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風の封筒

 十月のはじめの蒲原は、朝だけ秋の顔をして、昼になるとまだ夏の名残りを肩にかけます。けれどその日だけは、朝から空が、ふだんの空と違う色をしていました。青ではなく、白でもなく、鉛筆の芯を水で溶かしたみたいな灰色。駿河湾の上は平らなのに、平らなぶん、重たく見えました。波が動いていないわけではないのに、動きが遠慮しているようで、しゅう……ざあ……の呼吸も、いつもより短く、小さかったのです。

 幹夫は八つ。縁側で靴をそろえながら、窓辺のものたちを見ました。

 青いガラスの星。 割れた貝の星座の箱。 空の蛍瓶。 虹の海硝子。 竹の短冊。 銀の輪。

 銀の輪は、風があればきん、と鳴る。 鳴れば父の返事の形になる。

 そう思うようになってから、幹夫は、風が吹けば少し安心し、風が止まれば胸がむずむずしました。でも今日は、そのむずむずの種類が違いました。風がないのが怖いのではなく、風が“来すぎる”気配が怖い。空の色が、そう言っていました。

 台所で祖母が、雨戸の溝を確かめる音がしました。木がきい、と鳴り、金具がこつ、と当たります。祖母は、声を大きくせずに言いました。

「幹、今日は学校、早く終わるよ。台風が寄るって」「たいふう……」

 台風、という言葉は、幹夫の胸の奥で、ひゅっと冷たい風を吹かせました。冷たいのに、息は止まりませんでした。止まらなかったのは、ここ何日かで、幹夫が“止めない息”を少し覚えたからです。怖いとき、息を止めると、胸の中の音がもっと大きくなる。大きくなると、怖さが膨らんでしまう。

 祖母は続けました。

「窓辺のもの、しまっておこう。割れると、きれいでも痛いからね」

 しまう。 その言葉が、幹夫の胸をちょん、と刺しました。

 ――しまうと、鳴らない。 ――鳴らないと、返事がいなくなる。

 そう思った瞬間、すぐ別の自分が言い返しました。

 ――鳴らないのは、消えることじゃない。 ――守るためだ。

 分かっているのに、指先が少し震えました。震えは、ものが大事なときの震えです。

 学校は午前で終わりました。校庭の万国旗はすでに片づけられていて、空が低く、鰯雲の骨が崩れて、雲の厚い腹がこちらへ寄ってくるようでした。先生は教室の窓を閉めながら言いました。

「家に帰ったら、戸締まりをよくすること。海へは行かない。用水も見に行かない。風は、見に行くと連れていく」

 “風は連れていく”という言い方が、幹夫の胸に残りました。風は、手紙を運ぶこともあるのに、連れていくこともある。風はやさしいだけじゃない。風がやさしくないとき、どうすればいいのか――幹夫はまだ上手に知らない。

 帰り道、こういちが追いつきました。袖をまくった手首が、今日はなぜだか少し白く見えました。空の色が暗いと、白いものは余計に白く見えるのです。

「幹夫、台風くるんだってね」「うん……ばあちゃんが、窓辺のもの、しまうって」「……銀の輪も?」「うん」

 幹夫は言ってから、喉の奥がじん、と熱くなりました。熱いのは涙の前の熱です。出ない涙は、胸の中で、何かをぎゅっと握ってしまう。

 こういちは少し考えてから、言いました。

「しまうの、風の封筒みたいだね」「ふうとう……?」「うん。手紙ってさ、雨に濡れたら読めなくなる。だから封筒に入れる。鳴らないのは、濡れないためかも」

 封筒。 幹夫の胸の中で、その言葉がすとん、と棚に置かれました。封筒は閉じる。でも閉じたまま捨てるのではなく、開く日まで預ける。預けるなら、守ることは“離す”ことではありません。

 二人はそれぞれの家へ急ぎました。風はまだ強くないのに、空気の匂いが、もう“動く前の匂い”になっていました。潮の匂いが重く、土の匂いが濃い。匂いだけが先に、嵐の足音を知らせます。

 家に着くと、祖母が雨戸を半分ほど閉め、台所の鍋に蓋をし、桶を伏せ、外に出してあった箒を納屋へ入れていました。動きは早いのに、慌てていません。慌てない動きは、幹夫の胸を少し落ち着かせます。

