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守の字

 朝の軒下は、まだ冷たい影を抱えていた。 燕の巣のあたりから、ちちち、と小さな声が落ちてくる。 落ちてくる声は軽いのに、幹夫の胸の中ではちゃんと重い。 重いのに痛くない。――守りの重さだ、と最近は思える。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと「ここ」にある。

 ――いき。

 息をひとつ入れた、そのとき。 庭の隅で、影がひとつ、ぬるりと動いた。

 猫だ。 黒と茶が混じった、痩せた猫。 朝の冷たい光の中で、目だけが丸く光っている。

 猫は巣を見上げて、じっと動かない。 動かないのに、空気が尖る。 尖ると、雛の声が急に遠くなる気がして、幹夫の胸がきゅっと鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は足を一歩だけ出した。 一歩だけ。 走らない。走ると音が尖る。 尖った音は、巣の影も、父の肩も、起こしてしまう日がある。

「……だめ」

 声は小さく、喉の奥で丸くした。 猫は耳だけ動かして、まだ巣を見ている。

 幹夫は縁側へ振り返って、小さく呼んだ。

「……父ちゃん……」

 父は縁側にいた。 手拭いを畳んでいた手が止まる。 止まって、少し。 その「少し」に、父の息が入るのが、幹夫には分かった。

 父の目が庭の猫に行く。 眉の間が、ほんの少し寄る。 寄るのに、刃にならない。 刃にならない寄り方は、ここまでの“ならい”の形だった。

「……猫か」

 父がぽつりと言って、立ち上がった。 立ち上がり方が急がない。 急がないと、朝が刺さらない。

 父はまず、地面に落ちていた糸電話の缶を、布の上へそっと移した。 置く。 投げない。 落とさない。 置くと、音が眠る。

 それから、庭に出た。

 父は猫に近づかなかった。 近づく前に、縁側の端に立って、猫と巣の間に「自分の影」を置いた。 影を置くだけで、猫の目が一度だけ父へ向く。

 父の声は小さい。

「……行け」

 猫は動かない。 動かないのに、しっぽの先だけが、ちょん、ちょん、と揺れる。 揺れは、狙う揺れだ。

 幹夫の胸がきゅっと鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は庭の箒を取った。 取るとき、竹が擦れて、ささ、と鳴りかけた。 鳴りかけて、父の肩がふっと上がる。 上がって――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父は箒を地面に“当てない”。 ただ、箒の先で空気を撫でるように、猫の前に一本の線を作った。

「……ここから先、だめだ」

 声は、怒鳴る声じゃなく、置く声だった。 置く声は刺さらない。 刺さらないと、雛のちちちも、ちゃんと近くに戻ってくる。

 猫が一歩、引いた。 一歩だけ。 幹夫の足の一歩と、同じくらいの一歩。

 父が追わない。 追うと、音が増える。 増えると、心が走る。

 父は、箒をその場に置いた。 置いた箒が、猫と巣の間の“門”みたいになる。 門があると、猫は考える顔になる。

 猫はもう一度だけ巣を見上げて、最後にふい、と顔を逸らした。 逸らして、塀の向こうへ消えた。

 消えたあと、庭の空気が一段やわらかくなった。 やわらかくなると、胸の奥の角が丸くなる。

 父が、ふっと息を吐いた。

「……守れたな」

 守れた。 その言葉が幹夫の胸の奥へ落ちて、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……父ちゃん……猫、こわかった」

 言うと、怖さの形が少し持てる。 父は巣を見上げて、それから畳の目みたいに地面を見た。

「……こわいのは……悪くない」

 父がぽつりと言った。 悪くない、は暮らしの言葉だ。 勝ち負けじゃない言葉。

「……こわいから、守る手が出る」

 守る手。 手が出るのに、叩かない手。 置く手。 幹夫はそれが嬉しくて、でも嬉しさが走りそうで、また息を入れた。

 ――いき。

 母が台所の境目から声を落とした。

「箒で叩くなよ。……線を置け」

 父が小さく頷く。

「……置いた」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「守るっつうのはな、閉めることじゃねぇ。守って、息入る隙間残せ」

