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夢の字

2月7日
読了時間: 7分

 夜の家は、昼よりも正直だ。 昼は鍋の音や針の音で、胸の音が紛れる。 でも夜は、紛れない。 息の引っかかりも、布団の擦れる音も、畳のきしみも――ぜんぶ、まっすぐ届く。

 その晩、幹夫は眠りかけたところで、遠くの「気配」に起こされた。 音じゃない。 音になる手前の、息の形。

 隣の部屋で、父が布団の中で身じろぎした。 布団が、す、と擦れる。 それから、息がいちど止まって、戻る。

 戻る息が、少し速い。

 幹夫の胸の奥がきゅっと鳴った。 きゅっと鳴るときほど、息。

 ――いき。

 上着のポケットの石を握りしめる。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さが、暗い中で手すりになる。

 父の声が、布団の中から漏れた。

「……やめろ……」

 小さい。 小さいのに、刃になりかけている声。

 その瞬間、母の布団が静かに動いた。 母は音を立てない。 音を立てないまま、そこにいる。

「……うん」

 母の声が低く返す。倒れない低さ。 倒れない低さは、暗さの中で灯りみたいだ。

 少し間があって、母が続けた。

「ここだに。……蒲原だに」

 蒲原。 地名が言葉になると、畳の匂いが濃くなる。 畳の匂いは、帰り道の匂いだ。

 父の息が、いちど大きく入った。 入って、出る。 出る息が震える。震えるのに、折れない。

「……夢、か……」

 父の声が、今度は刃じゃない声になっていた。 夢。 その音が、幹夫の胸の奥に落ちた。 落ちたのに、跳ねない。跳ねない落ち方だった。

 母は急がせない。 急がせないまま、息をひとつ置く。

「夢だに。……目が番しとるだけだに」

 父はしばらく黙って、それから、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

 幹夫は布団の中で、目を閉じたまま、口の中で言った。

 ――いき。

 父の息は、少しずつ布団の奥へ戻っていった。 戻る音があると、暗さは暗さのままでいられる。 暗さが刃にならない。

 幹夫はいつのまにか、眠っていた。

 朝、ちゃぶ台の上の湯気が、いつもより丸かった。 湯気が丸いと、喉の奥が少しだけほどける。

 父は椀を持つ手を止めて、しばらく湯気を見ていた。 見て、見て、見て――それから小さく言った。

「……昨夜、夢みた」

 夢みた、が父の口からちゃんと出る。 それだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、預かる「うん」。

 祖母は味噌を溶きながら、淡々と言った。

「夢ぁ夢だ。飯は飯だ。飲め」

 淡々が、家を家に戻す。 戻す言葉があると、胸は走りすぎない。

 父は椀を置いて、指先で茶碗の縁をなぞった。 なぞる指が少し震える。 震えるのに、逃げない指。

「……長い音がしてな」

 長い音。 清水で聞いた、あのサイレンみたいな音が、幹夫の胸の奥で鳴りかけた。 鳴りかけたから、息。

 ――いき。

 父は続けた。

「……走ってるのに、足が……畳じゃなくて……」

 言葉が途中でほどける。 ほどけるのに、父は黙って逃げない。 ほどけたところで、母が急いで結び直さない。 ただ、そこに息を置く。

 父は一度、目を伏せて、それからぽつりと言った。

「……“みき坊”って、言った気がする」

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さだった。 夢の中でも、呼び方が残っている。 呼び方は、暗いときの手だ――母が言っていた。

