名の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 7分

夕方の蒲原は、声がいちど低くなる。 日が沈みかけると、海の青が黒に寄って、道の端っこが見えにくくなる。 見えにくくなると、人は声を伸ばす。 伸ばして、角を丸くして、家々の軒先に触らせてから、相手まで届かせる。
「……みっちゃん、帰るぞー」
どこかの父親の声。 呼ぶ声は、命令みたいなのに、どこかあたたかい。 あたたかいのに、ちゃんと遠い。 遠いから、迷子にならずにすむ。
幹夫は縁側に座って、その声を聞いていた。 聞いているだけで、胸の奥がすこし落ち着く。 名前は、見えないときの手すりみたいだと思った。
隣で、父が小さな木の舟を指で転がしていた。 腹が丸い舟。 丸い腹は、沈みにくい。 沈みにくいものを見ると、胸の中の「走りそう」が少しだけ遅くなる。
父は舟を転がすのをやめて、路地のほうを見た。 夕方の声が、もういちど伸びる。
「……さかなぁ――」
その声の伸び方を、父はじっと見ているみたいだった。 見ているのに、目が遠くならない。 今の「見てる」は、ここにいる見てるだ。
幹夫は、上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、夕方の薄暗さを刺さらなくする。
父が、ぽつりと言った。
「……夕方は、名前が要るな」
名前。 その一言が落ちた瞬間、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
幹夫は返事を探して、見つからなくて――息だけ入れた。
――いき。
父は、しばらく沈黙して、それから小さく続けた。
「……暗いと、顔が見えねぇ。……だから、呼ぶ」
呼ぶ。 呼ぶと、そこにいる。 呼ぶと、戻る道ができる。
幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さだった。
夕飯の支度の匂いが濃くなるころ、母が台所から顔を出した。 驚きを刃にしない顔で、低く言う。
「幹夫、手ぇ洗ってこい」
幹夫。 母はいつも幹夫を呼ぶ。 呼び方が暮らしの中にある。
幹夫は「うん」と言いかけて、ふと父のほうを見た。 父は、母の声に肩を揺らさないでいた。 揺らさないで、ただ、口の端をほんの少し動かした。
そして、父が言った。
「……幹夫」
幹夫。 父の口から、ちゃんとその二文字の音が出た。 みき坊、じゃない。 幹夫、という名そのまま。
その瞬間、幹夫の胸の奥が、ぽん、じゃ足りなくて、ぽん、ぽん、と二回鳴った。 二回鳴ると、嬉しさが走りそうになる。 走りそうになったから、幹夫は石を握って、息をひとつ入れた。
――いき。
「……うん」
返事は小さかった。 小さいのに、父の目が少しだけ細くなった。 細くなると、光が丸くなる。丸い光は痛くない。
父が照れたみたいに言った。
「……呼べた」
呼べた。 それだけ。 それだけなのに、幹夫は胸の奥が熱くて、目の奥が少しだけ痛かった。 痛いのに、嫌じゃない。 嫌じゃない痛さは、ほどける手前の痛さだ。
夜、灯りが落ちる前。 祖母が鍋を下ろす音がして、母が布巾を絞る音がして、家は静かに「寝る支度」の顔になった。
父は布団の前でいちど止まって、喉元を指で押さえた。 押さえる指は、強すぎない。 強すぎないのに、落とさない指。
「……向こうじゃ、名前、呼ばれんかった」
ぽつり。 その言葉は硬いのに、刃じゃなかった。 硬い言葉を、父が家の中へ置けたからだ。
母はすぐ包まなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。
「うん」
預かる「うん」。
父は続けた。
「……番号で呼ばれると……自分が、薄くなる」
薄くなる。 幹夫は胸がきゅっとした。 薄くなるのは怖い。 怖いから、息。
――いき。
母は、声を急がせない。
「薄くなったら、濃くすりゃええ。……ここで」
ここで。 その二文字は、畳の匂いがする。
父は、何か言いかけて、言葉を飲んだ。 飲んだところで、母が静かに言った。
「今夜も、呼ぶだに。……呼ばれたら、戻る」
呼ばれたら戻る。 それは、舟の戻る腹みたいな言い方だった。
幹夫は布団に入って、石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さが、暗い中の手すりになる。
――いき。
それだけで、夜は夜のままでいられた。
翌朝。 母は新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
名
幹夫は、その字を見た瞬間、昨日の夕方を思い出した。 暗い。 顔が見えない。 だから、呼ぶ。
母は指で上をなぞった。
「これ、夕(ゆう)だに。暗くなるほう」
次に下をなぞった。
「こっちは口。……声が出るとこ」
夕と口。 暗いときの口。 見えないときの声。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。
「名ってのはな……暗いとき、口で呼んで、相手を見つける字だに」
幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。 名前は、夜の道しるべ。 声は、暗いところの灯り。
父が「名」を見て、ぽつりと言った。
「……だから、夕方に要るんだな」
母は一度だけ頷いた。
「うん。……呼ぶってのは、渡すってことだに。声を渡す。名を渡す」
渡す。 昨日の字が、今日に繋がる。 字が道になっていく。
幹夫は鉛筆を握った。 夕を書く。 口を書く。 一回目の「名」は、夕が大きくなりすぎて、口が小さくなった。 暗さが大きいと、声が出にくい顔になる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「夕が大きくなったらな……口を太らせりゃええ。声のほう、残す」
声を残す。 残ると、戻れる。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「名」は、口が少しだけ座った。 座ると、字が「呼べる顔」になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「名」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 夕の払いが少し尖って、口が少し歪んだ。 歪んでいるのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「呼ぼう」が入っているからだ。
父は書き終えると、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は「ここまで」の息。
「……名、って字……俺、好きだな」
好き。 父の口から出る「好き」は、まだ珍しい。 珍しいのに、押しつけない好きだった。
そして父は、新聞紙の端にもう一つ、ゆっくり書いた。
幹夫
幹の線が少し揺れて、夫の最後が少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが「落とす尖り」じゃなく、「置く尖り」だからだ。
幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱くなりすぎて、息が浅くなりそうだったから、石を握って息をひとつ入れた。
――いき。
「……これ、ぼく?」
幹夫が小さく聞くと、父は少し照れたみたいに鼻の下を擦った。
「……おまえさんの名だ。……紙に置いとくと、逃げん」
逃げん。 その言い方が、縫い箱の下の紙の匂いと同じだった。
母は「名」と「幹夫」の横に、小さな丸をひとつずつ描いた。 丸は、ここまでの丸。 刺さらないための丸。
夜。 父の息が一度だけ早くなった。 布団が擦れて、肩が上がる気配。
幹夫の胸の中の警報がきゅっと鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「……ここだに」
少し間。 父の声が、布団の中から漏れた。
「……幹夫……」
呼び間違いじゃない。 幹夫の名が、父の口から出た。 自分が呼ばれているのに、幹夫は「戻ってる」のほうが先に胸に来て、目が熱くなった。
母が続けた。
「名、呼べたら戻る。……いき、入れて」
父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。
幹夫は石を握ったまま、口の中で小さく言った。
――いき。
暗さは暗さのままで、刺さらなかった。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> なまえ は> ゆうがた の くち> みえないとき ほど> よぶ> いき> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう> きのう> なまえ よべた> すこし> もどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな木片がひとつ。 木の舟の削りカスを固く握って、丸くしたみたいな木の玉。 その玉に、父の震える字で小さく、
> みき
とだけ彫ってある。 彫り跡は少し尖っているのに、触ると痛くない。 痛くないのは、丸く磨かれているからだ。
幹夫は木の玉を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
名は、暗いときの口。 見えないときの灯り。 呼べたら、戻れる。 紙にも、木にも、胸の中にも――置いておける。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「なまえよべた」という父の字は届いた。 届いた“呼ぶ”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、夕方の手すりを胸の奥に、そっと増やしていった。





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