守の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 9分

朝の軒下は、昨日までと同じ顔をしているのに、どこか新しい匂いがした。 濡れた木と、潮と、乾きかけの土。 それから――羽。
ばさ、ばさ。
幹夫は縁側の板をそっと踏んで、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
軒の影に、燕が居た。 昨日の燕か、別の燕か、幹夫には分からない。 でも、飛び方が軽い。 軽い飛び方は、生きてる飛び方だ。
燕は巣のへりにちょこんと止まって、首を小さく振った。 振るたび、喉の奥から小さい声が漏れる。
ちち。
音が小さい。 小さいと、胸が走らない。 走らないと、見守れる。
幹夫は、巣の下に敷いた布を見た。 昨日、父が敷いた布。 何も落ちていないのに、布があるだけで、軒下が“守られてる場所”に見えた。
――いき。
そのとき、庭の端で、もう一つの音が立った。
にゃあ。
猫の声。 柔らかいのに、背中が立つ声。 猫は悪くない。 ただ、猫の腹も、燕の羽も、どっちも生きてる。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
縁側の下の影から、灰色の猫が顔を出した。 目が、巣を見ている。 目が狙うと、空気が細くなる。
幹夫は、声を大きくしそうになって、途中で喉を止めた。 止めた「間」に、息を入れる。
――いき。
「……だめだよ」
小さい声。 小さい声は、刃じゃない。 でも、猫は言葉を知らない。 猫は音と匂いで動く。
猫が、縁側の柱へ一歩近づいた。 爪の先が板に触れそうで、幹夫の肩がふっと上がりかける。
そのとき、縁側の奥から、父の足音が来た。 急がない足音。 急がない足は、戻れる足。
父の肩が、猫の声でふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
父が、口の中で小さく言った。
「……猫の声だ」
名前を置く。 置けると、胸は“今”に戻る。
ふう……。
父は猫へ近づく前に、ま札を懐から出して、縁側の板の上へそっと置いた。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
父が低く言った。
「……ま」
それだけ。 それだけで、幹夫の胸の中の警報が尖らずに済む。
母が台所の境目から顔を出して、状況を見て、急がせない声で言った。
「追うなよ。……追うと走る。走ると、飛ぶもんも飛ぶ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「守るなら追うな。……境を作れ」
境。 境目。 門。 間。
父は縁側の端にしゃがんで、猫の目線より少し低いところへ、手のひらを出した。 掴む手じゃない。 “受け皿”みたいな手。
父がぽつりと言った。
「……おいで、じゃねぇ。……ここまでだ」
声は低い。 低いのに、怒っていない。 怒っていない声は、猫にも刺さらない。
父はもう片方の手で、縁側の板を軽く、軽く叩いた。
こん、こん。
叩く、じゃなく、合図を置く。 音を置く。
猫が耳を動かして、尾をひとつ振って――くるりと向きを変えた。 向きを変えると、空気の細さがほどける。
幹夫の胸が、すとん、と座った。 座ったから、息。
――いき。
燕は、巣のへりで一度だけ羽を震わせて、それから動かなかった。 動かないのは、怖くて固まった動かないじゃない。 “居られる”動かないだった。
父が空を見上げて、ぽつりと言った。
「……守れた、か」
母が頷いた。
「うん。……追わんで守れた」
祖母が淡々と言う。
「追わん守りが一番だに。……追うと自分も走る」
父はま札を手に取り、角を指で撫でた。 丸い角。 丸い角は刺さらない。
ふう……。
「……走らんで済んだ」
その一言が、幹夫の喉の奥を熱くした。 熱いと走りそうだから、息をひとつ入れる。
――いき。
昼前。 父は納屋から、網の切れ端を持ってきた。 昨日直した網より、ずっと荒い目。 指がすっと通るくらいの大きな目。
「……これなら、からまん」
父がぽつりと言った。 “からまん”という言い方が、朝の燕の足の糸を思い出させる。 思い出すと胸が少し鳴るけど、今日は鳴り方が尖らない。
幹夫は袋を押さえて、息。
――いき。
父は軒下を見上げた。 巣の場所。 柱の位置。 猫が登りそうな角度。 目が、今ここで働いている。
母がすぐに言った。
「網、ぶら下げるなら、結び目に“ま”残せよ。……締めると守りじゃなくて罠だに」
罠。 その言葉は少し硬い。 硬いけど、必要な言葉だった。
父は小さく頷いた。
「……うん。……守りは、罠にせん」
父がそう言えたのが、幹夫には嬉しかった。 守りが、誰かを苦しくしない守り。
父は置き布の上で、網の端を二つ折りにして、紐を通した。 通す前に置く。 置いてから通す。 順番があると、手が荒れない。
しゅり。 しゅり。
紐を通す音は小さい。 小さいと、息が入りやすい。
父がぽつりと言った。
「……これは、燕の守りだ」
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……父ちゃんの守りでもある?」
幹夫は、言ってから少し恥ずかしくなった。 でも恥ずかしいまま、ここに置く。
父はすぐ返事をしなかった。 間がある。 その間に、父の指が紐の結び目をいちど止める。 止めて、息を吐く。
ふう……。
「……ある」
短い。 でも、落とさない“ある”だった。
父は結び目を作るとき、ぎゅっと引っぱりそうになって、途中で止めた。 止めて、ま札に指を当てた。 札の角を撫でて、息。
――いき。
そっと引く。 そっと結ぶ。 結び目の中に、小さい“ま”。
父がぽつりと言った。
「……守るって……閉めることじゃねぇな」
母が頷く。
「うん。……屋根みたいにするだに。雨は防ぐけど、息は通す」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「息通らん守りは牢屋だに。……牢屋は飯がまずい」
父が小さく笑って、でもすぐ真顔に戻った。
「……牢屋にせん」
網の守りは、軒下の巣の前に“カーテン”みたいに下がった。 でも、巣の入口は塞がない。 燕が通れる“すきま”がある。 すきまがあると、日も息も入る。
幹夫は少し離れて、燕の動きを見た。 燕は一度、網の前で止まって、首を小さく傾げた。 でも、すぐにすきまを見つけて、すっと入った。
すっと。 刺さらない動き。
幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。 座ったから、息。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……通れた」
母が小さく笑った。
「通れりゃ守りだに。……通れんのは閉じ込めだに」
父は網の端の結び目を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……“ま”が、仕事したな」
“ま”が仕事。 間が、守りになる。
正夫が塀の向こうから顔を出して、目を丸くした。
「えっ! なにそれ! かっこいい!」
