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夢の字

 夜の家は、昼よりも正直だ。 昼は鍋の音や針の音で、胸の音が紛れる。 でも夜は、紛れない。 息の引っかかりも、布団の擦れる音も、畳のきしみも――ぜんぶ、まっすぐ届く。

 その晩、幹夫は眠りかけたところで、遠くの「気配」に起こされた。 音じゃない。 音になる手前の、息の形。

 隣の部屋で、父が布団の中で身じろぎした。 布団が、す、と擦れる。 それから、息がいちど止まって、戻る。

 戻る息が、少し速い。

 幹夫の胸の奥がきゅっと鳴った。 きゅっと鳴るときほど、息。

 ――いき。

 上着のポケットの石を握りしめる。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さが、暗い中で手すりになる。

 父の声が、布団の中から漏れた。

「……やめろ……」

 小さい。 小さいのに、刃になりかけている声。

 その瞬間、母の布団が静かに動いた。 母は音を立てない。 音を立てないまま、そこにいる。

「……うん」

 母の声が低く返す。倒れない低さ。 倒れない低さは、暗さの中で灯りみたいだ。

 少し間があって、母が続けた。

「ここだに。……蒲原だに」

 蒲原。 地名が言葉になると、畳の匂いが濃くなる。 畳の匂いは、帰り道の匂いだ。

 父の息が、いちど大きく入った。 入って、出る。 出る息が震える。震えるのに、折れない。

「……夢、か……」

 父の声が、今度は刃じゃない声になっていた。 夢。 その音が、幹夫の胸の奥に落ちた。 落ちたのに、跳ねない。跳ねない落ち方だった。

 母は急がせない。 急がせないまま、息をひとつ置く。

「夢だに。……目が番しとるだけだに」

 父はしばらく黙って、それから、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

 幹夫は布団の中で、目を閉じたまま、口の中で言った。

 ――いき。

 父の息は、少しずつ布団の奥へ戻っていった。 戻る音があると、暗さは暗さのままでいられる。 暗さが刃にならない。

 幹夫はいつのまにか、眠っていた。

 朝、ちゃぶ台の上の湯気が、いつもより丸かった。 湯気が丸いと、喉の奥が少しだけほどける。

 父は椀を持つ手を止めて、しばらく湯気を見ていた。 見て、見て、見て――それから小さく言った。

「……昨夜、夢みた」

 夢みた、が父の口からちゃんと出る。 それだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、預かる「うん」。

 祖母は味噌を溶きながら、淡々と言った。

「夢ぁ夢だ。飯は飯だ。飲め」

 淡々が、家を家に戻す。 戻す言葉があると、胸は走りすぎない。

 父は椀を置いて、指先で茶碗の縁をなぞった。 なぞる指が少し震える。 震えるのに、逃げない指。

「……長い音がしてな」

 長い音。 清水で聞いた、あのサイレンみたいな音が、幹夫の胸の奥で鳴りかけた。 鳴りかけたから、息。

 ――いき。

 父は続けた。

「……走ってるのに、足が……畳じゃなくて……」

 言葉が途中でほどける。 ほどけるのに、父は黙って逃げない。 ほどけたところで、母が急いで結び直さない。 ただ、そこに息を置く。

 父は一度、目を伏せて、それからぽつりと言った。

「……“みき坊”って、言った気がする」

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さだった。 夢の中でも、呼び方が残っている。 呼び方は、暗いときの手だ――母が言っていた。

