墨の芽
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 11分

昭和二十年代の半ば、蒲原の午後は、海のほうからぬるい風がのぼってきて、みかん畑の葉の裏を一枚ずつひっくり返していきました。葉の裏は白っぽく、風が通るたび、ひそひそ、と乾いたささやきがします。遠くの線路では、汽車がことこと――と、山の影へ吸いこまれていきました。
幹夫は八つ。縁側の板の上にうつ伏せになって、背中にまだ残る学校の埃を、風に払ってもらっていました。額には汗が一筋、ゆっくり落ちて、鼻の先で止まります。止まった汗は、なんだか自分の胸の奥の「止まってしまった気持ち」に似ていて、幹夫は指でそっと拭いました。
すると、表の道で、ちゃりん、と鈴が鳴りました。郵便屋の自転車の鈴です。幹夫は、あの音が好きでした。鈴は短いのに、「遠いところから何かが来る」という合図を必ず含んでいるからです。
「郵便だよー」
祖母が戸口に出て、赤い帽子の郵便屋から何かを受けとりました。紙の擦れる音。輪ゴムのはじける音。幹夫の胸のどこかが、ふっと持ち上がりました。
祖母が戻ってきて、縁側に座り、指先で一枚の葉書を撫でました。葉書の紙は、日なたの匂いと、どこか遠い町の匂いが混ざっています。幹夫は、膝を寄せる前から、もう分かっていました。宛名の文字の癖――父の文字です。
「父さんからだよ」と祖母が言いました。
その言葉は、嬉しいのに、幹夫の胸をちょん、と刺しました。刺すのは喜びそのものではなく、喜びの裏にぴたりと貼りついている、薄い不安でした。
――読めるだろうか。 ――読めなかったら、父さんがもっと遠くなる。
祖母が葉書を読み始めました。声はやさしく、紙の上の文字を一つずつ起こしていきます。
「……『みきお、げんきか。ばあちゃんのてつだいをしているか。こちらはみなげんきだ』……って」
幹夫はうなずきながら、祖母の声のあいだを必死で掴みました。父の「元気」が、祖母の口から出てくると、少しだけ丸くなって、幹夫の胸に落ちてきます。
でも、問題は次の行でした。
祖母の目が、ほんの少しだけ細くなりました。目が細くなるのは、難しい字を読むときの癖です。祖母は賢いけれど、それでも字に向き合うとき、少しだけ息を整えます。その息の整え方を見た瞬間、幹夫の胸の釘が、ぐらりと揺れました。
「……『つぎの……にちようび……には、かえれるかもしれない。しごとの……ぐあいだが……』」
祖母は読みました。読み終えたあと、幹夫の胸はふっと温かくなり、すぐに冷えました。
帰れるかもしれない。
「かもしれない」という言葉が、風のように頼りなくて、頼りないくせに、握りしめたいほどでした。握りしめたら折れてしまうのに、折れるのが怖いのに、握ってしまいたい。
祖母は葉書を裏返しました。裏面には、父の住所と名前、そして、黒いインクでびっしり書かれた本文。文字は父の手から生まれたはずなのに、今日はそれが、少しだけ「知らない生き物」の群れに見えました。墨が黒い小魚になって、紙の上を泳いでいるみたいです。
「幹(みき)、自分で読んでみるかい?」
祖母が、ふっと言いました。
その瞬間、幹夫の胸の奥の空洞から、冷たい風がひゅっと吹きました。
読めるか、と聞かれることは、期待されることです。期待は嬉しい。嬉しいのに、期待は重たい。重たくなると、足がすくみます。
幹夫は、葉書を受けとりました。紙は思ったより硬く、硬いのに、熱がありました。父の指が触った紙の熱――と幹夫は勝手に思いました。
幹夫は、宛名の文字だけは読めました。父の住所の町名。番地。父の名前。
でも本文の、途中から、急に字が跳ね上がります。
