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静岡夜曲

  • 山崎行政書士事務所
  • 5月10日
  • 読了時間: 13分



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第一章 士族の末裔

大正三年の春、駿河の国・静岡市は、日増しに暖かさを帯びる陽射しに包まれていた。灰色に霞む富士山の遠景を仰ぎ見れば、早春の風に乗って茶畑の香りが、どこか穏やかに漂ってくる。この町の旧士族屋敷に育つ伊藤幹夫は、十三にして早くも古い武家の習わしに飽いていた。あるいは、幼いながらにして「広い世界と新しい事物」への懐かしさとも似た憧れを覚えていたのである。父・伊藤親房は元幕臣の家柄を誇り、県庁に勤める官吏。母・雪江は古風な奥方として、静かに家を取り仕切る。幹夫のまわりには七人もの兄姉がおり、それぞれが軍人を目指したり女学校へ進学したりと、多様な道を歩みつつあった。けれども、それら兄姉の動向すら幹夫にはどこか物足りなく見える。膝を正して父の威厳に耳を傾けながらも、彼の眼差しはしきりに屋敷の外に向かいがちであった。

第二章 雑踏に惹かれて

ある夕刻、幹夫は薄暮の町へこっそり足を運んだ。七間町の界隈には小劇場や活動写真館ができはじめ、昔からの家並みと新しい建物が入り混じっている。電灯がぽつぽつと灯りはじめ、通りには人力車と自転車、それに洋装で闊歩する青年たちの姿さえ見られるのだ。幹夫は当初、一目散に活動写真館へ行ってみようと考えた。しかし、耳をそば立てれば、三味線の音がかすかに流れてくる。その音色は昼間の喧噪が嘘のように夜の帳へ溶けこんで、まるで別世界への呼び鈴のようでもあった。「こんな静岡にも、東京みたいな色町があるのかもしれない……」十三の少年には少々早い探索である。だが父に厳しく禁じられるほどに、かえってその誘惑の光が増して感じられるのだった。

狭い路地を曲がると、どこか寂れた建物が連なり、黄色い行灯の灯る小料理屋らしき店がちらほら見える。幹夫は心の奥が奇妙にどきどきし、同時に不思議な落ち着きさえ覚えた。(もし父に見つかれば叱責は免れまい。それでも、今この瞬間に揺れる提灯や、混じり合う人々のざわめきが、あたかも自分を呼んでいるようだ。)少し歩いた先で、浪花節か都々逸か、粋な唄のようなものが微かに聞こえてきた。鼻に入るのは香ばしい焼き魚か、あるいは煮染めの匂いか。いつしか町の昼間とは違う、夜の湿った空気が幹夫を包んでいる。

第三章 夜の商店街

ちょうどその頃、静岡の町では商店街の拡張や明かりの整備が進められていた。大きな呉服店や銀行の支店が建ち、電灯の列が夜通し人々を誘う。昼間に眺めれば質素に見える通りも、闇のなかではなめらかな熱を帯び、往来する人の姿までどこか妖しく照らし出す。幹夫はその細い路地を抜け、新しく舗装された道へ出てみた。両側の店から漏れる光に引き寄せられると、洋装のマネキン人形が飾られている店先や、西洋菓子店の小粋なショーウィンドウなどが眩しい。ここは東京なのではなかろうか――そんな錯覚が少年の胸を高ぶらせた。しかし、一方で夜陰に沈む裏手のほうへ目を向ければ、屋根が低く古色を帯びた町家が幾筋も固まり、屋号も看板も古びた文字が残されている。そこに年老いた猫がうずくまり、鯛焼きを売る荷車の行商がひとり、ぽつんと立ちつくしていた。幹夫はその景色に一種の淋しさを感じながらも、かすかに安堵する。いっそ、こうした色のない佇まいのほうが、武家屋敷で育った自分には相応しいのかもしれない、と。しかし心は、さきほど見た活動写真館や、どこかに潜むらしい色町へ強く引かれているのだ。じっとしていられない――幹夫はまた彷徨うように夜の道を歩きだした。

第四章 姉の面影

家に戻ると、長姉・文江が廊下の電灯の下に立ち、幹夫を問い詰めるような目で見た。「幹夫、また夜の町へ行っていたの? 父様が知れば大目玉を食らうわよ」厳しく叱りながらも、その声にはどこか心配を滲ませている。文江も、いま女学校を出てさらに勉強がしたいと願い、母と対立していた身だ。女が高等教育を受けるなど時代錯誤だ、と母に言われながらも屈しない姉に、幹夫はどこか畏敬を抱いている。「あの町はどうにも落ち着かなくてさ……でも、なんだか歩いていると気が晴れるんだ。姉さんはそんな気持ち、わかるかい?」問いかけに、文江は少し神妙な面持ちで「静岡もずいぶん変わってきたわね」と呟いた。父母の知らない“新しい世界”を感じながらも、それを素直に享受できない。この家に育つ子どもたちは、古風な誇りと時代の変化の狭間で身動きできなくなっているような気がする。姉と弟――互いに言葉を交わさなくとも、その閉じられた世界への焦燥を理解し合うのであった。