「幹、窓辺だよ」 祖母が言いました。

 幹夫は窓辺の前に座り、ひとつずつ手で触りました。触るたび、物にはそれぞれの温度があります。青い星はガラスの冷たさ。海硝子は掌で温まった冷たさ。蛍瓶は何も入っていないのに、瓶の中の空気が少しひんやりしている感じ。銀の輪は金属の冷たさで、その冷たさの中に父の町の匂いが混じっていました。

 幹夫は銀の輪を手に取り、耳に近づけてみました。鳴りません。鳴らない。鳴らないのに、輪の中はぽっかり空で、その空が、父の不在と同じ形に見えて、胸がきゅっとなりました。

「ばあちゃん……鳴らない」 幹夫は言ってしまいました。言うと、鳴らないことが立ち上がってしまうのに。

 祖母は、幹夫の手を見て、銀の輪の縁の穴を見て、それから言いました。

「鳴らないのは、いまは鳴らす風じゃないからだよ。台風の風は、音をつぶす。きん、じゃなくて、がたん、にする」「……がたん」「うん。だから、きんは封筒に入れておく。開ける日は、風がちゃんと話せる日にする」

 祖母は、割れた貝の星座のブリキ箱を開けました。欠片の砂の上に、青い星と銀の輪をそっと置きます。置くとき、幹夫の指先が一度だけ震えました。震えが箱に伝わって、欠片がかすかに鳴りました。しゃらり、でも、きん、でもない、小さな砂の音。

 その音が、なぜだか“しまった”という感じになって、幹夫の胸の奥が少しだけほどけました。

 蛍瓶、海硝子、短冊も、祖母が布で包んで棚へ。窓辺が急に空っぽになって、幹夫は一瞬、息が細くなりました。窓辺が空っぽだと、胸の中の空洞が目立つ。目立つと、そこへ怖さが入りやすい。

 祖母は、窓辺の代わりに、雨戸をぴたりと閉めました。木が、どん、と鳴りました。

「さあ、家の中を小さくしよう。嵐のときは、広いと風が迷う。迷うと物も心もぶつかる」

 家を小さくする、という言い方が、幹夫には分かりました。雨戸を閉め、戸を閉め、余計な隙間を減らす。隙間が減ると、外の大きさが少し遠くなる。遠くなると、胸の中の大きさも少しだけ収まる。

 こういちが、雨の匂いのする風と一緒にやって来ました。祖母が「中へ」と言って迎え入れます。二人は座敷で、畳の目を見ながら、黙って耳を澄ませました。

 やがて、風が来ました。

 どっどど――。

 最初は遠くで、次に屋根の上で、次に雨戸の板の間で。風は目に見えないのに、家の形を手でなぞっているようでした。

 雨が来ました。

 ざあ。ざざざあ。

 雨の音は、いつもの雨より荒くて、粒が大きい。粒が大きい音は、胸を叩きます。叩かれると、心臓の太鼓がこつん、こつん、と小さく返事をしてしまう。返事をしてしまうと、怖さが“返事になってしまう”のが嫌で、幹夫は喉をぎゅっとしました。

 こういちが言いました。

「……銀の輪、出しておかなくてよかったね。鳴ったら、たぶん、怖い音だ」「うん」と幹夫は言いました。 言いながら、胸の奥でちくりとしました。 ――きんを聞きたかったくせに。

 けれど、外の風はどんどん強くなり、雨戸が、がたん、がたん、と揺れました。がたんは、きんとは違う。がたんは“押す音”で、きんは“返す音”です。

 幹夫は、がたんのたびに、父のいる町を思いました。父もこの風の下にいるのだろうか。風は同じ空を回るから、どこかで繋がっているかもしれない。繋がっているのに、会えない。会えないのに、同じ風の中にいる。そう思うと、胸が苦しくて、でも少しだけ温かくもなりました。

 祖母が、火鉢に炭を足しながら言いました。

「風はね、怒ってるんじゃない。運ぶものが多すぎて、手がいっぱいなんだ」「手が……いっぱい」「海の水を運び、雲を運び、木の葉を運び、屋根の瓦も確かめる。だから今日は、きん、じゃなくて、がたん、なんだ」

 祖母の言葉を聞くと、風が“悪いもの”ではなくなりました。怖いのは変わらない。でも、怖いものにも理由がある、と分かると、怖さは少しだけ手のひらに乗る大きさになります。

 夜中、風が一番強い時間が来ました。雨戸が、がたん、がたん、がたん、と鳴って、縁側の柱が、みし、と言いました。こういちは眠ってしまい、祖母は静かにお経のような声で何かを呟いていました。幹夫は、布団の中で目を開けたまま、天井を見ていました。