父の肩が、子どもの声でふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が口の中で言った。
「……正夫の声だ」
名前を置く。 置けると、笑える。
父は正夫へ、少しだけ声を上げた。
「……つばめの守りだ」
正夫が嬉しそうに言った。
「まもり! ぼくも、守り、ほしい!」
母が笑って言った。
「守りはな、物だけじゃないだに。……“ま”と“いき”も守りだに」
正夫が首を傾げる。
「ま……?」
幹夫が小さく言った。
「……止まる札、みたいなやつ」
正夫はぱっと頷いて、口の形だけで言った。
「ま」
遊びみたいなのに、ちゃんと守り。 幹夫はその丸い「ま」が好きで、喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
夕方。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
守
幹夫はその字を見た瞬間、軒下の網の守りと、父が出したま札を思い出した。 守るのは、強く掴むことじゃない。 間を残して、息を通すこと。
母は上の形を指でなぞった。
「ここ、宀(うかんむり)だに。……屋根。家の屋根」
屋根。 雨から守る。 でも、息は通す。
母は下をなぞった。
「こっちは寸(すん)だに。……小さい手つき。測る手。押さえる手」
押さえる手。 掴まない手。 今日、父が猫を追わずに“ここまでだ”と置いた手。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「守るってのはな……屋根の下で、手を加減して持つ字だに。ぎゅって握るんじゃない。そっと置く。まを残す。……それが守りだに」
まを残す守り。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
父が新聞紙の「守」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、守るって……閉めることだと思ってた」
母は否定しなかった。 低く言った。
「うん。……閉める守りもある。でもな、息が止まる守りは、守りじゃなくなることがあるだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「守るなら息守れ。息守れりゃ飯がうまい。……飯がうまけりゃ、守れたってことだ」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……息、守りたいな」
その言い方が、幹夫の胸の奥をあたためた。 あたためたから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 守を書く。
一回目の「守」は、寸が尖って、字が固い顔になった。 固いと、守りが締めつけに見える。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……屋根を太らせりゃええ。屋根の下を広くする。……守りは“余地”だに」
余地。 ほどける余地。 通れる余地。 息の余地。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「守」は、屋根が少し広くて、寸が座った顔になった。 座ると、息が通る字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「守」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 寸の最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……屋根の下に手が座るな」
母が小さく頷いた。
「うん。……座れりゃ守れる。座れんと、走る」
母は「守」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、燕の巣の丸みたいに見えた。
夜。 軒下の網の守りは、風で少し揺れていた。 揺れても、音は鳴らない。 鳴らない揺れは、安心の揺れだ。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
ねこきたでもおわず にま したつばめ の まもりあみ つけたま を のこしたとおれたおれ息 まもりたいいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……守るの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、守りは閉めるだけじゃない。通れる守りもある」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……通れる守り……それ、好きだ」
好きだ。 父の“好き”が、今日も丸い。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「守りはひとりで持たん。……屋根は一枚でも、支える柱は何本もあるだに」
祖母が淡々と言う。
「柱がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 守れる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
まもる ってやね の した でて を かげん して もつ じ なんだねきょうねこ きたでもとうちゃんおわず にま してつばめ まもれたあみ の すきまいき とおったいき
最後に、小さく「守」。 丸をひとつ。 巣の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは猫の目の鋭さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
守 はやね と てぎゅ じゃなくま を のこす息 を とおすうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうねこ きた ときま できたさけばん かったつばめとおれた守 って じすこしおれ の てやわらかい
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――網の切れ端の小さな欠片。 目が大きくて、指がすっと通る。刺さらない網。 欠片の端に、父の震える字で小さく、
まもり
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその網の欠片を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
守る。 閉じ込めない。 通れるすきまを残す。 屋根の下で、手を加減して持つ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、軒下の小さな巣と、通れる守りは届いた。 届いた“守り”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、誰かの息が通る余地を、そっと家の中に残していった。





コメント