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会の字

 清水へ行く朝、母は鏡を見なかった。 鏡を見ない代わりに、髪をきっちり結んだ。結び目がほどけないように、指で二度押さえる。押さえる回数が増えるほど、胸の中のものも押さえているのだと、幹夫はもう知っている。

 風呂敷包みの上に、控え帳。 紐で束ねた紙。 受領証。 “面会”と書かれた紙。 紙の角が揃っているだけで、今日が少しだけ「行ける日」に見えた。

 祖母は握り飯を二つ、いつもより小さく固く作って布に包んだ。 固い握り飯は、ほどけないための握り飯だ。

「腹んとこ、空けとけ」

 祖母がそう言って、母の背中を一度だけ撫でた。 撫で方が、送り出す撫で方だった。帰ってくる場所を残す撫で方。

 戸口の外で、空っぽの袖の男が待っていた。 帽子を手に持って、笑おうとして、笑いきれない顔。 その顔が、今日はいっそう小さく見えた。小さいのに、背中は倒れない。

「行くか」

 男の声は低い。命令しない低さ。

 母は頷いて、短く言った。

「……行く」

 幹夫は上着のポケットの石を握った。 浜で拾った丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。角がないからだ。 角がない重さは、今日のための重さだった。

 汽車の中、母は窓を見なかった。 見ない代わりに、風呂敷包みを膝の上で押さえ続けた。 押さえる指が、ときどき強くなる。強くなるたび、幹夫は石を握り直して、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 口の中で言うと、少しだけ重い。 重いと落ちない。落ちないと散らばらない。

 清水に着くと、匂いが変わった。 潮に油が混ざって、木と縄が濡れている匂い。 匂いが多い場所は、声も多い。声が多いと、胸の中の警報はいったん静かになる。静かになると、逆に怖さが輪郭を持つ。

 役場の廊下は、妙に白かった。 白い壁。白い紙。白い天井。 白はきれいなのに、どこか冷たい。冷たい白は、決める前の白だ。

 靴音が、かつん、かつん、と響く。 響く音は、逃げ場のない音だった。

 案内されたのは、奥の小さな部屋の前だった。 扉の横の札に、太い字。

 面会室

 幹夫は、その下の二文字に目が吸い寄せられた。

 

 会。 合と似ている気がするのに、違う顔。 会う、は答えみたいに見えて、まだ途中にも見える。

「母ちゃん、これ……」

 幹夫が小さく言うと、母は札を見上げて、いちどだけ息を入れた。

「会、だに」

 母は声を落として、幹夫の耳にだけ届くくらいで言った。

「会う、の会。……合う、より、やわらかい」

 やわらかい。 その言い方が、幹夫の胸をきゅっとした。 柔らかいものほど、崩れそうに見えるからだ。

 空っぽの袖の男が、ぽつりと言った。

「会うってのはな……足が止まる」

 止まる。 止まると、間が長くなる。 長い間に、息を入れられるかどうか――それが今日は怖かった。

 扉の向こうから、紙の擦れる音がした。 次に、椅子が床を引っかく音。 そして、咳払いの音。

「……どうぞ」

 声がした。 声は低かった。 低いのに、聞いたことがないはずなのに、胸の奥が一度だけ、ぽん、と鳴った。

 母の手が、幹夫の手首をきゅっと掴んだ。 掴み方が強い。強いのに怒りじゃない。 落とさないための掴み方だ。

 扉が開く。 部屋の中は、消毒みたいな匂いがした。 薬くさい匂い。写真屋の暗室の匂いに少し似ている。似ているから、余計に胸がざわついた。

 部屋の奥に男が座っていた。 痩せていて、背中が少し丸い。 丸いのに、折れていない。折れていない丸さだった。

 男が顔を上げた。 目が合った瞬間、幹夫の息がいったんどこかへ行った。 息が行ってしまうと、胸の中の警報が尖りそうになる。

 ――いき。

 幹夫は口の中で言って、石を握り直した。 冷たさが戻ってきて、息も戻った。

 男の左の眉の上に、細い線が見えた。 糸みたいな傷。 そこだけ、笑うと少し上がりそうな形。

 母の喉が動いた。 動いて、声にならない。 声にならないかわりに、母は机の上へ紙束をそっと置いた。置き方が、縫い箱の下の紙と同じだった。落とさない置き方。飛ばさない置き方。

