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丸の字

 朝、縫い箱の影が、畳の上で少しだけ長かった。 長い影は朝の影だ。朝の影は、昨日の続きを引っぱってくる。

 幹夫は、縫い箱が畳の目ひとつぶん――いつもより少しだけ動いているのに気づいた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。 分かると、胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、返事の鳴り方だ。

 縫い箱をそっと持ち上げる。 畳の冷たさが指先に触れる。 その冷たさの下に、紙が二枚――重なっていた。

 一枚目は、母の字。 いつもの「うん」と、小さな丸。 丸は、ここまで、の丸。

 二枚目は――字が違った。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。折れていない震えの字。

 > みきぼう > ただいま

 その下に、丸がひとつ。

 丸は、母の丸よりいびつだった。 すこし歪んで、端がほんの少しだけ尖っている。 尖っているのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「力を入れすぎない」手が見えるからだ。

 幹夫はその丸を指でなぞりかけて、やめた。 なぞると、消えてしまう気がした。 消えるのは墨じゃなくて、昨日から今日へ続く「居る」の感じだ。

 代わりに、上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、胸の熱を少しだけ丸くしてくれる。

 座敷の向こうから、父の息が聞こえた。 深いのに、ところどころ引っかかる息。 引っかかるたび、幹夫の胸の奥がきゅっとなる。 きゅっとなるのに、怖いだけじゃない。

 ――いき。

 口の中で言うと、息がひとつ入る。 息が入ると、紙が紙のままで居られる。

 朝飯のあと、父は縁側に座った。 座り方が、昨日より少しだけ「座る」に近い。 近いのに、まだどこかよそ行きの座り方。 居るのに、居場所が馴染むまでの「間」がある。

 母はちゃぶ台の上に新聞紙の裏を広げた。 その上に、幹夫がさっき見つけた二枚の紙を、そっと置いた。 置き方が丁寧だった。丁寧すぎて、胸がきゅっとする。丁寧すぎると、壊れそうに見えるからだ。

 母は父のほうを見た。 見る目が、叱る目じゃない。 見届ける目だった。

「……縫い箱の下、見た?」

 父は一度だけ瞬きをして、ゆっくり頷いた。

「……見た」

 声は低い。 低いのに、掠れている。 掠れた声は、遠い風の匂いがする。

 父は、紙の上の自分の字を見た。 見て、すぐ目を逸らさなかった。 逸らさない目は、少しだけ近い。

「……ずっと、これで話しとっただか」

 母は小さく頷いた。

「うん。声、出せん日があるだろ。……その日用」

 父の口が、ほんの少しだけ動いた。 動いて、止まって、また動いて―― 最後に、息みたいな声が出た。

「……すまん」

 すまん、は短い。 短いのに、重い。 重いのに、刃じゃない。 石みたいな重さだった。

 母は「うん」とだけ返した。 返した「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。 許しているのに、忘れていない「うん」。

 幹夫は、紙の端の父の丸を見た。 いびつな丸。 いびつなのに、ちゃんと「ここまで」の丸。

 幹夫は我慢できずに聞いた。

「……父ちゃんの丸、これ……」

 父は幹夫を見て、少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 全部が急に明るくならない明るさは、目にやさしい。

「……丸、しか書けんかった」

 しか。 その「しか」が、幹夫の胸をきゅっとした。 しか、の中には、もっと書きたいのに書けない夜が入っている。

 母が、そっと言った。

「丸でええだに」

 丸でいい。 その言い方が、胸の角を少しだけ丸くした。

 母は鉛筆を取った。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目が硬い。硬いと、戻ってこられる気がする。

