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写の字

 清水へ行く朝、母はいつもより早く手を洗っていた。 洗って、拭いて、また洗う。指先を念入りに。 水の音が、台所の湯気の音より少し硬い。

 幹夫はその背中を見ながら、内ポケットの鉛筆を指で確かめた。 竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、怖い日でも形が崩れにくい。

 母は押し入れの奥から、黄ばんだ小さな封筒を出した。 角が丸い封筒。 中に、父の写真がいる封筒。

 母は封筒を、そのまま風呂敷に包まなかった。 いちど白い紙で挟んで、挟んだ紙を折って、そこから包んだ。 折り目を増やすのは、飛ばさないためだ。 飛ばないようにするのは、なくさないためだ。 なくさないための手つきは、いつもより丁寧で、幹夫の胸がきゅっとした。

「幹夫」

 母が呼んだ。声は低い。倒れない低さ。

「手ぇ、洗ってき」

「うん」

 幹夫は裏口で手を洗った。 冷たい水が指の間を走って、指先だけが熱くなる。 熱いのは、嬉しいからじゃなく、怖いからだ。

 戻ると、母が風呂敷包みを胸の前で抱えていた。 抱えるというより、押さえている。 押さえるのは、落とさないため。 落とすと、落ちるのは紙だけじゃない気がするから。

 祖母が握り飯を二つ包んで、幹夫の手に渡した。

「写真屋のとこ、薬くせぇでな。腹減ったら先に食え」

 薬くさい。 その言い方が、幹夫の胸に小さくひっかかった。 薬の匂いは、効く匂いと怖い匂いが一緒にいる。

「行ってきな」

 祖母はそれだけ言って、戸口の板を撫でた。 撫で方が、送り出す撫で方だった。 送り出す撫で方は、帰ってくる場所を残す撫で方でもある。

 汽車の中、母は窓の外を見なかった。 見ない代わりに、風呂敷包みを膝の上で押さえ続けた。 押さえる指が、たまに少し強くなる。強くなるたび、幹夫は息を一つ入れた。 母が教えてくれた「まず いき」の息。

 清水に着くと、港の匂いが濃かった。 潮に油が混じって、木と縄が濡れている匂い。 匂いが多い場所は、声も多い。声が多いと、胸の中の警報は一度、どこに合わせればいいか迷って静かになる。静かになると、逆に怖さが輪郭を持つ。

 写真屋は駅から少し歩いたところにあった。 看板の字が、少し古い形をしている。 幹夫は読めないのに、なぜか目が止まった。

 ——寫眞。

 「写」の字が、見慣れた形じゃなく、長い手足を持っているみたいだった。 長い字は、遠い時間の匂いがした。

「母ちゃん、これ……」

 幹夫が言うと、母は看板を見上げて小さく頷いた。

「写真屋だに」

 母はそれ以上言わず、戸を開けた。 鈴が鳴る。 ちりん。 郵便の鈴より少し鈍い。鈍いのに、胸に届く。

 中は暗めで、薬の匂いがした。 酸っぱいようで甘いような匂い。 匂いは目に見えないのに、舌の奥に触ってくる。

 カウンターの向こうに、白い前掛けの男がいた。 目が細く、手が大きい。 大きい手は、紙を破りそうで怖い。 でも、その手つきが意外と丁寧で、幹夫は少しだけ息ができた。

「いらっしゃい」

 男が言った。 母は風呂敷をほどき、白い紙で挟んだ封筒をそっと出した。 そっと、が大きかった。 そっと、の中に「落とさない」が全部入っている。

「……焼き増し、お願いできますか」

 母の声は低い。倒れない低さ。 でもその低さの中に、少しだけ砂が混じっていた。喉が乾いた砂。

 男は頷いて、封筒の口を見た。

「元は一枚ですか」

 母は小さく頷いた。

「大事なもんで……」

 母が「大事」と言った瞬間、幹夫の胸がきゅっとなった。 大事、は軽く言えない言葉だ。 軽く言えない言葉を口に出すと、言ったぶんだけ空気が重くなる。

 男は「分かりました」と言って、手を洗うような仕草をしてから、封筒を受け取った。 受け取るとき、男の指は写真の面に触れないように、端だけを持った。 端だけを持つ、という優しさに、幹夫は少し救われた。

 母の指が、封筒を離れる寸前まで、端に残っていた。 離すのが遅い。 遅いのは迷っているからじゃない。 遅いのは、「離れる間」が長いからだ。

 男は帳面を出し、母の名前と住所を書いた。 紙の上の字はまっすぐで、迷いが少ない。 迷いが少ない字は、頼もしいのに怖い。決めてしまうから。

「何枚、焼きます」

「……二枚」

 母が言った。 二枚、という数字が、幹夫の胸を少しだけ温めた。 一枚しかないものが、増える。増えるなら、失くしても全部にはならない。

 男は値段を言った。 母は財布を開け、硬貨を出した。 硬貨の音が小さく鳴る。 鳴る音は、いつも少し恥ずかしそうだ。

 男は、小さな札を一枚切って、朱肉をつけて押した。

 どん。

 赤い印。 郵便局の「預かった」の印と同じ匂いのする、残す赤。

「預り票です。夕方にはできます」

 預り票。 預かる。 母の言う「預かる」と、同じ言葉がここにもある。 預かる、は捨てない言葉だ。 幹夫は胸の奥の警報が、少しだけ丸く鳴った。

 母はその札を受け取り、すぐにはしまわなかった。 一度だけ目で確かめて、確かめ終わってから控え帳の間に挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。