 天井は暗い。窓辺の青い星がない夜は、暗さがいつもより厚い。厚い暗さの中で、幹夫の胸の空洞が、また少し冷たくなりました。

 ――返事がない夜。

 そう思ったとき、幹夫はふっと気づきました。返事がない夜ではなく、“封筒を閉じている夜”なのだ。封筒は閉じている。閉じているのは、濡らさないため。読める朝のため。

 幹夫は、胸の中で小さく言いました。

 ――父さん、きんは、ここにいる。 ――ただ、封筒の中だ。

 そう思うと、目の裏が少し熱くなりました。涙ではなく、胸の中で何かがほどける熱。ほどけると、息が通ります。息が通ると、眠りが少し近づきます。

 いつのまにか、風のがたんが遠のき、雨のざあが、しとしとに変わりました。音が変わると、夜の色が変わります。色が変わると、胸の奥の空洞も、穴ではなく、朝の入口の筒になります。

 朝。

 雨戸を開けると、外の世界は、洗われた匂いがしました。土の匂いが濃く、葉の匂いが青い。空はまだ低いのに、灰色の中に、うすい青が混じっています。駿河湾は昨日の鉛色を脱いで、少しだけ硝子に戻っていました。波はまだ荒いけれど、荒さが“怒り”ではなく“後片づけ”の荒さに見えました。

 畦道には、小枝や落ち葉が散らばり、みかんの葉が何枚か裏返ったまま、白い粉を見せていました。燕の巣は無事でした。幹夫はそれを見て、胸の奥がふっと温かくなりました。

 祖母が言いました。

「さあ、封筒を開けようか。風が話せる顔になった」

 祖母はブリキ箱を出し、蓋を開けました。砂の上の欠片が、静かに光っています。その上に、青い星と銀の輪が横たわっていました。幹夫は、そっと銀の輪を持ちました。昨夜のがたんを聞いたあとだと、輪の冷たさが、むしろ落ち着く冷たさでした。

 窓辺に吊るすと、銀の輪はまだ黙っていました。青い星も黙っていました。黙っているのに、幹夫の胸はもう焦りませんでした。焦らないで待つ、というのは、糸を張りすぎない待ち方です。

 そのとき、薩埵峠の方から、朝の風がひとすじ降りてきました。台風の風の残り香はあるのに、手がいっぱいの風ではない。軽くて、通る風。

 青い星が、からり。 少し遅れて、銀の輪が、きん。

 きん、は小さかった。けれど、がたんの夜を越えたあとのきんは、昨日までよりずっと澄んで聞こえました。澄むのは音だけではありませんでした。幹夫の胸の奥の空洞も、冷たい穴ではなく、音の通った筒になりました。

 幹夫は、声に出さずに言いました。

 ――父さん。 ――嵐の夜も、封筒の中できんは生きてた。 ――今、開けたら、ちゃんと返事になった。

 こういちが、門のところから顔を出しました。髪が少し乱れて、でも目は笑っていました。

「生きてる?」「……うん」と幹夫は言いました。 その“うん”は、昨日までの“うん”より、少しだけ太い糸でした。

「きん、聞こえた?」「聞こえた」と幹夫は答えました。

 答えた瞬間、胸がちくりとしました。父がすぐ帰るわけではない。遠さはまだある。でも、そのちくりの下に、今日のきんの澄んだ音が置かれて、ちくりが針ではなく、縫い目の痛みに変わりました。

 その日、幹夫は父へ手紙を書きました。

 「とうさん」 「きのう たいふうでした」 「ぎんのわは ふうとうに いれました」 「がたん の かぜでした」 「けさ からり と きん でした」 「きん は ちゃんと いきてました」

 “早く帰って”とは書きませんでした。書けない自分はまだいます。でも今日は、その書けなさが、遠さを無理に引っぱらないための加減に思えました。封筒を閉じる日もある。開ける日もある。閉じているあいだも、手紙は手紙で、返事は返事の形を保っている。

 夕方、窓辺で青い星が、もう一度だけ、からり、と鳴りました。 銀の輪が、きん、と返しました。

 その短い会話を聞きながら、幹夫は、嵐の夜のがたんを思い出しました。がたんは怖かった。でも、がたんを越えたから、きんがきんになった。そう思えると、胸の中の空洞は、ただ寂しい穴ではなく、音が通っていく道の筒になりました。

 風の封筒は、ちゃんと役に立った。 幹夫は、そのことを胸の中で、そっと確かめるようにうなずきました。

 
 
 

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