 隙間。 間。 息。 守る、がそこへ繋がる。

 父が、箒を拾い上げる前に、もう一度巣を見上げた。 雛の声は小さい。 小さいのに、ちゃんと生きている音。

「……静かに守るほうが……続くな」

 続く。 続くは、刺さらない道。

 昼前、父は庭の端に小さな板切れを置いた。 猫が入りやすい隙間の前に、ただ“置く”。 叩かない。 縛らない。 置くだけ。

 板切れの角は、父が小刀で少し丸くした。 刺さらない角。 刺さらないものを増やすのが、この家のやり方になってきている。

 幹夫はその板切れを見て、胸の中にぽん、と小さな音を感じた。 音じゃない音。 “安心”の音。

 ――いき。

 綴じた冊子を開いて、幹夫は鉛筆で小さく書いた。

きょうねこ が きたでもとうちゃんしずか に まもったいき

 “いき”は丸く書く。 丸いと、刺さらない。

 父がそれをちらりと見て、ぽつりと言った。

「……守るって……書けるんだな」

 書ける。 置ける。 それは、胸の中の怖さを、外へ出して座らせることでもある。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 守

 幹夫はその字を見た瞬間、父が置いた板切れの角を思い出した。 角を丸くする。 丸くすると、守りが刺さらない。

 母は上の屋根みたいな形を指でなぞった。

「こっちは宀(うかんむり)だに。屋根。家の屋根」

 屋根。 屋根があると、雨が刺さらない。 刺さらないと、息が入る。

 母は下をなぞった。

「こっちは寸(すん)だに。手のひらの働きの字。……小さい手つき」

 小さい手つき。 今日の父の箒。 空気を撫でただけの手つき。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「守るってのはな……屋根の下で、小さい手つきで大事なもんを離さん字だに。叩いて追い払うんじゃない。置く、守りだに」

 置く、守り。 その言い方が、幹夫の胸の奥へすとん、と座った。

 母は続けた。

「守りはな、閉めきることじゃない。……隙間残して、息入るようにする。息が入らん守りは、牢屋だに」

 牢屋。 その言葉は怖い匂いがするのに、母の声は刃じゃなかった。 “違い”を教える声だった。

 父が新聞紙の「守」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、守るって……縛ることだと思ってた」

 母は否定しなかった。 低く言った。

「うん。……縛ると苦しい。守ると戻れる。……今日の箒みたいに」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……戻れる守り……な」

 その言葉が、幹夫の胸をそっと撫でた。 父が“戻れる”を自分で言えるとき、家の空気は丸くなる。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「守るなら飯も守れ。腹が減ると刃になる。……噛め」

 噛め、は太い道の言い方だ。

 幹夫は鉛筆を握った。 屋根を書く。 寸を書く。

 一回目の「守」は、寸が尖って見えて、胸がきゅっとした。 手つきが尖ると、守りが刃になる気がする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……屋根を太らせりゃええ。守りは、覆うほうだに。……手を急がせん」

 覆うほう。 父が影を置いた朝。 猫と巣の間に、父の影が屋根みたいに座った。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「守」は、少し丸い顔になった。 丸い守りは刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「守」は、宀の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 寸の点を置くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

「……守、って字……息が入る屋根だな」

 母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。

「うん。……息が入ると、守りはやわらかい。……やわらかいほうが続く」

 母は「守」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、屋根の下の小さな手みたいに見えた。

 夜。 軒下の巣は静かで、でも、完全な静かじゃない。 ちちち、と小さな声が、時々落ちてくる。 小さい声は、家の角を丸くする。

 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

ねここわいでもたたかんで すんだまもれたいき

 “たたかんで すんだ”。 その言葉が、幹夫の胸をあたためた。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……俺、守るの、下手だ」

 下手。 言える。 言えると、下手は“練習の入口”になる。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。

 ――いき。

「……うん。……でも、きょう、父ちゃん、しずかだった」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……静かに守るの……習いだな」

 習い。 昨日の字が、今日の夜に座った。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「守りは、毎日だに。……失敗しても、戻せばええ。戻すのも守り」

 祖母が淡々と言う。

「守るなら飯食え。飯食ったら寝ろ。……それが一番の守りだ」

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

まもる ってやね の した でちいさい て つき でだいじ を はなさない こと なんだねきょうねこ きたでもとうちゃん たたかない でせん を おいたいき

 最後に、小さく「守」。 丸をひとつ。 屋根の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは猫の目の光の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

まもる はやね の したちいさい てつきしめきらんいき の はいる すきまうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうねこ みた ときかた うごいたでもとまれたおけたたたかんで すんだすこしまもれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――庭に置いた板切れの、端っこの小さな欠片。 角が丸く削られていて、刺さらない。 欠片の表に、父の震える字で小さく、

まもる

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその欠片を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 守る。 叩かない。 線を置く。 隙間を残して、息を通す。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、刺さらない板の欠片の「まもる」は届いた。 届いたやわらかい守りを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、誰かと何かの間に、刺さらない屋根をそっと作っていこうとしていた。

 
 
 

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