「職」「況」「工」「場」「便」「利」――いくつかは見たことがあるのに、全部は繋がりません。繋がらないと、意味は霧になります。霧になると、父の声が聞こえなくなる。
幹夫は、喉の奥がざらつくのを感じました。口の中が乾き、舌が紙みたいに硬くなりました。いま、ここで「読めない」と言ったら、祖母は笑わない。それは分かっている。分かっているのに、言った瞬間、胸の中の「できない自分」が、どん、と大きくなる気がしました。
幹夫は、口の端だけを動かして言いました。
「……うん。読める」
自分で言った「読める」が、嘘だと分かって、頬の内側が熱くなりました。熱いのに、顔は笑ったふりをしている。笑ったふりをすると、胸の奥が余計に痛くなります。
祖母は深くは追いませんでした。追わないことが優しさだと分かっているのに、その優しさが、幹夫には「見透かされている」みたいに感じられて、ますます胸が苦しくなりました。
幹夫は葉書をそっと畳んで、ポケットにしまいました。
そのポケットは、小さな暗い部屋みたいで、葉書はそこに入った途端、さらに重たくなった気がしました。重たくなるのは、紙のせいではありません。幹夫の嘘が、紙に乗ってしまったからです。
夕方、家の裏の土間で、祖母が味噌汁の支度をしている音がしました。包丁がまな板を叩く音。鍋のふつふつ。味噌の匂いが、湯気といっしょに鼻へ入ってきます。
幹夫はその匂いのそばにいながら、心だけは、ずっと葉書の黒い文字の中にいました。
食卓で祖母が何か話しても、幹夫はうなずいて、うなずいて、うなずくばかりでした。うなずきは自分の体を守る殻のようで、殻の中で心だけが、じたじた動いていました。
夜、窓辺の青いガラスの星が、からり、と鳴りました。星の隣には、ブリキ箱の「割れた貝の星座」。そして、空になった蛍の瓶。三つとも、黙ってそこにありました。黙っているのに、幹夫には「ちゃんと見ろ」と言っているようでした。
布団に入っても眠れませんでした。目を閉じると、葉書の文字が浮かびます。浮かんだ文字は、読めないくせに、はっきり黒く、幹夫の胸に貼りつきました。
――読めない。 ――読めないのに、読めるって言った。 ――父さんの言葉を、ぼくは今、見えない箱にしまってる。
幹夫は、布団から抜け出して、縁側へ出ました。夜の風は少し冷たく、けれど冷たさが、胸の熱を落ち着かせる薬みたいでした。
幹夫は、裏庭の石の上にしゃがみ、葉書を取り出しました。月の光が紙に当たり、黒い文字が、少しだけ青く見えました。
そこへ、どこからか、カナブンが一匹、ぶうん、と飛んできて、縁側の柱にとまりました。羽が震え、黒い背中が月の光を受けて鈍く光りました。
「文字がこわいのかい」
聞こえたのは、耳ではなく、胸の中でした。カナブンが本当に喋ったわけではない、と幹夫は思いました。思いながら、でも、胸の中の声は確かに言葉でした。
「こわい」と幹夫は、心の中で答えました。「読めないのがこわい。父さんが遠いのがこわい。嘘をついたのが、もっとこわい」
カナブンは、羽を一度だけ震わせました。ぶるり。まるで「それでいい」と頷くみたいに。
「墨は黒いだろう。黒いものは夜に似ている。夜はこわいかい」「こわい」「でも夜は、朝になる。墨も、朝になれば読めるようになる。読めないのは、夜のせいだよ」
幹夫は、胸の奥が少しだけほどけるのを感じました。ほどけたのは嘘ではありません。嘘はまだ胸にあります。けれど嘘の角が、少し丸くなったのです。
幹夫は、石の上に枝を拾い、湿った土に大きく字を書いてみました。
「父」
書いた字は、歪んでいました。歪んでいるのに、歪んだまま「父」でした。歪んだ字のほうが、幹夫の指の震えをちゃんと含んでいて、どこか本当の匂いがしました。