 待つ時間、母は店の隅の椅子に座った。 座っても、膝の上が落ち着かない。膝の上が落ち着かないのは、そこに写真がないからだ。 ない場所が、空っぽの形で残っている。

 幹夫は店の壁に貼ってある写真を見た。 子どもの写真。男の写真。女の写真。 みんな、笑っているようで、どこか遠い。 写真の笑いは、今の笑いじゃない。 今じゃない笑いが、紙の中で生きている。

 奥のほうから、扉の開く音がした。 そして、赤い灯りがちらりと見えた。

 暗室。 暗い部屋。 暗いのに、赤い。 赤いのは怖い色のはずなのに、あの赤は怖い赤じゃなく、作る赤に見えた。 作る赤は、叫ばない。

 幹夫は内ポケットから帳面を出した。 白い綴じ糸の結び目。 結び目があると、落ち着く。

「母ちゃん」

 幹夫が小さく呼ぶと、母は「なに」と返した。 返事の声が、店の匂いに負けないくらい低い。倒れない低さ。

「写真の“しゃ”…って、さっきの字、難しいね」

 母は壁の看板の「寫眞」を思い出したみたいに、少しだけ笑った。 湯気みたいな笑い。

「古い字だに。……今は“写”って書く」

 母は帳面の空いたところに、ゆっくり書いた。

 写

 幹夫はその形を見た。 屋根みたいな線が上にあって、その下に小さな形がある。 屋根の下に、何かをしまう字に見えた。

「写す、ってのはな」

 母は言った。

「こっちの形を、あっちへ移す。……真似するのと同じだに」

 真似する。 便の字を真似した日。 父の葉書の字を写した日。 控え帳を作った日。 全部、写しながらここまで来た。

「じゃあ、父ちゃんも……写される?」

 幹夫が聞くと、母は少しだけ黙ってから頷いた。

「うん。……写されて、増える」

 増える。 増える、という音が、店の薬の匂いの中でも少し甘く聞こえた。

 幹夫は「写」を真似して書いた。 一画目、二画目。 線が少ないのに、少ないほど怖い。ずれるとすぐ違う顔になる。

 でも書けた。 書けた「写」は、まだ幼いのに、ちゃんと屋根の下で息をしていた。

 母はその横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夕方、男が奥から出てきた。 手に、小さな封筒を持っている。 封筒があるだけで、空気が少し戻ってきた。戻ってくる空気は、胸に触れる。

「お待たせしました」

 男は言って、封筒を母へ渡した。 母は受け取るとき、指がほんの少し震えた。 震えは寒さじゃない。戻ってきたものを落としたくない震え。

「元も、ちゃんとあります」

 男が言った。 その一言で、母の肩がほんの少し落ちた。 落ちるのは、安心の落ち方だった。

 母は封筒の口を開け、まず元の写真を確かめた。 確かめてから、焼き増しの写真を一枚、二枚。 二枚の父が並ぶと、幹夫の胸が変な形になった。 一人なのに二人。 二人なのに一人。

 母は焼き増しの一枚を、白い紙で挟んだ。 挟んで、折って、折り目をつける。 折り目を増やすと、紙は飛ばない顔になる。

「これ、役場に送る」

 母が言った。 送る、は手を離す言葉だ。 手を離す言葉なのに、今日は少しだけ離しやすい。 写しだから。 元が残るから。

 幹夫は小さく頷いた。 頷きながら、父の目をもう一度見た。 写真の目は、笑っているのに遠い。 遠いのに、紙の上なら、ちゃんと戻ってくる。

 蒲原へ帰る汽車の中、母は封筒を膝の上で押さえた。 押さえながら、控え帳を一度だけ開いて、預り票の場所を確かめてから閉じた。 確かめるだけで、心が少し整う。

 幹夫は帳面を開いて、今日のページに書いた。

 > うつす > ふえる > のこる

 そして、今日覚えた字をひとつ置いた。

 写

 字の横に、丸をひとつ。 今日ここまで、の丸。

 家に着くと、祖母が戸口で待っていた。 母は封筒を胸に押さえたまま言った。

「焼けた」

 祖母は「ほう」と頷いただけで、余計なことは聞かなかった。 聞かない優しさは、家の匂いがした。

 夜、母は焼き増しの一枚を、役場へ送るための封筒に入れた。 宛名を書いて、折り目で閉じる。 そして封筒の横に、小さく「写」と書いた。 写し、の写。 元じゃない、と自分に言い聞かせる字。

 母は封筒を縫い箱の脇に置いて、幹夫の頭に手を置いた。 撫でない。押さえる。崩れないように押さえる手。

「明日、また郵便局」

 母が言った。 明日、という言葉が、今日の終わりに小さく灯った。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、暗室の赤い灯りは届いた。 叫ばない赤の中で、父の顔は写され、増えた。 幹夫はその増えた一枚を、飛ばないように折り目の中へしまいながら、胸の奥に小さな「まだ」をそっと残した。

 
 
 

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