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受の字

 朝の軒下は、昨日より少しだけ静かだった。 静か、というより――息が通っている静か。

 燕の巣の前に下げた網が、風でふわりと揺れる。 揺れても鳴らない。 鳴らない揺れは、胸を走らせない。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 貝殻の受け皿の欠けたほうが、便りの箱の横で、少し光っていた。 昨日の白い糸の輪――燕の足からほどいた“解けた印”が、その上で丸く座っている。 丸いものが座っていると、心も座る。

 ――いき。

 そのとき、戸口が小さく鳴った。

 とん、とん。

 音が小さい。 小さいのに、境目の音は胸に届きやすい。

 幹夫の胸がぽん、と鳴って、息をひとつ入れる。

 ――いき。

 母が台所の境目から、急がせない声で言った。

「はーい」

 戸が開くと、潮の匂いと一緒に、外の人の匂いが入ってきた。 外の人の匂いは悪くない。 ただ、家の中の匂いじゃない。

 そこに立っていたのは、おきぬさんだった。 胸のところに、灰色の猫を抱いている。 猫の耳が少し寝ていて、目だけがきょろきょろしている。 きょろきょろは、まだ落ち着けていない目。

 もう片方の手に、小さな包み。 新聞紙で巻いて、麻紐で結んである。 結び目の真ん中に、ちいさな“ま”が残っている結び方。

「……今朝、ええかね」

 おきぬさんの声は、昨日より丸い。 丸い声は刺さらない。

 母が頷く。

「ええだに。……猫、戻った?」

 おきぬさんは猫の背中をそっと撫でた。

「戻った戻った。……夜中にな。腹へった顔して、ふてくされて帰ってきただよ」

 猫の腹。 祖母の道。 生きものの道。

 おきぬさんは小さく頭を下げて、包みを差し出した。

「昨日と今朝……ほんと、すまんね。助けてもらったで……これ、ほんの気持ち」

 気持ち。 “気持ち”は、形がなくて、でも重いときがある。 重いと、受け皿が要る。

 幹夫の喉の奥が熱くなりかけて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 縁側の奥で、父の足音が止まった。 止まる足音。 止まれる足は、戻れる足。

 父が姿を見せる。 猫を見た瞬間、肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……猫の目だ」

 名前を置く。 置けると、目は目のままで座る。

 ふう……。

 父は懐から、丸い角の札――「ま/息」を指でつまんで、戸口の置き布の上にそっと置いた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 父が低く言った。

「……ま」

 それだけで、家の中の空気が少しだけ広くなる。 広いと、受け取れる。

 おきぬさんは、父の足元の札と置き布を見て、目を丸くした。

「……最近、みんな布だねぇ」

 母が笑わない笑いで言う。

「うん。……がんって鳴らさんためだに」

 おきぬさんは包みを、手渡しで押しつけず、いったん置き布の上にそっと置いた。 置いて、手を離す。 離すと、相手の胸に選ぶ余地ができる。

「……受け取ってほしいだよ。ほんとに、ほんとに……」

 “ほしい”。 おきぬさんのほしいは、物じゃなくて、許しの続きみたいだった。 続きは、受け取ってもらうと座る。

 父はすぐ手を伸ばさなかった。 間がある。 その間に、父の喉がごくりと動く。 動いて――息を吐く。

 ふう……。

「……こんな時勢に……」

 父の声は低い。 低いのに、硬い。

 母がぶつけない声で挟んだ。

「受けるほうも、守りだに。……受け取れば、おきぬさんの胸が落ち着く。置いてくれたで、もう刺さらん」

 置いてくれたから刺さらん。 その言い方が、父の肩をほんの少し落とした。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「もらえるもんぁ、もらえ。……もらうんじゃねぇ。受けるんだに」

 “受ける”。 祖母の口から出ると、太い道になる。

 父は、置き布の上の包みに、指先だけ触れた。 触れる前に、ま札の角を撫でる。 撫でて、息。

 ――いき。

 父は包みを掌に乗せるんじゃなく、いったん貝殻の受け皿の欠けたほうの隣へ――布の上へ、そっと移した。 受け皿の近く。 “受ける場所”へ置く。

 父が、やっと言った。

「……いただく」

 短い。 でも、落とさない“いただく”。

 おきぬさんの肩がふっと落ちた。 落ちると、顔が少しだけやわらかくなる。

「……よかった。ねこ、あんたにも謝れって言っといたで」

 猫は、父のほうをちらりと見て、目を逸らした。 逸らす目は、まだ恥ずかしい目。

 父は猫を追わずに、低く言った。

「……巣は……ここまでだ」

 “ここまで”。 昨日の許しの言葉。 境の言葉。 でも、刃じゃない。

 おきぬさんが頷く。

「うん。……うちも、しばらく中に入れとく。腹ぁ鳴くけど……飯で黙るだら」

 飯で黙る。 祖母の道が、外の人にも通っている。

 幹夫は猫の背中を見て、喉の奥が熱くなった。 熱いのは、怒りじゃない。 “受け取れた”の熱さ。

 ――いき。

 おきぬさんはもう一度頭を下げて、帰り際に小さく言った。

「みき坊も、ありがとうねぇ。……あんた、手がやさしい」

 手がやさしい。 その言葉が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 戸が閉まったあと、家の匂いが戻ってきた。 戻る匂いは、安心の匂い。

