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和の字

 朝の庭には、昨日の糸電話がそのまま残っていた。 缶の底の穴から白い糸が出て、たわんで、影になっている。 影は細い。細いのに、ちゃんとそこに居る。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。

 戸の外で、誰かの草履が砂をこする音がした。 ざり、ざり。 生活の音。 でも、突然だと角が立つ音。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 戸の外から声。

「おはよーござんす」

 隣のおばさんの声だった。 声が、今日は柔らかい。 柔らかいと、家の中の空気が刺さらない。

 母が台所の境目から、急がせない声で返した。

「おはようございますだに」

 それから――父が、縁側の板に手を置いたまま、ぽつりと言った。

「……おはよう……ございます」

 声は小さい。 小さいのに、届いた。 届いたのが分かって、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 隣のおばさんが、戸口から顔を覗かせて、少しだけ目を細めた。 細めると、光が丸くなる。 丸い光は刺さらない。

「お父さんも、元気そうでよかったよ」

 “よかったよ”は、押しつけない言い方だった。 受け取れるくらいの温度の言葉。

 父は、返事まで少し間があって――その間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

「……ああ……少しずつだら」

 少しずつ。 家の合言葉。 それが外へ出たことが、幹夫には嬉しかった。

 おばさんが去っていく足音が、ざり、ざり、と遠くなる。 遠くなると、胸の角も遠くなる。

 父が縁側で、小さく息を吐いた。

「……声、出たな」

 出たな。 それは、できた日の言い方だった。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 朝飯のあと、母は茶葉の缶を開けた。 ふわっと立つ匂い。 苦いのに、やさしい匂い。 蒲原の匂いに、どこか似ている。

 母が急がせない声で言った。

「正夫のとこ、昨日の礼に茶でも持ってくか」

 礼。 謝。 許。 守。 話。 字が胸の中で静かに並ぶ。

 父の眉の間が、ほんの少し寄って――でも、そこで止まった。 止まれた寄り方。 止まれたら、戻れる。

 父が、ぽつりと言った。

「……俺も……行く」

 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 母は驚きを刃にしない顔で頷いた。

「ええよ。……声、置いてくるだに」

 声を置く。 置く、という言い方が、幹夫の胸をあたためた。

 正夫の家の戸口は、少し開いていた。 少し開いていると、間がある。 間があると、息が入りやすい。

 母が声をかけた。

「おはようさんだに」

 正夫の母さんが出てきて、笑った。

「あら、昨日はどうも。……その缶、うちの子、うるさかったでしょ」

 うるさかった。 その言い方も、責める刃じゃなかった。 生活の笑いの言い方だった。

 父が、そこで小さく頭を下げた。 深くじゃない。 でも、ちゃんと曲がる。 曲がる背中は、礼の背中だ。

「……こちらこそ……」

 父の声は揺れた。 揺れるのに、折れない。 折れない揺れは、つなぐ揺れだった。

 正夫が奥から飛び出してきて、缶を抱えた。

「おじさん! 今日もやる? 糸電話!」

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れる。

 ――いき。

 父は、笑わなかった。 でも、口の端がほんの少しだけ上がった。 笑いきれないのに、笑いの形。

「……やるなら……小さい声でだ」

 小さい声。 その言葉が、正夫の家の空気を丸くした。

「うん! 小さい声で!」

 正夫が大きな声を出してから、慌てて口を押さえて笑った。 笑い声は、ふふ、と小さくなる。 小さくなると、刺さらない。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 庭の端と端で、また糸電話が始まった。 今日は、缶の下に布を敷いてある。 布があると、音が眠る。 眠ると、父の肩も眠る。

 正夫が、缶に向かって“叫ばない”ように言った。

「……みきぼー、きこえる?」

 (……きこえる)

 幹夫が返す。 糸を通る声は、まっすぐなのに刺さらない。 刺さらないのは、置く声だからだ。

 父が、缶に向かって一言だけ置いた。

「……正夫」

 (……まさお)

 名前が届く。 名前が届くと、人が人になる。

 正夫が少し照れて、小さく言った。

「……うん」

 その“うん”が、幹夫には妙に嬉しかった。 “うん”は、受け取った合図だからだ。

 そこで、正夫がふいに言った。

「みきぼー、昨日の黒い石、ちょーだい」

 欲しい。 欲しいは、胸を走らせる。 走ると、糸が泣く。 泣くと、空気が尖る。

 幹夫の胸がきゅっとして、言葉が出なかった。 出ないときは、間を置く。

 ――いき。

 父のほうの缶から、低い声が来た。

「……一つだけだ。……欲しいなら、ひとつ渡す。……でも、礼、言え」

 礼。 返す。 渡す。 声で。

 正夫が、缶に口を近づけて小さく言った。

「……ありがとう」

 (……ありがとう)

