和の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月9日
- 読了時間: 9分

朝の庭には、昨日の糸電話がそのまま残っていた。 缶の底の穴から白い糸が出て、たわんで、影になっている。 影は細い。細いのに、ちゃんとそこに居る。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。
戸の外で、誰かの草履が砂をこする音がした。 ざり、ざり。 生活の音。 でも、突然だと角が立つ音。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
戸の外から声。
「おはよーござんす」
隣のおばさんの声だった。 声が、今日は柔らかい。 柔らかいと、家の中の空気が刺さらない。
母が台所の境目から、急がせない声で返した。
「おはようございますだに」
それから――父が、縁側の板に手を置いたまま、ぽつりと言った。
「……おはよう……ございます」
声は小さい。 小さいのに、届いた。 届いたのが分かって、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
隣のおばさんが、戸口から顔を覗かせて、少しだけ目を細めた。 細めると、光が丸くなる。 丸い光は刺さらない。
「お父さんも、元気そうでよかったよ」
“よかったよ”は、押しつけない言い方だった。 受け取れるくらいの温度の言葉。
父は、返事まで少し間があって――その間に、幹夫は息を入れた。
――いき。
「……ああ……少しずつだら」
少しずつ。 家の合言葉。 それが外へ出たことが、幹夫には嬉しかった。
おばさんが去っていく足音が、ざり、ざり、と遠くなる。 遠くなると、胸の角も遠くなる。
父が縁側で、小さく息を吐いた。
「……声、出たな」
出たな。 それは、できた日の言い方だった。
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
朝飯のあと、母は茶葉の缶を開けた。 ふわっと立つ匂い。 苦いのに、やさしい匂い。 蒲原の匂いに、どこか似ている。
母が急がせない声で言った。
「正夫のとこ、昨日の礼に茶でも持ってくか」
礼。 謝。 許。 守。 話。 字が胸の中で静かに並ぶ。
父の眉の間が、ほんの少し寄って――でも、そこで止まった。 止まれた寄り方。 止まれたら、戻れる。
父が、ぽつりと言った。
「……俺も……行く」
その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
母は驚きを刃にしない顔で頷いた。
「ええよ。……声、置いてくるだに」
声を置く。 置く、という言い方が、幹夫の胸をあたためた。
正夫の家の戸口は、少し開いていた。 少し開いていると、間がある。 間があると、息が入りやすい。
母が声をかけた。
「おはようさんだに」
正夫の母さんが出てきて、笑った。
「あら、昨日はどうも。……その缶、うちの子、うるさかったでしょ」
うるさかった。 その言い方も、責める刃じゃなかった。 生活の笑いの言い方だった。
父が、そこで小さく頭を下げた。 深くじゃない。 でも、ちゃんと曲がる。 曲がる背中は、礼の背中だ。
「……こちらこそ……」
父の声は揺れた。 揺れるのに、折れない。 折れない揺れは、つなぐ揺れだった。
正夫が奥から飛び出してきて、缶を抱えた。
「おじさん! 今日もやる? 糸電話!」
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れる。
――いき。
父は、笑わなかった。 でも、口の端がほんの少しだけ上がった。 笑いきれないのに、笑いの形。
「……やるなら……小さい声でだ」
小さい声。 その言葉が、正夫の家の空気を丸くした。
「うん! 小さい声で!」
正夫が大きな声を出してから、慌てて口を押さえて笑った。 笑い声は、ふふ、と小さくなる。 小さくなると、刺さらない。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
庭の端と端で、また糸電話が始まった。 今日は、缶の下に布を敷いてある。 布があると、音が眠る。 眠ると、父の肩も眠る。
正夫が、缶に向かって“叫ばない”ように言った。
「……みきぼー、きこえる?」
(……きこえる)
幹夫が返す。 糸を通る声は、まっすぐなのに刺さらない。 刺さらないのは、置く声だからだ。
父が、缶に向かって一言だけ置いた。
「……正夫」
(……まさお)
名前が届く。 名前が届くと、人が人になる。
正夫が少し照れて、小さく言った。
「……うん」
その“うん”が、幹夫には妙に嬉しかった。 “うん”は、受け取った合図だからだ。
そこで、正夫がふいに言った。
「みきぼー、昨日の黒い石、ちょーだい」
欲しい。 欲しいは、胸を走らせる。 走ると、糸が泣く。 泣くと、空気が尖る。
幹夫の胸がきゅっとして、言葉が出なかった。 出ないときは、間を置く。
――いき。
父のほうの缶から、低い声が来た。
「……一つだけだ。……欲しいなら、ひとつ渡す。……でも、礼、言え」
礼。 返す。 渡す。 声で。
正夫が、缶に口を近づけて小さく言った。
「……ありがとう」
(……ありがとう)
糸の向こうの“ありがとう”は、小さいのにちゃんと届いた。 届いた瞬間、幹夫の胸の奥の角が、ふっと丸くなる。
幹夫は布包みから黒い小石を取り出して、手のひらに乗せた。 黒いのに、角がない。 角がないのは、波と時間のせいだ。
幹夫は石を正夫の掌に置いて、言った。
「……一つね」
“ね”が入ると、刃にならない。 “ね”は、間の友だ。
正夫が頷いて、照れたように言った。
「……うん。……ごめん。……ほしくなった」
ごめん。 謝。 それが言えると、遊びも遊びのまま続く。
父が、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。
「……今の、和(わ)だな」
和。 その一言が、幹夫の胸の中にすとんと落ちた。
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
家へ戻る道すがら、父は何も喋らなかった。 喋らないのに、黙ってもいなかった。 足音が「居る」足音だった。
門をくぐるとき、父がぽつりと言った。
「……声、置けると……家が丸くなるな」
丸くなる。 丸くなると、刺さらない。
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。
――いき。
「……うん。……きょう、やわらかかった」
やわらかかった。 自分の言葉で言えると、胸の奥が少しほどける。