 幹夫は、恥ずかしくて、でも言いたくて、小さく言った。

「……聞こえた」

 嘘じゃない。 昨夜、父の声が漏れた。 「やめろ」と「夢か」が聞こえた。 そして、その前のもっと小さいところで、呼び方が揺れた気がする。

 父は幹夫を見た。 見方が遠いのに、今日は少しだけ近い。 父は、ほんの少しだけ頷いた。

「……そうか」

 その「そうか」は、謝る「そうか」じゃない。 受け取る「そうか」だった。

 昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫」

 母が言った。声は低い。倒れない低さ。

「今日は、これ」

 母はゆっくり書いた。

 夢

 幹夫は目をこらした。 形が多い。 多いのに、不思議と目が離れない。 中に「網」みたいなところがある。 網――父の手仕事の形。

 母が、指で上からなぞった。

「草みたいな形、あるだろ。あと……ここ、網みたいだに」

 母の指が、罒の形をとん、と叩く。 とん、が小さいのに腹に届く。

「夢はな」

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「目に、網がかかるみたいなもんだに。……勝手に引っかかる」

 勝手に引っかかる。 父の「目が勝手に起きる」が、そこへ座った。

 父が新聞紙の「夢」を見て、ぽつりと言った。

「……網、魚を捕るのに……夢は、俺を捕るだら」

 捕る。 その言葉は痛いのに、刃じゃなかった。 比べる言い方だからだ。 比べられると、痛さが少し丸くなる。

 母はすぐ否定しなかった。 息をひとつ入れてから、静かに言った。

「うん。……捕られてもええ」

 捕られてもいい。 それは諦めじゃなく、許しの言い方だった。 許の字が胸の奥で、ふわっとゆるむ。

 母は続けた。

「捕られたらな……ゆっくり、網をほどく。解く、だに」

 解。 昨日の字が、今日の字へ繋がる。 字は畳の目みたいに並ぶ。並ぶと、道になる。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、線がぶれても戻ってこられる気がした。

 夢を書く。 多い線に、胸が走りそうになる。 走りそうになったから、息をひとつ入れる。

 ――いき。

 一回目の「夢」は、網のところが崩れて、ただの四角になった。 四角は角がある。角があると刺さりそうで、胸がきゅっとした。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「夢はな、角があってもええ。……起きたら、丸く戻す」

 起きたら、丸く戻す。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。

 二回目は、網の形が少しだけ「網」になった。 網になると、字が「夢の顔」になる。 夢の顔は、怖いだけじゃなく、ほどく道も持っている顔だ。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書けるか」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父は鉛筆を握った。 握り方がぎこちない。 ぎこちないのに、落とさない。

 父の「夢」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の払いで父の息がいちど止まり、止まった間に幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「夢」は、少し歪んでいた。 歪んでいるのに、ちゃんと夢の顔をしていた。 網が、捕る網じゃなく、ほどける網に見えた。

 父はそれを見て、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、落ちなかった息だ。

 母は「夢」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夜。 家の灯りが消える前に、母は湯たんぽを父の布団へ入れた。 入れる動きが、丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。生活の手つきは、息ができる。

 父は布団に入ってから、小さく言った。

「……夢、来たら……起こしてもいいか」

 言い方が、頼む言い方だった。 頼む、は手が繋がる言葉だ。

 母はすぐ「うん」と言わず、息をひとつ入れてから答えた。

「うん。……起こす」

 短い「起こす」。 短いのに、強い。 強いのは怒りじゃない。帰り道を残す強さだ。

 幹夫は布団の中で、石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、夜の手すり。

 眠りに落ちる直前、父の声が小さく聞こえた。

「……みき坊、寝ろ」

 それは命令じゃなく、願いみたいな声だった。 願いの声は、刃にならない。

 幹夫は、息をひとつ入れてから、口の中で返事をした。

 ――うん。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > ゆめ は > よる の あみ > ひっかかっても > といて もどる > いき > うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう > きのう ゆめ きた > でも > おまえさん の こえ で > すこし ほどけた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな網糸の輪がひとつ。 結び目じゃない輪。 ほどけても、また形になる輪。

 幹夫はその輪を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 夢は、来る。 来るのに、戻れる。 戻れる声がある。 戻れる丸がある。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、父の「すこしほどけた」は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――夜の網を、ゆっくりほどいていく道を、胸の奥にそっと作っていった。

 
 
 

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