 幹夫は、恥ずかしくて、でも言いたくて、小さく言った。

「……聞こえた」

 嘘じゃない。 昨夜、父の声が漏れた。 「やめろ」と「夢か」が聞こえた。 そして、その前のもっと小さいところで、呼び方が揺れた気がする。

 父は幹夫を見た。 見方が遠いのに、今日は少しだけ近い。 父は、ほんの少しだけ頷いた。

「……そうか」

 その「そうか」は、謝る「そうか」じゃない。 受け取る「そうか」だった。

 昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫」

 母が言った。声は低い。倒れない低さ。

「今日は、これ」

 母はゆっくり書いた。

 夢

 幹夫は目をこらした。 形が多い。 多いのに、不思議と目が離れない。 中に「網」みたいなところがある。 網――父の手仕事の形。

 母が、指で上からなぞった。

「草みたいな形、あるだろ。あと……ここ、網みたいだに」

 母の指が、罒の形をとん、と叩く。 とん、が小さいのに腹に届く。

「夢はな」

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「目に、網がかかるみたいなもんだに。……勝手に引っかかる」

 勝手に引っかかる。 父の「目が勝手に起きる」が、そこへ座った。

 父が新聞紙の「夢」を見て、ぽつりと言った。

「……網、魚を捕るのに……夢は、俺を捕るだら」

 捕る。 その言葉は痛いのに、刃じゃなかった。 比べる言い方だからだ。 比べられると、痛さが少し丸くなる。

 母はすぐ否定しなかった。 息をひとつ入れてから、静かに言った。

「うん。……捕られてもええ」

 捕られてもいい。 それは諦めじゃなく、許しの言い方だった。 許の字が胸の奥で、ふわっとゆるむ。

 母は続けた。

「捕られたらな……ゆっくり、網をほどく。解く、だに」

 解。 昨日の字が、今日の字へ繋がる。 字は畳の目みたいに並ぶ。並ぶと、道になる。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、線がぶれても戻ってこられる気がした。

 夢を書く。 多い線に、胸が走りそうになる。 走りそうになったから、息をひとつ入れる。

 ――いき。

 一回目の「夢」は、網のところが崩れて、ただの四角になった。 四角は角がある。角があると刺さりそうで、胸がきゅっとした。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「夢はな、角があってもええ。……起きたら、丸く戻す」

 起きたら、丸く戻す。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。

 二回目は、網の形が少しだけ「網」になった。 網になると、字が「夢の顔」になる。 夢の顔は、怖いだけじゃなく、ほどく道も持っている顔だ。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書けるか」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父は鉛筆を握った。 握り方がぎこちない。 ぎこちないのに、落とさない。

 父の「夢」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の払いで父の息がいちど止まり、止まった間に幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「夢」は、少し歪んでいた。 歪んでいるのに、ちゃんと夢の顔をしていた。 網が、捕る網じゃなく、ほどける網に見えた。

 父はそれを見て、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、落ちなかった息だ。

 母は「夢」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夜。 家の灯りが消える前に、母は湯たんぽを父の布団へ入れた。 入れる動きが、丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。生活の手つきは、息ができる。

 父は布団に入ってから、小さく言った。

「……夢、来たら……起こしてもいいか」

 言い方が、頼む言い方だった。 頼む、は手が繋がる言葉だ。

 母はすぐ「うん」と言わず、息をひとつ入れてから答えた。

「うん。……起こす」

 短い「起こす」。 短いのに、強い。 強いのは怒りじゃない。帰り道を残す強さだ。

 幹夫は布団の中で、石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、夜の手すり。

 眠りに落ちる直前、父の声が小さく聞こえた。

「……みき坊、寝ろ」

 それは命令じゃなく、願いみたいな声だった。 願いの声は、刃にならない。

 幹夫は、息をひとつ入れてから、口の中で返事をした。

 ――うん。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > ゆめ は > よる の あみ > ひっかかっても > といて もどる > いき > うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう > きのう ゆめ きた > でも > おまえさん の こえ で > すこし ほどけた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな網糸の輪がひとつ。 結び目じゃない輪。 ほどけても、また形になる輪。

 幹夫はその輪を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 夢は、来る。 来るのに、戻れる。 戻れる声がある。 戻れる丸がある。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、父の「すこしほどけた」は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――夜の網を、ゆっくりほどいていく道を、胸の奥にそっと作っていった。

 
 
 

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