「……お名前を」

 役場の人が言った。 声が仕事の声だった。 仕事の声は、やさしくも意地悪でもなく、ただ線みたいにまっすぐだ。

 男は一度だけ瞬きをして、低く答えた。

「……○○、です」

 母の肩が、ほんの少し上がって、すぐ落ちた。 上がるのは期待。落ちるのは怖さ。 期待と怖さは、同じ袋に入っている。

 役場の人が続ける。

「ご家族の方を、覚えていますか。奥さまの呼び方。お子さんの呼び方」

 男は、母を見た。 見方が、探る目じゃない。 遠くを見る目だった。 遠くを見る目は、思い出を探している目だ。

 男の口が、少しだけ動いた。 動いて、止まって、もう一度動いて――最後に、声が出た。

「……おまえさん」

 母の指が、机の端をきゅっと掴んだ。 掴むのに、折らない。折らないための掴み方。

 役場の人が、間を置かずに言った。

「お子さんは」

 男は視線を、幹夫へ移した。 移すのが遅い。 遅いのは迷いじゃない。 目が、そこへ辿り着くまでの“間”が長いのだ。

 幹夫は、石を握ったまま、まっすぐ見返した。 見返すのは怖い。 でも見返さないと、会の字の意味が逃げてしまいそうだった。

 男の目が、幹夫の帽子の影を越えて、顔の輪郭に触れた。 触れた瞬間、男の眉の上の傷が、ほんの少し動いた。

「……みき……」

 声が、途中で止まった。 止まる声は、折り目みたいに震える。

 もう一度、男が息を入れた。 その息の入れ方が、妙に知っている息の入れ方に見えた。 まず、いき。

「……みき坊」

 その二文字が落ちた瞬間、幹夫の胸の中で、何かが「届いた」音を立てた。 どん、じゃない。 鈴でもない。 もっと小さくて、もっと深い、折り目の音。

 母が、息を吐いた。 吐いた息は軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、落ちなかった息だった。

 母は声を出さずに、ただ頷いた。 頷きが、返事になった。 声より先に、頷きが答えになった。

 空っぽの袖の男が、帽子を胸に押さえた。 押さえた指が白い。白い指は、血を引っ込めている指だ。

 役場の人が、淡々と紙に何かを書いた。 鉛筆の先が、紙の上を走る音。 走る音は速いのに、部屋の時間は遅かった。 遅い時間の中で、幹夫は「会」の字の形を思い出した。 会う、は、足が止まる。

 母が、やっと声を出した。 声は低い。倒れない低さ。 でもその低さの端が、少しだけ震えていた。

「……左の眉の傷は」

 男は、左の眉の上に指を当てた。 触れ方が、確かめる触れ方だった。

「……網で。……蒲原の、浜でな」

 浜。 蒲原。 その地名が、部屋の白い壁を一瞬だけ柔らかくした。 幹夫の喉の奥が熱くなって、声が出なかった。

 母は、目を閉じなかった。 閉じたら、影が濃くなりすぎる気がしたからだ。 母はただ、机の上の紙の角を揃え直した。揃えることで、崩れないようにした。

 帰り道、清水の風は少し冷たかった。 母は何も言わず、風呂敷包みを腹んとこで押さえた。 押さえる指が、行きより少しだけ軽い。軽いのに、震えている。

 空っぽの袖の男が、ぽつりと言った。

「……会えたな」

 母は、すぐに頷かなかった。 頷く前に、息をひとつ入れた。 まず、いき。

「……会えた」

 母はやっと言った。 会えた、は嬉しい言葉にも聞こえるのに、今日は痛い言葉にも聞こえた。 会えた、の先に、まだ紙がある。まだ手続きがある。まだ、がいる。

 幹夫は石を握り直した。 冷たさが、いまは少し優しい。 優しい冷たさは、熱くなりすぎた胸を、丸くしてくれる。

 夜、幹夫は小さな紙を切って、封筒の形を描いた。 宛名は「おかあちゃんへ」。 中に、今日の二文字を入れたかった。

 > あえた > でも まだ こわい > みきぼう って きこえた

 最後に、小さく書く。

 会

 丸をひとつ。 止まった足が、また戻ってこられるように置く丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が震えた。震えは恥ずかしさと、熱くなった胸の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、母の字だった。

 > あえた ってことは > いき が もどった ってこと > まだ は まだ > でも あえた も ほんと > うん

 最後に、小さな丸。

 幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、今日――「みき坊」という呼び方は届いた。 届いた呼び方は、答えみたいで、まだ途中の折り目みたいで、胸の奥に静かに残った。

 
 
 

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