幹夫はもう一度書きました。
「幹」
自分の名の一字。木の幹の字。書くと、土の上に一本のまっすぐが立ちました。まっすぐのはずなのに、少し曲がっている。曲がっているのに、立っている。
それを見て、幹夫は泣きそうになりました。泣きそうになるのは、悔しさだけじゃありません。「立っている」ものを見た安心のせいでもありました。
翌日、学校へ行く道で、幹夫はポケットの葉書が重たいままなのを感じていました。重たいのは相変わらず。けれど昨日より、重たさの形が違う気がしました。石の重さではなく、種の重さ。
昼休み、こういちが幹夫の机に寄ってきました。
「幹夫、昨日さ、なんか……元気なかった」 こういちの声は、小さくても、変に探る匂いがしませんでした。ただの心配の匂いでした。
幹夫は、しばらく鉛筆の先を見つめました。鉛筆の木は削られて、白い肌が見えていました。白いところは弱そうで、でも、そこから黒い芯がちゃんと出ている。
幹夫は息を吸って、ポケットから葉書を出しました。
「父さんから……来た」「いいね」「……でも、読めない字がある」
言ってしまった瞬間、胸がちくりとしました。ちくりは痛い。でも、その痛みは、自分の嘘を剥がす痛みでした。
こういちは、笑いませんでした。驚きもしませんでした。ただ、葉書を見て、小さくうなずきました。
「……どこ?」「ここ」と幹夫は指さしました。
指先が少し震えて、葉書の紙がかすかに鳴りました。紙の鳴る音が、幹夫には「助けて」と言っているようにも、「大丈夫」と言っているようにも聞こえました。
こういちは文字を追い、ゆっくり言いました。
「これね……『都合』。あと、こっちは『状況』……たぶん。うん、そう書いてある」
「都合」「状況」。
言葉が声になった瞬間、黒い文字が、少しだけ「顔」を持ちました。顔を持つと、霧が晴れます。晴れると、父の声が少しだけ近くなりました。
幹夫の目の奥が熱くなりました。熱いのに、涙は出ませんでした。涙が出ないのは我慢しているからじゃありません。安心がまだ、喉のところで小さく丸まっているだけでした。
「……ありがとう」と幹夫は言いました。「ううん」とこういちは言いました。「ぼくも、最初は読めない字、いっぱいだった」
その「ぼくも」に、幹夫の胸の釘が、まっすぐになりました。自分だけができないわけじゃない。できないのは恥じゃなくて、ただ今の場所。
幹夫は、ぽつりと言いました。言うのは怖いのに、言わないと、葉書がまた暗い部屋へ戻ってしまう気がしました。
「……昨日、読めるって言っちゃった」「ばあちゃんに?」「うん」「……言い直す?」「……こわい」「こわいけど……言ったら、軽くなるかも」
こういちの言い方は、蛍を返すときの言い方に似ていました。預かったものは返せる。嘘も、返せる。返すと、空になる。でも空は、怖い穴じゃなくて、息が通る場所になる。
放課後、幹夫は家に帰ると、土間の前で靴を揃え、縁側の前で深呼吸をしました。胃のあたりが、きゅ、と縮みます。縮むのは恐怖。恐怖の裏に、ほんの少しの希望。
祖母は、縁側で糸を通していました。針の穴に糸を通す指は、年をとっても器用で、幹夫はその指を見るたび、胸が落ち着きます。
「ばあちゃん」と幹夫は言いました。
祖母は顔を上げました。目はやさしい。やさしいのに、幹夫にはその目が、海みたいに広く見えました。広い目の前で、嘘は隠れられない。隠れられないけれど、広いからこそ、受けとめてもらえそうでもあります。
「昨日……父さんの葉書。読めるって言ったけど……ほんとは、読めない字があった」 言いながら、幹夫の喉が熱くなりました。熱いのに、声は震えました。震える声は恥ずかしい。でも、震えは嘘じゃない。