 父は置き布の上の包みを見て、ぽつりと言った。

「……受け取るの、苦手だ」

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、“大丈夫”が押しつけになる日がある。 だから、間。

 ――いき。

 母が包みの結び目を見て、低く言った。

「でも今日は受けた。……受けたら、おきぬさんの顔が戻っただに」

 戻った。 顔が戻る。 胸が戻る。

 祖母が淡々と言う。

「受けるってのは、相手の重さを一回、預かることだに。預かったら、飯にして返せ」

 飯にして返せ。 返すのは物じゃなく、暮らし。 幹夫はその言い方が好きで、喉の奥が少し熱くなった。

 ――いき。

 母が包みをほどく。 新聞紙が、さら、と鳴る。 中から出てきたのは、小さな干した魚――硬いけど、香りが濃い。 たぶん、いわしの頭のほう。 骨が多いところ。 骨が多いところは、捨てないで味を出すところ。

「だしになるだに」

 母が言って、鍋へ入れた。 鍋が、ふつ、ふつ、と小さく言う。 小さい音は、胸を撫でる。

 父は湯気を見て、ぽつりと言った。

「……受けたもんが……匂いになるんだな」

 母が頷いた。

「うん。……匂いになりゃ、みんなで受けられる。ひとりで抱えんでええ」

 ひとりで抱えんでええ。 その言葉が、幹夫の胸の奥にすとん、と座った。

 ――いき。

 昼の汁は、薄いのに、ちゃんと旨かった。 旨いと、口がほどける。 口がほどけると、言葉が出やすい。

 父が、箸を止めて、ぽつりと言った。

「……ありがとう、って……言えばよかった」

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母は否定しない。

「次、言えばええだに。……“次”があるのが、受けたってことだに」

 次がある。 続の字の匂い。 結の字の匂い。

 父は小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……次、言う」

 夕方。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 受

 幹夫はその字を見た瞬間、貝殻の受け皿と、置き布の上の包みと、父の「いただく」が一緒に浮かんだ。 受ける場所があると、心がこぼれない。

 母は上の形を指でなぞった。

「ここ、手みたいだら。……上からの手」

 上からの手。 渡されるもの。 降ってくるもの。 来るもの。

 母は真ん中をなぞった。

「ここ、屋根みたいな覆いだに。……いったん、包む」

 包む。 包むと、刺さらない。

 母は下をなぞった。

「ここ、又(また)って手だに。……下の手。受ける手」

 受ける手。 掴む手じゃなく、皿みたいな手。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「受けるってのはな……上から来たものを、下の手でこぼさずに持つ字だに。受け皿の“受”もこれだに。皿がないと、こぼれて刺さる。皿があれば、座る」

 座る。 置く。 間。 息。 今日までの字が、ひとつの皿にまとまった。

 母は続けた。

「それとな、受けるってのは“弱い”じゃない。……受けたら、次ができる。返すことも、守ることもできる。受けんと、ずっと走るだに」

 走る。 父の肩の走り。 今日、父は走らなかった。

 父が新聞紙の「受」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、今まで……受ける皿がなかった」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……だから溢れた。……でも今は、布がある。箱がある。ま札がある。みきの“いき”もある。皿が増えた」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「皿がありゃ飯がうまい。……皿がなきゃ飯も置けん」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……皿、増やしたいな」

 その言葉が、幹夫の胸の奥をあたためた。 あたためたから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 受を書く。

 一回目の「受」は、上の手が尖って、字が硬い顔になった。 硬いと、受けるのが“奪う”みたいに見える。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……下の手を太らせりゃええ。受けるほうを大きくする。……受けは、広さだに。息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「受」は、下の手が少し大きくなって、字が座った顔になった。 座ると、こぼれない字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「受」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 下の手の最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……皿の底みてぇだな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……底があれば座る。座れば、心も落ち着くだに」

 母は「受」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、貝殻の受け皿の光みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

おきぬ さんもってきたもらう のにがて だったでもぬの の うえ に おいたいただく って いえただし になったうまかった受さらほしいつぎありがとう って いういき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……受けるの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、受けたら、相手も落ち着く」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……相手の胸も、受ける……か」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「そうだに。……受けるってのは、相手の気持ちの置き場を作ることだに」

 祖母が淡々と言う。

「置き場がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 受けられる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

うける ってうえ から きた もの をした の て でこぼさない じ なんだねきょうおきぬ さんきもち もってきたとうちゃんぬの の うえ に おいていただく って いえただし の においぼく すきいき

 最後に、小さく「受」。 丸をひとつ。 皿の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは戸の「とん、とん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

受 はうえ の て と した の てさら を つくるこぼさんうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうもらう のこわかったでもぬの が さら に なったいただく って いえた受 って じすこしむね の さらふえたつぎありがとう って いう

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――包みを結んでいた麻紐の切れ端。 蝶結びになっていて、ほどける余地がある。刺さらない結び。 紐のそばに、父の震える字で小さく、

うけとる

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその麻紐を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 受ける。 こぼれないように、皿を作る。 皿があれば、相手の気持ちも、自分の気持ちも座れる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、新聞紙の包みの匂いと、「いただく」という父の小さい言葉は届いた。 届いた“受け取れた”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、心の底をそっと広くしていった。

 
 
 

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