会の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月6日
- 読了時間: 7分

清水へ行く朝、母は鏡を見なかった。 鏡を見ない代わりに、髪をきっちり結んだ。結び目がほどけないように、指で二度押さえる。押さえる回数が増えるほど、胸の中のものも押さえているのだと、幹夫はもう知っている。
風呂敷包みの上に、控え帳。 紐で束ねた紙。 受領証。 “面会”と書かれた紙。 紙の角が揃っているだけで、今日が少しだけ「行ける日」に見えた。
祖母は握り飯を二つ、いつもより小さく固く作って布に包んだ。 固い握り飯は、ほどけないための握り飯だ。
「腹んとこ、空けとけ」
祖母がそう言って、母の背中を一度だけ撫でた。 撫で方が、送り出す撫で方だった。帰ってくる場所を残す撫で方。
戸口の外で、空っぽの袖の男が待っていた。 帽子を手に持って、笑おうとして、笑いきれない顔。 その顔が、今日はいっそう小さく見えた。小さいのに、背中は倒れない。
「行くか」
男の声は低い。命令しない低さ。
母は頷いて、短く言った。
「……行く」
幹夫は上着のポケットの石を握った。 浜で拾った丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。角がないからだ。 角がない重さは、今日のための重さだった。
汽車の中、母は窓を見なかった。 見ない代わりに、風呂敷包みを膝の上で押さえ続けた。 押さえる指が、ときどき強くなる。強くなるたび、幹夫は石を握り直して、息をひとつ入れた。
――いき。
口の中で言うと、少しだけ重い。 重いと落ちない。落ちないと散らばらない。
清水に着くと、匂いが変わった。 潮に油が混ざって、木と縄が濡れている匂い。 匂いが多い場所は、声も多い。声が多いと、胸の中の警報はいったん静かになる。静かになると、逆に怖さが輪郭を持つ。
役場の廊下は、妙に白かった。 白い壁。白い紙。白い天井。 白はきれいなのに、どこか冷たい。冷たい白は、決める前の白だ。
靴音が、かつん、かつん、と響く。 響く音は、逃げ場のない音だった。
案内されたのは、奥の小さな部屋の前だった。 扉の横の札に、太い字。
面会室
幹夫は、その下の二文字に目が吸い寄せられた。
会
会。 合と似ている気がするのに、違う顔。 会う、は答えみたいに見えて、まだ途中にも見える。
「母ちゃん、これ……」
幹夫が小さく言うと、母は札を見上げて、いちどだけ息を入れた。
「会、だに」
母は声を落として、幹夫の耳にだけ届くくらいで言った。
「会う、の会。……合う、より、やわらかい」
やわらかい。 その言い方が、幹夫の胸をきゅっとした。 柔らかいものほど、崩れそうに見えるからだ。
空っぽの袖の男が、ぽつりと言った。
「会うってのはな……足が止まる」
止まる。 止まると、間が長くなる。 長い間に、息を入れられるかどうか――それが今日は怖かった。
扉の向こうから、紙の擦れる音がした。 次に、椅子が床を引っかく音。 そして、咳払いの音。
「……どうぞ」
声がした。 声は低かった。 低いのに、聞いたことがないはずなのに、胸の奥が一度だけ、ぽん、と鳴った。
母の手が、幹夫の手首をきゅっと掴んだ。 掴み方が強い。強いのに怒りじゃない。 落とさないための掴み方だ。
扉が開く。 部屋の中は、消毒みたいな匂いがした。 薬くさい匂い。写真屋の暗室の匂いに少し似ている。似ているから、余計に胸がざわついた。
部屋の奥に男が座っていた。 痩せていて、背中が少し丸い。 丸いのに、折れていない。折れていない丸さだった。
男が顔を上げた。 目が合った瞬間、幹夫の息がいったんどこかへ行った。 息が行ってしまうと、胸の中の警報が尖りそうになる。
――いき。
幹夫は口の中で言って、石を握り直した。 冷たさが戻ってきて、息も戻った。
男の左の眉の上に、細い線が見えた。 糸みたいな傷。 そこだけ、笑うと少し上がりそうな形。
母の喉が動いた。 動いて、声にならない。 声にならないかわりに、母は机の上へ紙束をそっと置いた。置き方が、縫い箱の下の紙と同じだった。落とさない置き方。飛ばさない置き方。
「……お名前を」
役場の人が言った。 声が仕事の声だった。 仕事の声は、やさしくも意地悪でもなく、ただ線みたいにまっすぐだ。
男は一度だけ瞬きをして、低く答えた。
「……○○、です」