「今日はな……“丸”を書く」

 母はゆっくり書いた。

 丸

 幹夫は目をこらした。 「九」みたいな形に、ちいさな点がひとつ付いている。 小さい点は、飛びそうで、でもそこが「丸」のへそみたいに見えた。

「まるい、の丸」

 母が言って、畳の上の丸い石に目を落とした。 石の影も丸い。影まで角がない。

「角がない、ってことだに」

 角がない。 刺さらない。 痛くない重さ。

 父が、新聞紙の「丸」を見て、ぽつりと言った。

「……船の名前も、丸だら」

 母が一度だけ頷く。

「うん。……“〜丸”ってつけるだに。波の上でも、角が立たんように、って」

 角が立たんように。 その言い方が、蒲原の海の匂いを連れてきた。 波の上は揺れる。揺れるから、角があると転ぶ。 丸いほうが、転んでも痛くない。

 幹夫は、父の眉の上の細い傷を見た。 網でできた傷。 波と糸と、帰れなかった時間の傷。

 幹夫は、上着のポケットの石を取り出して、ちゃぶ台の端に置いた。 こつ、と小さく鳴る。 小さいのに、腹に届く音。

「これも、丸」

 幹夫が言うと、父がその石を見て、少しだけ目を細めた。 目を細めると、光が丸くなる。丸い光は痛くない。

「……ええ石だな」

 父の褒め方は小さかった。 小さいのに、胸の奥が熱くなる。 熱いのに、息ができる熱さ。

 母が続けた。

「丸はな、上手く書けんでもええ。……丸くしよう、って思うだけでええ」

 思うだけでいい。 その言葉は、救いだった。 全部を一度に丸くできない日がある。 でも「丸くしよう」と思えるだけで、今日が刺さらなくなる。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、手が震えても戻れる。

 一画目。 二画目。 最後の点を置く。

 点が小さすぎて、飛びそうだった。 飛びそうになると、胸が走る。 走りそうになったから、幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 二回目の「丸」は、少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が座る。 座る字は、「居る」に似ていた。

 父が、指をゆっくり伸ばして、鉛筆を指さした。 伸ばす指が少し震える。震えるのに、逃げない指。

「……それ、貸せるか」

 母がいちど父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許の字が胸の奥で、ふわっとゆるむ。

 父は鉛筆を握った。 握り方がぎこちない。 ぎこちないのに、落とさない。

 父はゆっくり線を引いた。 線が少し揺れる。 揺れるのは弱さじゃなく、戻ってくる途中の揺れだと幹夫は思った。

 最後に、点を置いた。

 とん。

 点は小さかった。 小さいのに、その点の音が、幹夫の胸に届いた。 届いた点は、母の丸よりいびつだったけれど、刺さらなかった。 刺さらないのは、父の指が「落とさない」指だったからだ。

 父は、自分の書いた「丸」を見て、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、ここまでの息。

 そして父は、紙の隅に、丸をひとつ描いた。 ゆっくり。 いびつに。 でも、ちゃんと閉じた。

 閉じた丸は、家の戸みたいだった。 閉じているのに、出入りできる戸。 戸があると、帰れる。

 母が、その丸の横に、いつもの小さな丸をひとつ描いた。 父の丸と、母の丸。 並ぶと、丸が二つで「会」みたいに見えた。 会う、の会。 足が止まって、それでもいっしょに歩く会。

 夜。 父は布団に入る前に、縫い箱の前で立ち止まった。 立ち止まる影が、畳の上で揺れた。 揺れるのに、倒れない。

 父は何も言わず、縫い箱を畳の目ひとつぶん、そっとずらした。 ずらすだけ。 持ち上げない。 でも、そのずれが「見てる」のずれだった。

 幹夫は胸がきゅっとして、でも、嫌じゃなかった。 縫い箱の下の声が、父にも「居場所」になり始めた気がしたからだ。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。宛名に「おかあちゃんへ」。 でも今日は、宛名の下に小さく足した。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > まる って > いたくない かたち だね > とうちゃんの まる と > かあちゃんの まる が > ならぶと あったかい

 最後に、小さく「丸」。 丸をひとつ。 そして、もうひとつ。 二つの丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、あたたかさの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は――三つ、重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > まるいのは > ころがっても > また とまれる ってこと > いき しながら > うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう > まる むずかしいな

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく、丸がふたつ並んでいた。 大きい丸と、小さい丸。 親子みたいな丸。

 幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 丸いのは、ころがる。 ころがるのに、刺さらない。 刺さらないから、また止まれる。 止まれたら、息ができる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、縫い箱の下に並んだ丸は届いた。 届いた丸を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――「居る」と「帰る」の間を、ゆっくり、まるく歩こうとしていた。

 
 
 

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