父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……やわらかいのが……和、か」
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
和
幹夫は、その字を見た瞬間、糸電話の「ありがとう」と「うん」を思い出した。 声が刺さらないで、行って戻ってきたこと。 欲しい、が刃にならなかったこと。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは禾(のぎ)だに。稲の形。……米のもと」
稲。 稲は、秋まで待つ。 待つ間がある。 間があると、実る。
母は右側をなぞった。
「こっちは口だに。……口は、食べる口でも、話す口でもある」
食べる口。 話す口。 飯と、言葉。 どっちも、家を家に戻す。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「和ってのはな……稲(めし)と口(ことば)で、心がなごむ字だに。和らぐ、って言うだら」
和らぐ。 やわらかくなる。 尖りが眠る。
母は続けた。
「和は、揃えるって意味じゃないだに。……違ってても、ぶつけんようにする。余地を残す」
余地。 ほどける結び。 たわむ線。 間。 息。 全部がまた、ここへ戻ってきた。
父が新聞紙の「和」を見て、ぽつりと言った。
「……飯の和、か」
父の声は、少し笑っている。 笑いきれないのに、笑いの形。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「飯食って、口動かして、喧嘩すんな。……それが和だに」
乱暴なのに、太い道の言い方。
父はしばらく「和」を見ていて、それから小さく言った。
「……俺の声も……和らげられるか」
和らげられるか。 問えるのは、未来があるからだ。
母は否定しない。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……和らげるのは、勝ち負けじゃない。……置き方だに」
置き方。 父の「おはようございます」。 今日の「一つだけだ」。 置いた声。
幹夫は鉛筆を握った。 禾を書く。 口を書く。
一回目の「和」は、口が尖って見えて、胸がきゅっとした。 口は、刃にもなる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……禾を太らせりゃええ。飯を思い出せ。……飯は、噛む間があるだに」
噛む間。 間があると、和らぐ。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「和」は、少し丸い顔になった。 丸いと、刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「和」は、禾の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 口の最後の線を引くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……和、って……息が入るな」
母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。
「うん。……息が入ると、声が刺さらん」
母は「和」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、茶碗の口みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
> おはよう いえた > まさお と > わ だった > いき
“いき”は丸く書いてある。 丸いと、刺さらない。
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……俺、外で声出すの……まだ怖い」
怖い。 言える。 言えると、怖さは角が丸くなる。
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。
――いき。
「……うん。……でも、父ちゃん、和らかかった」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……和らかい、って……ええな」
ええな。 父の口から出る“ええ”は、まだ少ない。 少ないのに、落とさない“ええ”だった。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「和は、続きだに。……続けたら、馴染む」
祖母が淡々と言う。
「馴染めば飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
きょうおはよう が いえたいとでんわ でありがとう と うん が きけたほしい が けんか に ならなかったわ ってやわらかい こと なんだねいき
最後に、小さく「和」。 丸をひとつ。 茶碗の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは“外の声”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
わ はめし と くちちがっても ぶつけんよち を のこすいきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうおはよう いえたこわい けどわらげたすこしそと が こわくない
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな茶葉が、紙に包まれてひとつまみ。 包みの端が、父の手で少し丸く折られている。 刺さらない端。 包みの隅に、父の震える字で小さく、
わ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその茶葉の包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
和は、飯と口。 声を置く。 余地を残す。 やわらかいほうへ、少しずつ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、茶の苦い匂いの中の「わ」は届いた。 届いた和らぎを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、ぶつからない声の置き方を、そっと続けていった。





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