母の肩が、ほんの少し上がって、すぐ落ちた。 上がるのは期待。落ちるのは怖さ。 期待と怖さは、同じ袋に入っている。
役場の人が続ける。
「ご家族の方を、覚えていますか。奥さまの呼び方。お子さんの呼び方」
男は、母を見た。 見方が、探る目じゃない。 遠くを見る目だった。 遠くを見る目は、思い出を探している目だ。
男の口が、少しだけ動いた。 動いて、止まって、もう一度動いて――最後に、声が出た。
「……おまえさん」
母の指が、机の端をきゅっと掴んだ。 掴むのに、折らない。折らないための掴み方。
役場の人が、間を置かずに言った。
「お子さんは」
男は視線を、幹夫へ移した。 移すのが遅い。 遅いのは迷いじゃない。 目が、そこへ辿り着くまでの“間”が長いのだ。
幹夫は、石を握ったまま、まっすぐ見返した。 見返すのは怖い。 でも見返さないと、会の字の意味が逃げてしまいそうだった。
男の目が、幹夫の帽子の影を越えて、顔の輪郭に触れた。 触れた瞬間、男の眉の上の傷が、ほんの少し動いた。
「……みき……」
声が、途中で止まった。 止まる声は、折り目みたいに震える。
もう一度、男が息を入れた。 その息の入れ方が、妙に知っている息の入れ方に見えた。 まず、いき。
「……みき坊」
その二文字が落ちた瞬間、幹夫の胸の中で、何かが「届いた」音を立てた。 どん、じゃない。 鈴でもない。 もっと小さくて、もっと深い、折り目の音。
母が、息を吐いた。 吐いた息は軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、落ちなかった息だった。
母は声を出さずに、ただ頷いた。 頷きが、返事になった。 声より先に、頷きが答えになった。
空っぽの袖の男が、帽子を胸に押さえた。 押さえた指が白い。白い指は、血を引っ込めている指だ。
役場の人が、淡々と紙に何かを書いた。 鉛筆の先が、紙の上を走る音。 走る音は速いのに、部屋の時間は遅かった。 遅い時間の中で、幹夫は「会」の字の形を思い出した。 会う、は、足が止まる。
母が、やっと声を出した。 声は低い。倒れない低さ。 でもその低さの端が、少しだけ震えていた。
「……左の眉の傷は」
男は、左の眉の上に指を当てた。 触れ方が、確かめる触れ方だった。
「……網で。……蒲原の、浜でな」
浜。 蒲原。 その地名が、部屋の白い壁を一瞬だけ柔らかくした。 幹夫の喉の奥が熱くなって、声が出なかった。
母は、目を閉じなかった。 閉じたら、影が濃くなりすぎる気がしたからだ。 母はただ、机の上の紙の角を揃え直した。揃えることで、崩れないようにした。
帰り道、清水の風は少し冷たかった。 母は何も言わず、風呂敷包みを腹んとこで押さえた。 押さえる指が、行きより少しだけ軽い。軽いのに、震えている。
空っぽの袖の男が、ぽつりと言った。
「……会えたな」
母は、すぐに頷かなかった。 頷く前に、息をひとつ入れた。 まず、いき。
「……会えた」
母はやっと言った。 会えた、は嬉しい言葉にも聞こえるのに、今日は痛い言葉にも聞こえた。 会えた、の先に、まだ紙がある。まだ手続きがある。まだ、がいる。
幹夫は石を握り直した。 冷たさが、いまは少し優しい。 優しい冷たさは、熱くなりすぎた胸を、丸くしてくれる。
夜、幹夫は小さな紙を切って、封筒の形を描いた。 宛名は「おかあちゃんへ」。 中に、今日の二文字を入れたかった。
> あえた > でも まだ こわい > みきぼう って きこえた
最後に、小さく書く。
会
丸をひとつ。 止まった足が、また戻ってこられるように置く丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が震えた。震えは恥ずかしさと、熱くなった胸の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、母の字だった。
> あえた ってことは > いき が もどった ってこと > まだ は まだ > でも あえた も ほんと > うん
最後に、小さな丸。
幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、今日――「みき坊」という呼び方は届いた。 届いた呼び方は、答えみたいで、まだ途中の折り目みたいで、胸の奥に静かに残った。





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