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信の字

 朝の道が、ひとつだけ鳴った。

 ちりん、ちりん。

 自転車の鈴。 蒲原の道は、潮と砂と鉄の匂いの上に、こういう鈴が時々落ちてくる。

 幹夫は縁側のふちで、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 鈴の音が近づくと、父の肩がふっと上がりかけた。 上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……鈴の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 ふう……。

 母が台所の境目から、急がせない声で言った。

「郵便だに」

 郵便。 その言葉だけで、ちゃぶ台の端の「まちばこ」が急に“箱”らしく見えた。 いつも空っぽの、来る場所。 来る場所が、今日はほんとに来る場所になる。

 ――いき。

 戸口が小さく鳴る。

 とん、とん。

 母が返事をして戸を開けると、外の匂いと一緒に、紙の匂いが入ってきた。 紙の匂いは、乾いた匂い。 乾いた匂いは、胸を少しだけ固くする日がある。

 配達の人が、帽子の影から顔を出して、短く言った。

「郵便。……こちら」

 差し出されたのは、薄い封筒じゃなくて、はがき。 角が硬い。 硬いものは、置きたくなる。

 母ははがきを、いきなり掴まずに、いったん戸口の置き布の上へ置いた。 置いてから、指で端を押さえて受け取る。

 とん。

 音が眠る。

「ありがとね」

 配達の人が帰って、鈴が遠ざかる。

 ちりん、ちりん。

 遠ざかる音は、追いかけなくていい音。 追いかけなくていいと、息が戻る。

 ――いき。

 母がはがきを持って、ちゃぶ台の「まちばこ」のそばへ置いた。 置いて、手を離す。 離すと、選べる。

「父ちゃん宛てだに」

 宛て。 矢じゃない。 でも、胸に届く宛て。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父はすぐ手を伸ばさなかった。 ま札を懐から出して、ちゃぶ台の端にそっと置く。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 父が低く言った。

「……ま」

 それから、はがきを見る。 見る目が、遠くへ行かない。 今ここで、紙を見る目。

 父がぽつりと言った。

「……字が……多いな」

 母が、ぶつけない声で言う。

「読まんでもええ。……まず置け。置いたら、息が入る」

 父ははがきを掌に乗せる前に、いちど置き布の上に置いた。 置いてから、端をそっとつまむ。 つまむと、紙が暴れない。

 父が、ゆっくり読み始めた。 声には出さない。 声に出さない読むとき、父の目だけが動く。

 幹夫は、父の目の動きが止まるところを見ていた。 止まるところに、いつも“刺さるもの”がある。

 ――いき。

 父の目が止まった。 止まって――喉がごくりと動く。

 母が、そっと訊いた。

「……なんだに」

 父は少し間を置いて、息を吐いた。

 ふう……。

「……組の……頭(かしら)からだ」

 組の頭。 広場の柵の人たち。 昨日の「頼む」。

 父ははがきを、母にも見えるように、置き布の上へそっと置いた。 投げない。 押しつけない。 置いて渡す。

 はがきには、短い字でこう書いてあった。

昨日は柵の件、助かった。兄さん、頼りにしている。次の件も、また頼む。――組

 頼。 頼りにしている。 また頼む。

 文字が“頼”の形で刺さっているのに、今日は不思議と胸が痛くない。 痛くない代わりに、胸の奥があたたかい。

 幹夫の喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息。

 ――いき。

 父ははがきから目を離して、縁側の外の光をいちど見た。 光は鳴らない。 鳴らない光は、胸を落ち着かせる。

 父がぽつりと言った。

「……頼りに……してる、って」

 母が頷く。

「うん。……信じてくれとる、ってことだに」

 信じて。 その言葉が、ちゃぶ台の上に新しい皿を置いたみたいに座った。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「信じてもらえるなら上等だに。……信じられんのが一番腹が荒れる」

