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寺の字

 

 その日の昼、家の天井がいちど、ふるえた。 ふるえたのは風のせいじゃない。鍋のふたでもない。

 ごぉん――。

 低い音が、蒲原の空気をまあるく押した。 音は遠いのに、胸の真ん中に触ってくる。触ってくるのに、痛くない。

「鐘だに」

 祖母が言った。 母は何も言わず、手を止めた。止めたのは針じゃない。母の呼吸だ。

 幹夫は内ポケットの紙を指で確かめた。 まだ は いきてる ってこと 母の字。最後の「うん」。小さな丸。 紙は薄いのに、そこだけ重い。重いのに、息ができる重さだった。

 もう一度、鐘が鳴った。

 ごぉん――。

 幹夫は思った。 サイレンは届かなかったのに、鐘は届く。 届く音があるなら、待つという字も、少しだけ生きやすい気がした。

「行くかね」

 祖母が湯呑みを置きながら言った。 母は目を伏せたまま、小さく頷いた。

「……うん。行こ」

 母の「行こ」は、どこかへ行きたい「行こ」じゃなくて、戻ってこられる場所へ行く「行こ」だった。

 寺へ向かう道は、家の匂いがまだ残っている道だった。 竈の煙、干した布の匂い、潮の匂い。混ざって、いつもの町の匂いになる。

 母は小さな包みを持っていた。線香と、少しの米。 祖母は手ぬぐいの端をきっちり結んで、ほどけない形にしてから歩き出した。ほどけない形は、祖母の安心の作り方だった。

 寺の門が見えると、幹夫は思わず足を速めた。 門の上の板に、大きな字が彫ってある。黒い。深い。木の中に沈んだ黒。

 幹夫は目をこらした。 昨日覚えた「待」の字。 母が言った――右は「寺」だに。

 幹夫の胸が、ぽん、と小さく跳ねた。

 この字だ。

 寺。

 幹夫は、読めないのに「分かった」。 分かった瞬間、字はただの形じゃなくなる。形が意味になると、胸が少し熱くなる。熱いのに、怖くない熱さだった。

 幹夫は門の影で、帳面を取り出した。 白い綴じ糸の結び目が、ひゅっと光る。 鉛筆を持って、門の字を真似しようとした。

 けれど、手が止まった。 寺の字は、見れば分かるのに、書こうとすると急に遠い。遠いのは、線の数が多いからじゃない。字の中に重さがあるからだ。

「何しとる」

 母が振り返った。 幹夫は門の字を指さした。

「……てら」

 母は門の字を見上げて、小さく頷いた。 頷き方が、どこか照れている頷きだった。母も、この字を見上げるたび何かを思い出してしまうのかもしれない、と幹夫は思った。

「そう。寺」

 母は幹夫の帳面を覗いて、指先で空中にゆっくり線を引いた。

「上の屋根、こう。……次、土。最後に、寸」

 寸、という言葉は幹夫にはまだ分からない。 でも母の指が動くと、分からない言葉も線になる。線になると、怖くない。

 幹夫は、母の指の動きを真似して、帳面に「寺」を書いた。 一回目はよろけた。よろけた寺は、門の字と違って子どもの顔をした。 悔しくて、胸がちくりとした。

「ええ」

 母が言った。 その「ええ」は、叱らない「ええ」だった。

「寺はな、急ぐと崩れる。……待つ字だで」

 待つ字。 寺は、待つの中にいる字。 幹夫はその言い方が、嬉しくて、少しだけ苦しかった。嬉しいのは、今日も母が教えてくれるから。苦しいのは、母が「待つ」を知りすぎているからだ。