祖母は、すぐには何も言いませんでした。糸の先を指でつまみ、針を置き、幹夫の顔を見ました。
「そうかい」と祖母は言いました。 それだけでした。
それだけなのに、幹夫の胸から、ふっと何かが抜けました。石が抜けるみたいに、重たいものがごろりと抜ける感じではなく、湿った布が一枚、するりと抜ける感じ。
「読めない字があるのは、当たり前だよ」と祖母は続けました。「字はね、山みたいなもんで、いきなり峠の上へは行けない。麓から、少しずつ登るんだよ」「……嘘、ついちゃだめ?」「嘘はね、息が苦しくなる。苦しくなったら、こうして言い直せばいい。今みたいに」
祖母の言葉は、叱る音ではありませんでした。縫いものの針が布を通る音みたいに、静かに、でも確かに、幹夫の胸を整えました。
祖母は葉書を取り出し、幹夫と並んで読みました。読めない字は、祖母がゆっくり教えてくれました。幹夫は、わからないところで止まり、止まっても恥ずかしくありませんでした。止まれる場所があるから、また進める。
葉書の最後に、父はこう書いていました。
――「みきお、字は波みたいに読め。いそぐと、泡だけ見えてしまう。ゆっくりだと、底の石の形まで見える」
祖母が読み上げたその一文を、幹夫は何度も胸の中で繰り返しました。波みたいに。ゆっくり。底の石。
幹夫は、窓辺の青いガラスの星を見ました。星はからり、と鳴りました。鳴り方が、いつもより少しだけ澄んで聞こえました。ブリキ箱の割れた貝の星座も、月の光で控えめに光っています。空の蛍瓶は透明のまま、でも、透明のまま「返した」手触りを持っています。
幹夫は、机に向かい、返事を書くことにしました。
鉛筆を握ると、手のひらが少し汗ばんでいました。汗は怖さの水。でも今日は、その水が紙に落ちてもいいと思いました。落ちた汗も、幹夫の字の一部になるから。
幹夫は、まず大きく書きました。
「とうさん」
ひらがなは少し曲がりました。曲がったけれど、ちゃんと「とうさん」でした。
次に、ゆっくり書きました。
「きょう ほたるを かえしました」 「みかんの はが ひかりました」 「ぼくは じを ゆっくり よみます」
書けない字は、書かない。書ける言葉を、まっすぐ置く。置いた言葉は、少なくても、嘘じゃない。
最後に、幹夫は小さく「幹」と書きました。昨日、土に書いた字より少しだけまっすぐでした。まっすぐになったのは、上手くなったからではなく、恐さを一つ言えたからでした。
祖母が封筒を出し、住所を書いてくれました。幹夫はその横に、小さな絵を描きました。窓辺の青い星、割れた貝の星座、そして、ぽっ、と点く蛍。父が見たことのない蒲原の夜が、紙の上に小さく並びました。
夜風がどっどど――と畦道を渡り、遠くで踏切が――カン、カン、と鳴りました。幹夫は手紙を胸に当てました。紙はまだ温かい。温かいのは、自分の息が当たったからだけじゃない気がしました。
――文字は、芽だ。
幹夫は思いました。今日、ひとつ芽が出た。小さな芽。黒い墨の芽。芽はすぐには木にならない。けれど芽が出たら、もう「出ない」夜とは違う。
幹夫は布団に入り、目を閉じました。胸の奥の空洞はまだあります。けれど今夜、その空洞の縁に、細い鉛筆の線みたいなものが一本、伸びているのを感じました。伸びる線は、遠い父へ向かう道であり、明日の自分へ向かう道でもありました。
窓辺で青い星が、からり、ともう一度鳴りました。 その音は、幹夫の「ゆっくり読む」という約束に、そっと印を押してくれる音でした。





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