第五章 西洋への眼差し

ある日、幹夫の通う中学校で、英語の教師が「ロシア文学」や「フランス文学」の話をしはじめた。まだ日本語に翻訳されたばかりという彼の持論に、クラスの生徒たちはぽかんとするばかり。だが、幹夫はその響きに目を輝かせた。「パリのモンマルトル、あるいはサンペテルブルクの街……」そんな地名を耳にするたび、遠い異国の都市が、一夜の夢のごとく宙に浮かびあがる気がする。静岡の茶畑や港町、古い武家屋敷の軒とはまるで無縁のような、豪奢で妖艶な都市の暮らし。(いつか東京へ、そして東京を越えて海外へ行ってみたい――)そんな思いが、幼い胸を掻き立てる。いっぽうで、父からは「家に伝わる武士の教えを忘れずに、どこへ行っても誇りを持て」と説かれている。幹夫は、父の背筋に宿る気高さは尊いと感じつつも、どこかで「鎖」のように感じる瞬間もあった。

第六章 揺れる人力車

幹夫は再び夜の町へ向かう。数回の抜け出しで心配する文江をさしおいて、どうにも止まらない好奇心が彼を突き動かすのだ。人力車を呼びとめ、いくらか小遣いを渡して「七間町までお願いします」と言う。車夫は子どもながら客扱いをするらしく、「へい、坊っちゃん」と力強く車を引き始めた。夜風にさらされながら人力車が揺れ、幹夫の脳裏には父や母、兄姉たちの顔がよぎる。どうせいつかは彼らに告げずして家を出るかもしれない。そんな無謀な考えが一瞬かすめるが、すぐにかき消した。(ゆらゆらと揺れる車輪の響きは、まるで自分がこの世の外れへ転がり落ちてゆくようでもある……)そのささやかな陶酔と不安が溶け合い、少年の唇は乾いていく。

第七章 紅灯の細道

夜の七間町は昼間と別の顔を見せる。活動写真館の立て看板には、西洋の女優が大きくドレス姿で描かれ、酔客らしき人々が街頭の明かりのもとを笑い声とともに通り過ぎていく。どこか漂う甘い香りは、カフェーのコーヒーの香りなのか、あるいは料理屋の煮炊きの湯気なのか。幹夫はふと脇道に目をやる。そこには暗がりのなかにぽつぽつと家屋が軒を寄せ合い、二階の廊下から洩れる障子の光が、人の影をぼんやり浮かばせている。唄に似た囁きがかすかに聞こえ、その声の主は芸者か、それとも町の女か。父が語る「士族の矜持」からはほど遠い世界に少年は足を踏み入れてしまったのか――。その道を歩くごとに、自分の血が少しずつ熱を帯び、耳の奥で脈が鳴る気がした。町のどこかで一瞬笑い声がはじけ、見ず知らずの男女の気配が、夜風とともに通り過ぎていく。幹夫はそれを「大人の世界」と仮に呼び、曖昧な羨望と畏怖を覚えるしかない。

第八章 米騒動の足音

大正七年(1918年)の夏、米価高騰が全国的に民衆の不満を爆発させ、静岡でもついに騒動が起こった。街頭では炊き出しを求める声が響き、米屋を襲う集団も出る。華やかな町の夜景が一転、不穏な空気を帯びはじめた。幹夫は父の態度を見て、改めて武家の剛直さというものを知らされる。「どうやら騒ぎはそう簡単には収まらん。だが、県庁で対策を協議し、大ごとにならぬように努めるのみだ」父はあくまで静かな声音で言うが、その眼光は鋭い。幹夫には、その不安と覚悟の入り混じった背中が印象的だった。自分が夜の町に幻惑され、浮ついた心持ちでいたのとは対照的に、父は毅然と立ち、家を守る意志を貫いている。だが、幹夫はこの社会の動乱が自分の知らぬところでくすぶっていることに、奇妙な昂ぶりを隠せない。まるで夜の歓楽街をのぞいてはならないと言われるほど、その魅力が増すように、街が噴き出す不満や熱気に引かれていくのだ。