 幹夫はもう一度「寺」を書いた。 二回目の寺は、まだ揺れているのに、少しだけ大人の顔をした。

 境内は、音が少ない場所だった。 少ないのに、静かすぎない。 砂利を踏む音、線香の匂い、遠くの鳥。そういう小さなものが、きちんとここにいる。

 母は線香に火をつけ、祖母は小さく手を合わせた。 幹夫も真似をして手を合わせた。祈り方は知らない。知らないから、手を合わせる形だけを借りた。

 煙が上がる。 細いのに、迷わない。迷わない煙は、紙より頼もしく見えることがある。

 母の背中が、少しだけ丸くなった。 丸くなるのは、弱いからじゃない。胸の中のものをこぼさないための丸さだ。

 母は線香立ての前で、声を出さなかった。 祖母も今日は、何も言わなかった。 言葉がないのに、空気だけが重い。重いのに、嫌じゃない。重さは、逃げない証拠でもある。

 そのとき、庫裏のほうから僧の人が出てきた。 歳のいった人で、声が低い。低いのに、命令しない低さだった。

「……お参りかね」

 祖母が「はい」と言い、母は小さく頭を下げた。 僧の人は母の手元の包みを見て、ゆっくり頷いた。

「待つのは、手が疲れる」

 僧の人がぽつりと言った。 待つのは心が疲れると思っていた幹夫は、その言い方に驚いた。 手が疲れる。 紙を持つ手。針を持つ手。線香を持つ手。空っぽを押さえる手。

 母は返事をしなかった。 返事ができないとき、母は黙る。黙り方は、折り畳む黙り方だ。

 僧の人はそれ以上、踏み込まなかった。 踏み込まない優しさは、寺の匂いに似ていた。

「鐘、届いたかね」

 僧の人が言った。 祖母が「届いただ」と答えた。 母は、ほんの小さく頷いただけだった。

 幹夫は、その頷きに「うん」を探した。 紙の「うん」みたいな、声じゃない「うん」。 見つけた気がして、胸の奥が少し温まった。

 帰り道、幹夫は帳面を抱えて歩いた。 門の字を写した「寺」が、ページの真ん中に座っている。 座っているだけで、胸の中が少し整う。整うと、昨日の港のざわざわが少し薄まる。

「母ちゃん」

 幹夫が呼ぶと、母は「なに」と返した。 返し方が柔らかい。柔らかい返し方は、寺の砂利みたいだった。踏んでも痛くない。

「寺って……待つの字、だね」

 幹夫が言うと、母は少しだけ空を見た。 空を見る目は、答えの代わりに広さを持ってくる目だ。

「……そうだに」

 母は言って、少し間を置いた。

「寺はな、待つだけじゃなくて……戻る場所でもある」

 戻る場所。 その言葉は、港の「戻ろか」と似ていた。諦めじゃない戻り。ほどけないための戻り。

 幹夫は歩きながら、帳面の端に小さく「待」を書いた。 昨日より少しだけ、形が落ち着く。 寺の字を知ったぶんだけ、待つの字が自分のものになる気がした。

 家が見えるころ、遠くで汽笛が鳴った。 港の汽笛じゃない。いつもの汽笛。 それでも幹夫の胸は、少しだけ揺れた。届く音は、いつも胸を動かす。

 幹夫は内ポケットの紙を、また指で確かめた。 まだ は いきてる ってこと 母の字。丸。

 寺の鐘も、汽笛も、紙の「うん」も。 届くものがあるかぎり、「まだ」はちゃんと息をしている。 幹夫はそう思ってみたかった。

 帰ってきて、母が縫い箱をいつもの場所に戻すとき、箱は畳の目にぴたりと揃った。 揃っただけなのに、幹夫はほっとした。 揃うと、今日がちゃんと片づく。

 夜、幹夫は小さな紙に書いた。 封筒の形。宛名は「おかあちゃんへ」。 中に、今日覚えた字をひとつだけ置いた。

 > てら

 それだけ。 それだけにすると、寺の匂いがそのまま紙に残る気がした。

 最後に、丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、届いた音をしまう丸。

 幹夫は紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込んだ。 差し込む指が少し震えた。震えは恥ずかしさだ。恥ずかしさは、待つ手が疲れる証拠でもある。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、寺の鐘は届いた。 届いた音のそばで、幹夫は今日も、待つ字の右側――寺の字を、胸の中でそっとなぞっていた。

 
 
 

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