写の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月5日
- 読了時間: 7分

清水へ行く朝、母はいつもより早く手を洗っていた。 洗って、拭いて、また洗う。指先を念入りに。 水の音が、台所の湯気の音より少し硬い。
幹夫はその背中を見ながら、内ポケットの鉛筆を指で確かめた。 竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、怖い日でも形が崩れにくい。
母は押し入れの奥から、黄ばんだ小さな封筒を出した。 角が丸い封筒。 中に、父の写真がいる封筒。
母は封筒を、そのまま風呂敷に包まなかった。 いちど白い紙で挟んで、挟んだ紙を折って、そこから包んだ。 折り目を増やすのは、飛ばさないためだ。 飛ばないようにするのは、なくさないためだ。 なくさないための手つきは、いつもより丁寧で、幹夫の胸がきゅっとした。
「幹夫」
母が呼んだ。声は低い。倒れない低さ。
「手ぇ、洗ってき」
「うん」
幹夫は裏口で手を洗った。 冷たい水が指の間を走って、指先だけが熱くなる。 熱いのは、嬉しいからじゃなく、怖いからだ。
戻ると、母が風呂敷包みを胸の前で抱えていた。 抱えるというより、押さえている。 押さえるのは、落とさないため。 落とすと、落ちるのは紙だけじゃない気がするから。
祖母が握り飯を二つ包んで、幹夫の手に渡した。
「写真屋のとこ、薬くせぇでな。腹減ったら先に食え」
薬くさい。 その言い方が、幹夫の胸に小さくひっかかった。 薬の匂いは、効く匂いと怖い匂いが一緒にいる。
「行ってきな」
祖母はそれだけ言って、戸口の板を撫でた。 撫で方が、送り出す撫で方だった。 送り出す撫で方は、帰ってくる場所を残す撫で方でもある。
汽車の中、母は窓の外を見なかった。 見ない代わりに、風呂敷包みを膝の上で押さえ続けた。 押さえる指が、たまに少し強くなる。強くなるたび、幹夫は息を一つ入れた。 母が教えてくれた「まず いき」の息。
清水に着くと、港の匂いが濃かった。 潮に油が混じって、木と縄が濡れている匂い。 匂いが多い場所は、声も多い。声が多いと、胸の中の警報は一度、どこに合わせればいいか迷って静かになる。静かになると、逆に怖さが輪郭を持つ。
写真屋は駅から少し歩いたところにあった。 看板の字が、少し古い形をしている。 幹夫は読めないのに、なぜか目が止まった。
——寫眞。
「写」の字が、見慣れた形じゃなく、長い手足を持っているみたいだった。 長い字は、遠い時間の匂いがした。
「母ちゃん、これ……」
幹夫が言うと、母は看板を見上げて小さく頷いた。
「写真屋だに」
母はそれ以上言わず、戸を開けた。 鈴が鳴る。 ちりん。 郵便の鈴より少し鈍い。鈍いのに、胸に届く。
中は暗めで、薬の匂いがした。 酸っぱいようで甘いような匂い。 匂いは目に見えないのに、舌の奥に触ってくる。
カウンターの向こうに、白い前掛けの男がいた。 目が細く、手が大きい。 大きい手は、紙を破りそうで怖い。 でも、その手つきが意外と丁寧で、幹夫は少しだけ息ができた。
「いらっしゃい」
男が言った。 母は風呂敷をほどき、白い紙で挟んだ封筒をそっと出した。 そっと、が大きかった。 そっと、の中に「落とさない」が全部入っている。
「……焼き増し、お願いできますか」
母の声は低い。倒れない低さ。 でもその低さの中に、少しだけ砂が混じっていた。喉が乾いた砂。
男は頷いて、封筒の口を見た。
「元は一枚ですか」
母は小さく頷いた。
「大事なもんで……」
母が「大事」と言った瞬間、幹夫の胸がきゅっとなった。 大事、は軽く言えない言葉だ。 軽く言えない言葉を口に出すと、言ったぶんだけ空気が重くなる。
男は「分かりました」と言って、手を洗うような仕草をしてから、封筒を受け取った。 受け取るとき、男の指は写真の面に触れないように、端だけを持った。 端だけを持つ、という優しさに、幹夫は少し救われた。
母の指が、封筒を離れる寸前まで、端に残っていた。 離すのが遅い。 遅いのは迷っているからじゃない。 遅いのは、「離れる間」が長いからだ。
男は帳面を出し、母の名前と住所を書いた。 紙の上の字はまっすぐで、迷いが少ない。 迷いが少ない字は、頼もしいのに怖い。決めてしまうから。
「何枚、焼きます」
「……二枚」
母が言った。 二枚、という数字が、幹夫の胸を少しだけ温めた。 一枚しかないものが、増える。増えるなら、失くしても全部にはならない。
男は値段を言った。 母は財布を開け、硬貨を出した。 硬貨の音が小さく鳴る。 鳴る音は、いつも少し恥ずかしそうだ。
男は、小さな札を一枚切って、朱肉をつけて押した。
どん。
赤い印。 郵便局の「預かった」の印と同じ匂いのする、残す赤。
「預り票です。夕方にはできます」
預り票。 預かる。 母の言う「預かる」と、同じ言葉がここにもある。 預かる、は捨てない言葉だ。 幹夫は胸の奥の警報が、少しだけ丸く鳴った。