第九章 姉の苦悩と決意

一方、姉の文江は「もっと学問を深めたい」と家の反対を押し切ろうとしていた。母は「娘の分を越えている」と嘆き、父は口を閉ざしているが明らかに渋い顔。夜更け、文江は眠れずに居間の灯をつけ、本を開いている。幹夫がそっとその部屋をのぞくと、姉は顔を上げて小さく笑った。「私も、あの町の明かりが時々恋しくなるのよ。狭い家にいて、女はこうせねばならぬという周囲の声ばかり聞いていると……」その言葉は、幹夫が感じていた息苦しさと重なる。姉もまた、自分とは違う形で「外の世界」へ憧れているのだろう。

第十章 港町への旅

夏休みのある日、幹夫は清水港へ足を伸ばしてみることにした。汽車でわずかの道程だが、港には海外の貨物船も入るという。波止場に降り立てば、港湾労働者や行商らが忙しく行き交い、外国人船員らしき姿も混じっている。まるで小さな横浜のような喧騒。海風が幹夫の顔を叩き、潮の香りが鼻腔を満たす。埠頭に腰掛け、大きな船を眺めていると、洋装の青年が横にやってきて烟草を燻らせた。会釈して去ろうとする幹夫に、その青年は淡く笑いかける。「きみ、この船を見て何を思うんだい?」突然の問いに幹夫は応えあぐねた。けれど、胸の裡では、いつか海外へ行きたいという欲望がちらりと閃く。それを隠すように、「大きい船ですね」とだけ言うと、青年は煙を吐き、頷いた。「世界は広い。大正の日本も変わりつつある。きみみたいな若い子が、いま何を夢見るかで、この国も変わっていくだろうよ」その言葉は幹夫の心に残り、埠頭を離れても波の音と混じって頭の中を繰り返し響いた。

第十一章 散策と狂い灯

それからも、幹夫は夜の町を歩くことをやめられなかった。七間町では酔客が増え、活動写真館や小劇場もますます賑わいを見せている。紅灯の路地へ分け入れば、寄席囃子の微かな残響があちこちで戯れるように広がっていた。ある夜、旅姿の楽士とすれ違い、その男は酔った勢いでフルートのような洋楽器を吹いてみせた。少しでも立ち止まろうものなら、誰しもこの夜の宴へ引き込まれるかのような、混沌とした誘いが幹夫をくすぐる。「こんな狭い町でも、知らない世界はあるのか……」十日ほど続いた米騒動は徐々に鎮圧され、幹夫の家も平穏を取り戻したように見える。だが、幹夫のなかではこの街の新旧の光景がいよいよせめぎ合い、武家の家柄に縛られる自分の姿をどこか冷ややかに見つめはじめていた。

第十二章 父との衝突

ある夜、七間町から帰った幹夫は父に待ち構えられていた。通りで見かけた知人が「お宅の坊ちゃんが夜店をふらついている」と伝えたらしい。「幹夫、お前は士族の子として恥ずべき振る舞いをしている。そんな外の風を浴びて、何が得られるというのだ」父の声音には怒りを抑えた震えがあり、母と姉たちも遠巻きに様子を窺っている。幹夫は居間の畳に膝をつき、言葉を飲み込みながらも、理不尽な反発が胸に込み上げるのを止められない。(なぜ外へ出てはならないのか。なぜ夜の町がそんなに悪いのか。時代が変わっているというのに、父はなぜ家に閉じ込めようとするのか――)とはいえ、幹夫自身にも明確な理屈があるわけではない。ただ「外の世界に触れたい」という漠たる思いが、父の教えよりも強く湧いてくる。それを言葉にできず、ただ唇を噛むばかりだった。

第十三章 文江の旅立ち

そんな折、姉の文江が上京する決意を固めた。上京して女子高等師範学校へ進学できる道を探し、母や父を説得しようとする。母は「女が東京など不品行」と青ざめ、父は「家の恥にならぬようにだけはしろ」と言うに留まった。文江はその夜、幹夫を呼び、そっと手を握った。「私、行くわ。夢を無理やり閉じ込めるより、思い切って出ていく方がよほど精神にいいと思うの」幹夫は姉の手の温もりに驚き、同時に静かな羨望を抑えられない。姉はこの家と古い掟を一時的にでも捨て、未知の世界へ踏み出す。その姿が、幹夫の脳裏に鮮やかな残像を残した。

第十四章 竹藪の夜

文江が上京して十日ほど経った頃、幹夫は屋敷近くの竹藪でぼんやりと月を眺めていた。竹の隙間から細長い月光が差し込む夜で、どこか寂しい。家の中は姉の不在が大きい空気を生み、父は相変わらず朝早く県庁へ出勤し、母はひたすら家事にいそしむ。兄姉のうち軍人を志した者は外地に赴任し、残る姉たちも嫁いだり、夫に従う生活を送っている。つまり幹夫は家にあって、小さな鳥籠のような孤独をこじらせている。竹藪を抜けると、町へ行く道の街灯が淡く光っている。静岡の夜は依然として静かで平穏に見えるが、実際には幹夫の内面を突き動かす何ものかが確実に高まっていた。