 糸の向こうの“ありがとう”は、小さいのにちゃんと届いた。 届いた瞬間、幹夫の胸の奥の角が、ふっと丸くなる。

 幹夫は布包みから黒い小石を取り出して、手のひらに乗せた。 黒いのに、角がない。 角がないのは、波と時間のせいだ。

 幹夫は石を正夫の掌に置いて、言った。

「……一つね」

 “ね”が入ると、刃にならない。 “ね”は、間の友だ。

 正夫が頷いて、照れたように言った。

「……うん。……ごめん。……ほしくなった」

 ごめん。 謝。 それが言えると、遊びも遊びのまま続く。

 父が、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

「……今の、和(わ)だな」

 和。 その一言が、幹夫の胸の中にすとんと落ちた。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 家へ戻る道すがら、父は何も喋らなかった。 喋らないのに、黙ってもいなかった。 足音が「居る」足音だった。

 門をくぐるとき、父がぽつりと言った。

「……声、置けると……家が丸くなるな」

 丸くなる。 丸くなると、刺さらない。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。

 ――いき。

「……うん。……きょう、やわらかかった」

 やわらかかった。 自分の言葉で言えると、胸の奥が少しほどける。

 父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……やわらかいのが……和、か」

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 和

 幹夫は、その字を見た瞬間、糸電話の「ありがとう」と「うん」を思い出した。 声が刺さらないで、行って戻ってきたこと。 欲しい、が刃にならなかったこと。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは禾(のぎ)だに。稲の形。……米のもと」

 稲。 稲は、秋まで待つ。 待つ間がある。 間があると、実る。

 母は右側をなぞった。

「こっちは口だに。……口は、食べる口でも、話す口でもある」

 食べる口。 話す口。 飯と、言葉。 どっちも、家を家に戻す。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「和ってのはな……稲(めし)と口(ことば)で、心がなごむ字だに。和らぐ、って言うだら」

 和らぐ。 やわらかくなる。 尖りが眠る。

 母は続けた。

「和は、揃えるって意味じゃないだに。……違ってても、ぶつけんようにする。余地を残す」

 余地。 ほどける結び。 たわむ線。 間。 息。 全部がまた、ここへ戻ってきた。

 父が新聞紙の「和」を見て、ぽつりと言った。

「……飯の和、か」

 父の声は、少し笑っている。 笑いきれないのに、笑いの形。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「飯食って、口動かして、喧嘩すんな。……それが和だに」

 乱暴なのに、太い道の言い方。

 父はしばらく「和」を見ていて、それから小さく言った。

「……俺の声も……和らげられるか」

 和らげられるか。 問えるのは、未来があるからだ。

 母は否定しない。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……和らげるのは、勝ち負けじゃない。……置き方だに」

 置き方。 父の「おはようございます」。 今日の「一つだけだ」。 置いた声。

 幹夫は鉛筆を握った。 禾を書く。 口を書く。

 一回目の「和」は、口が尖って見えて、胸がきゅっとした。 口は、刃にもなる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……禾を太らせりゃええ。飯を思い出せ。……飯は、噛む間があるだに」

 噛む間。 間があると、和らぐ。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「和」は、少し丸い顔になった。 丸いと、刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「和」は、禾の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 口の最後の線を引くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

「……和、って……息が入るな」

 母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。

「うん。……息が入ると、声が刺さらん」

 母は「和」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、茶碗の口みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

 > おはよう いえた > まさお と > わ だった > いき

 “いき”は丸く書いてある。 丸いと、刺さらない。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……俺、外で声出すの……まだ怖い」

 怖い。 言える。 言えると、怖さは角が丸くなる。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。

 ――いき。

「……うん。……でも、父ちゃん、和らかかった」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……和らかい、って……ええな」

 ええな。 父の口から出る“ええ”は、まだ少ない。 少ないのに、落とさない“ええ”だった。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「和は、続きだに。……続けたら、馴染む」

 祖母が淡々と言う。

「馴染めば飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

きょうおはよう が いえたいとでんわ でありがとう と うん が きけたほしい が けんか に ならなかったわ ってやわらかい こと なんだねいき

 最後に、小さく「和」。 丸をひとつ。 茶碗の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは“外の声”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

わ はめし と くちちがっても ぶつけんよち を のこすいきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうおはよう いえたこわい けどわらげたすこしそと が こわくない

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな茶葉が、紙に包まれてひとつまみ。 包みの端が、父の手で少し丸く折られている。 刺さらない端。 包みの隅に、父の震える字で小さく、

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその茶葉の包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 和は、飯と口。 声を置く。 余地を残す。 やわらかいほうへ、少しずつ。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、茶の苦い匂いの中の「わ」は届いた。 届いた和らぎを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、ぶつからない声の置き方を、そっと続けていった。

 
 
 

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