 父が小さく笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。

 ふう……。

「……俺、信じてもらうの……慣れてねぇ」

 慣れてねぇ。 それは、弱さじゃなく、正直さの言い方だった。

 幹夫は父の横へ、少しだけ近づいた。 近づきすぎない。 近づきすぎると、父の胸が窮屈になる日がある。 でも離れすぎない。 離れすぎると、頼む端っこが落ちる。

 ――いき。

「……父ちゃん、昨日、結べた」

 父は一瞬、幹夫を見て――目を逸らさなかった。 今ここで見て、ぽつりと言った。

「……結べたな」

 言葉が短い。 短いのに、落ちない。

 母が、はがきの端を指でとん、と押さえた。

「返事、出す?」

 返事。 返。 昨日の字が、ここへ戻る。

 父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は懐のま札の角を撫でた。 撫でると、手が戻る。

 ふう……。

「……書く。……短くでいいか」

 母が頷く。

「ええだに。……短いのが刺さらん」

 父は縁側へ出て、置き布の上に板を置いて、はがきの裏へ鉛筆を当てた。 いきなり書かない。 いちど、息を吐く。

 ふう……。

 吐いてから、書いた。

助かったと言ってくれて、ありがとう。また頼まれたら行く。――兄

 兄、という署名が、少し照れくさい。 照れくさいのに、外へ出せた。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は書き終えたはがきを、いきなり母へ渡さず、いったん置き布の上に置いた。 置いてから、母へそっと押し出す。

 母がそれを受け取って、うなずいた。

「ええ返事だに。……“信”がある」

 信。 言われたその字が、幹夫の胸の中で小さく光った。

 夕方。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 信

 幹夫はその字を見た瞬間、朝のはがきと、父の短い返事が一緒に浮かんだ。 紙の上の言葉は、届く。 届くってことは、信じているってことだ。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは人だに。……ひと」

 人。 父。 母。 幹夫。 組の頭。 清水屋。 おきぬさん。

 母は右側をなぞった。

「こっちは言だに。……ことば」

 ことば。 置くことば。 放つことば。 返すことば。 頼むことば。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「信じるってのはな……人の言葉を、胸に置ける字だに。疑って刺さるんじゃなくて、置いて座らせる。……それとな、信は“手紙”の信でもあるだに。便りの信」

 便りの信。 ちゃぶ台の「まちばこ」が、また少し箱らしくなった。

 母は続けた。

「手紙ってのは、相手が“届く”と信じて書く。受け取るほうも、“この人の言葉だ”って信じて読む。……だから、信は人と言だに。人が言葉でつながるだに」

 つながる。 結の字の匂い。 続の字の匂い。

 父が新聞紙の「信」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、言葉……信用してなかった」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……刺さった言葉があっただに。だから怖かった。……でもな、今日の“助かった”は刺さらんかっただら?」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……刺さらんかった。……あったかかった」

 あったかかった。 父がそう言うと、家の中が少しだけ明るくなる。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「信じるなら飯を信じろ。……炊ける。食える。寝れる。そこが土台だに」

 土台。 土台があると、言葉も置ける。

 幹夫は鉛筆を握った。 信を書く。

 一回目の「信」は、言が小さくて、人が細くて、字が息苦しい顔になった。 息苦しいと、信じるのが窮屈に見える。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「窮屈ならな……言を太らせりゃええ。言葉に温度を入れる。……信じるのは、締めることじゃない。置くことだに。息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「信」は、言が少しふっくらして、字が座った顔になった。 座ると、信じるのが“守り”に見える。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「信」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……言葉が“ほんと”になる感じがするな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……置けた言葉は、嘘になりにくい。嘘になりにくいと、信じられるだに」

 母は「信」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、はがきの消印の丸みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

ゆうびんちりん きたかた うごいた けどま してみたたより に してる ってかいて あったうれしかったへんじかいた信ひと と ことばみきぼうおれすこししんじて みるいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……俺、頼んだの、覚えてるか」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……押さえて、って」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……あれ、信じて頼んだ。……信じて、助かった」

 信じて。 助かった。 その二つが並ぶと、胸の奥があたたかい。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「信はひとりで持たん。……相手の言葉を受けるのも信、自分の言葉を置くのも信だに」

 祖母が淡々と言う。

「置けりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 信が続く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

しん ってひと と ことば の じ なんだねきょうはがき きたたより に してる って かいて あったとうちゃんへんじ かいたぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「信」。 丸をひとつ。 消印の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは鈴の音の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

信 はひと と ことばてがみ の しんおいて すわらせるうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうたより に してる ってかいて あったこわかった けどま して息 してよめたへんじ かいた信 って じすこしむね が あたたかい

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――はがきの端を切り取った小さな紙片。 消印の丸が半分だけ残っている。刺さらない角に切ってある。 その紙片のすみに、父の震える字で小さく、

しん

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその紙片を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 信じる。 人の言葉を、胸に置く。 置けるように、まを作って、息を入れる。 そうすると、頼りは束じゃなく、道になる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、鈴の音のあとに届いた小さなはがきと、「助かった」という字は届いた。 届いた“信”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、言葉が座れる場所を、そっと家の中に増やしていった。

 
 
 

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