第十五章 飛び立つ船影

大正末期のある朝、幹夫はひそかに胸に決める。自分も姉のように、いずれ静岡を出て東京へ行こう――。もしくはさらにその先へ、港から船に乗り異国へ渡る可能性もある。父の凝った眉間を眺めながらも、彼の言う「士族の誇り」をまったく否定する気にはなれない。幹夫は父の静かな強さに尊敬を抱きつつも、別の夢を見つめているのである。幹夫は夜のうちに清水港へ行き、海外航路の外国船をまた眺めていた。艀(はしけ)が岸壁を行き来し、人々が荷を積み下ろす。その光景に紛れて少年は宙に浮いたような感覚を味わう。誰も自分を知る者がいない、海と空の広大さ、そして喧噪のなかで静かに燃える可能性。(いつかこの船に乗って、日本を出るのではないか――)そんな想念に耽るまなざしの先、停泊中の汽船の煙突からのぼる白煙が、まるで幹夫を誘うように宙へ溶けていく。

第十六章 父の言葉、母の願い

家に戻り、もう何度目か知れない父との対話があった。幹夫が東京へ進学したいと打ち明けると、父は小さく息をつく。「文江の時と同じか。……よかろう、家の格を落とすような行いをしなければ、それも仕方あるまい」そこにはかつてのような怒りの色はなく、どこか達観した気配すら漂う。もしかすると父自身、変わりゆく時代のなかで、古い秩序に固執するだけでは家を護れないと思っているのかもしれない。母は涙をこらえ、「どうか身体に気をつけて。静岡に帰りたくなったら、いつでも戻っておいで」とだけ告げる。幹夫は母のその優しい声に、かすかな棘が胸を刺す思いをした。母も父も、幹夫には最良の道を示せず、ただ静観するしかないのだろう。それを知って、かえって胸が痛い。

第十七章 出発の朝

大正十四年の初夏、幹夫は父と母、数人の兄姉に見送られて静岡駅に立った。プラットフォームに汽車の煙が昇り、乗客が慌ただしく行き交う。文江が東京から一足先に手紙を寄こし、「いつでも来ていい」と書いてあったのだ。まだ十三から十四にかかった少年だが、意気込みだけは大人にも負けない。父は「気を強く持つのだぞ」と言い、母は涙目で幹夫の袖を握る。幹夫は胸に込み上げる何かを飲み込みながら、列車のステップをよじ登る。車内で窓を開け、家族の姿を眼下に収めると、あの屋敷や町の夜景、紅灯の細道、大正デモクラシーのうねり、清水港から世界へつながる海――そんな光景の断片が次々に浮かんでは消えた。汽笛が鳴り、車体が動き出す。幹夫の目には白い煙の先に、遠くかすむ雲と富士山の稜線が見えた。気がつけば、ほんの微かな紅が空に滲んでいる。

終章 果てなき道

こうして、士族の末裔として静岡に育った伊藤幹夫は、わずか十四の身で東京へ旅立った。父母が遺してくれた「伝統」と姉が示した「新しい生き方」、そして夜の街で偶然目にした多彩な人の営み――それらが一つの束になり、幹夫の背中を押している。多分、幹夫はいつの日か日本を出るだろう。あるいは海外の都市を転々とし、あるいは故郷に戻って屋敷を相続するかもしれない。けれど、そのどちらにも「心を奪う何か」がある。前近代の名残を抱きながらも、大正という過渡期の光と影を一身に浴びる少年の魂は、いつも街の佇まいを求め、散策を繰り返しながら、自分だけの道を模索し続けるに違いない。汽車が速度を上げるほど、幹夫の視界にあった静岡の山と茶畑、港の喧騒は遠ざかり、姿を消していく。これから訪れる東京の雑踏、そしてその先の欧米に広がる未知の世界まで、まるで一夜の夢の回廊のように続いているかと思えば、少年の両肩に新しい期待と一抹の不安をしっかりと乗せるのだ。静岡は変わる。日本は変わる。だが、その変化をどのように吸い込み、どのように愛おしみ、どのように見限るのか――永井荷風が愛した“行き場のない感傷”は、きっと幹夫の胸にも息づくことだろう。車窓から見える風景は、まだ淡い緑と春の名残の空でありながら、そこへ溶け込むようにして、幹夫の旅ははじまる。

 
 
 

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