母はその札を受け取り、すぐにはしまわなかった。 一度だけ目で確かめて、確かめ終わってから控え帳の間に挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。
待つ時間、母は店の隅の椅子に座った。 座っても、膝の上が落ち着かない。膝の上が落ち着かないのは、そこに写真がないからだ。 ない場所が、空っぽの形で残っている。
幹夫は店の壁に貼ってある写真を見た。 子どもの写真。男の写真。女の写真。 みんな、笑っているようで、どこか遠い。 写真の笑いは、今の笑いじゃない。 今じゃない笑いが、紙の中で生きている。
奥のほうから、扉の開く音がした。 そして、赤い灯りがちらりと見えた。
暗室。 暗い部屋。 暗いのに、赤い。 赤いのは怖い色のはずなのに、あの赤は怖い赤じゃなく、作る赤に見えた。 作る赤は、叫ばない。
幹夫は内ポケットから帳面を出した。 白い綴じ糸の結び目。 結び目があると、落ち着く。
「母ちゃん」
幹夫が小さく呼ぶと、母は「なに」と返した。 返事の声が、店の匂いに負けないくらい低い。倒れない低さ。
「写真の“しゃ”…って、さっきの字、難しいね」
母は壁の看板の「寫眞」を思い出したみたいに、少しだけ笑った。 湯気みたいな笑い。
「古い字だに。……今は“写”って書く」
母は帳面の空いたところに、ゆっくり書いた。
写
幹夫はその形を見た。 屋根みたいな線が上にあって、その下に小さな形がある。 屋根の下に、何かをしまう字に見えた。
「写す、ってのはな」
母は言った。
「こっちの形を、あっちへ移す。……真似するのと同じだに」
真似する。 便の字を真似した日。 父の葉書の字を写した日。 控え帳を作った日。 全部、写しながらここまで来た。
「じゃあ、父ちゃんも……写される?」
幹夫が聞くと、母は少しだけ黙ってから頷いた。
「うん。……写されて、増える」
増える。 増える、という音が、店の薬の匂いの中でも少し甘く聞こえた。
幹夫は「写」を真似して書いた。 一画目、二画目。 線が少ないのに、少ないほど怖い。ずれるとすぐ違う顔になる。
でも書けた。 書けた「写」は、まだ幼いのに、ちゃんと屋根の下で息をしていた。
母はその横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
夕方、男が奥から出てきた。 手に、小さな封筒を持っている。 封筒があるだけで、空気が少し戻ってきた。戻ってくる空気は、胸に触れる。
「お待たせしました」
男は言って、封筒を母へ渡した。 母は受け取るとき、指がほんの少し震えた。 震えは寒さじゃない。戻ってきたものを落としたくない震え。
「元も、ちゃんとあります」
男が言った。 その一言で、母の肩がほんの少し落ちた。 落ちるのは、安心の落ち方だった。
母は封筒の口を開け、まず元の写真を確かめた。 確かめてから、焼き増しの写真を一枚、二枚。 二枚の父が並ぶと、幹夫の胸が変な形になった。 一人なのに二人。 二人なのに一人。
母は焼き増しの一枚を、白い紙で挟んだ。 挟んで、折って、折り目をつける。 折り目を増やすと、紙は飛ばない顔になる。
「これ、役場に送る」
母が言った。 送る、は手を離す言葉だ。 手を離す言葉なのに、今日は少しだけ離しやすい。 写しだから。 元が残るから。
幹夫は小さく頷いた。 頷きながら、父の目をもう一度見た。 写真の目は、笑っているのに遠い。 遠いのに、紙の上なら、ちゃんと戻ってくる。
蒲原へ帰る汽車の中、母は封筒を膝の上で押さえた。 押さえながら、控え帳を一度だけ開いて、預り票の場所を確かめてから閉じた。 確かめるだけで、心が少し整う。
幹夫は帳面を開いて、今日のページに書いた。
> うつす > ふえる > のこる
そして、今日覚えた字をひとつ置いた。
写
字の横に、丸をひとつ。 今日ここまで、の丸。
家に着くと、祖母が戸口で待っていた。 母は封筒を胸に押さえたまま言った。
「焼けた」
祖母は「ほう」と頷いただけで、余計なことは聞かなかった。 聞かない優しさは、家の匂いがした。
夜、母は焼き増しの一枚を、役場へ送るための封筒に入れた。 宛名を書いて、折り目で閉じる。 そして封筒の横に、小さく「写」と書いた。 写し、の写。 元じゃない、と自分に言い聞かせる字。
母は封筒を縫い箱の脇に置いて、幹夫の頭に手を置いた。 撫でない。押さえる。崩れないように押さえる手。
「明日、また郵便局」
母が言った。 明日、という言葉が、今日の終わりに小さく灯った。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、暗室の赤い灯りは届いた。 叫ばない赤の中で、父の顔は写され、増えた。 幹夫はその増えた一枚を、飛ばないように折り目の中へしまいながら、胸の奥に小さな「まだ」をそっと残した。





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