い筋が浮かび上がりました。 まるで、夜空の黒の中に、星の道が出てくるみたいに。
幹夫は息を止めそうになって、また息をしました。止めると胸が固くなる。固くなると、手が乱暴になる。乱暴になると、霜も紙も傷む。
こういちが、紙の端をそっと押さえてくれました。押さえ方が、押さえつける押さえ方ではなく、風でめくれないように指を置く押さえ方でした。
「すごい」とこういちが言いました。「白い道が出てくる」
幹夫は、黒くなっていく紙を見ながら、胸の奥がじん、と熱くなるのを感じました。涙の前の熱。熱いのに痛くない。ほどける熱。
――消えるものも、写せる。 ――掬えない月も、水に映せたみたいに。
紙の上の霜の星図は、少し歪んでいました。炭が濃くなったところ、薄いところ。指が強く当たったところが、ちょっとだけ黒くえぐれている。でも、歪んでいるのに、ちゃんと“今朝”がそこにいました。
祖母が言いました。
「歪んでいい。星座だってね、見る人の目で形が変わる。変わっても、星は星だ」
幹夫は、その言葉が胸にすっと入って、息が深くなりました。歪んでもいい。歪んでも残る。
写し終わって紙をはがすと、硝子の霜はまだ残っていました。残っているのに、もう“怖くない残り”に見えました。紙のほうに、もう道ができたからです。
紙の星図を火鉢の近くに置いて乾かすと、炭の匂いがほのかに立ちました。炭の匂いは、しおりの焦げの匂いと同じ仲間でした。冬の匂い。
幹夫はふと、父から届いた“匂いのしおり”を思い出しました。 みかんの匂いに、焚き火の匂いが足されたしおり。 いま、霜の星図には、炭の匂いが足された。
――匂いは、しおりになる。 ――黒も、しおりになる。
日が少し上がると、硝子の霜は、端からゆっくり薄くなっていきました。薄くなるところは、白が白ではなくなって、透明へ戻っていく。戻っていくのを見ると、胸が少しだけちくりとしました。
でも、今日はちくりが針の痛みではありませんでした。縫い目の痛みでした。縫い目の痛みは、残った紙を見れば、ちゃんと収まります。
幹夫は、乾いた霜の星図を小さく折って、封筒に入れました。 封筒に入れると、紙は逃げません。封筒は、風の封筒と同じで、守るための閉じ方。
封筒の中に、焦げた端のある匂いのしおりも、いっしょに入れたくなりました。でも、しおりは本に挟んでおきたい。挟んでおくと、戻る場所がある。戻る場所があると、幹夫は迷子になりにくい。
だから幹夫は、しおりの代わりに、紙の端を少しだけ炭で撫でました。指先に黒がついて、手のひらが汚れた。でもその黒は、嫌な黒じゃありませんでした。火鉢の銀河の黒。霜の星図の黒。
こういちが、黒くなった指先を見て言いました。
「手が、星になってる」「……ほんとだ」と幹夫は言って、少しだけ笑いました。
笑うと胸がちくりとする癖は、まだあります。でも今日は、笑いの下に、父へ送る“冬の手紙”があるので、ちくりがすぐに縫い目の痛みに変わりました。
夕方、祖母と幹夫は郵便局へ行きました。畦道の影は長く、風が冷たく、でも怒ってはいません。踏切が――カン、カン、と鳴り、汽車がことことと薩埵峠の影へ入っていきました。運ぶ音が、今日は少しだけ頼もしく聞こえます。
窓口で封筒を渡すと、紙が紙の上に置かれて、ごとん、と小さく鳴りました。朱い印が、ぽん、と押されました。朱い花が咲く音。
幹夫の胸の奥が、からん、と鳴りました。 空っぽになる鳴り。 でも今日は、冷たい鳴りではありませんでした。道が一本、外へ伸びた鳴りでした。
帰り道、薩埵峠のほうから、細い風がひとすじ降りてきました。
家に着くころ、窓辺で、
青いガラスの星が、からり。 少し遅れて、銀の輪が、きん。
からり(ここ)。 きん(遠く)。
火鉢が、ぱち。 (いま。)
幹夫は、その三つを胸の中で並べました。並べると、胸の奥の空洞が、冷たい穴ではなく、音と匂いと紙が通る筒になりました。
幹夫は机に向かって父へ短い手紙を書きました。
「とうさん」 「けさ まどに しもが さきました」 「ほしざ みたいでした」 「すみに ちょっと こすって うつしました」 「くろい そらに しろい みちが でました」 「ふゆの てがみ です」 「こっちは きょう からり と きん と ぱち でした」
書き終えると、指先の黒が少し残っていました。 残った黒は、消えない消印みたいで、幹夫はそれをしばらく見つめました。
――消えても、跡が残る。 ――跡が残るなら、怖すぎない。
布団に入ると、遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡しました。波がしゅう、と引いて、ざあ、と返しました。虫の声は細く、りん……りん……と、夜の布を小さな針で縫っていました。
幹夫は目を閉じて、硝子の霜の星座を思い浮かべました。霜は溶けてしまう。でも、紙の星図は残る。残るのは、霜そのものじゃない。霜を見て、手をやさしく動かした自分の時間。
窓辺で青い星が、ごく小さく、からり。 銀の輪が、それに返して、きん。
その返事を聞きながら、幹夫の胸の空洞は、今夜も冷たい穴ではなく、冬の白い道が通っていく、あたたかい筒のままでした。





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