少の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 8分
朝の光は、昨日より少しだけやわらかかった。 やわらかい光は、畳の目の上でいったん止まってから、ゆっくり広がる。広がると、家の中の音も、角を立てずに届く。
縫い箱の影が、畳の上でいつもより短い。 短い影は、今日がちゃんと朝になった影だ。
幹夫は、縫い箱を畳の目ひとつぶん持ち上げた。 冷たい畳が指先に触れる。 その冷たさの下に、紙が二枚――重なっていた。
一枚目は母の字。 いつもの折り目の匂いのする字。
二枚目は父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう > まだ とけん > でも > きのうより > すこし
その下に、丸がひとつ。 昨日より、ほんとうに少しだけ丸い丸。
幹夫は「すこし」の四文字を、声に出さずに口の中で転がした。 すこし。 すこし、は軽いのに、胸の奥で重かった。 重いのに、刺さらない。 刺さらない重さは、石に似ている。
幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、言葉を落とさずに持たせてくれる。
座敷の向こうから、父の息が聞こえた。 深いのに、ときどき引っかかる息。 引っかかるたび、幹夫の胸の奥がきゅっとなる。 きゅっとなるのに、昨日より怖くない。
――いき。
口の中で言うと、自分の胸の走りが少しだけ遅くなる。 遅くなると、聞こえる息は息のままでいられる。
朝飯のちゃぶ台で、父は椀を持つ手を少しだけ長く止めた。 止めたあと、ゆっくり吸うように味噌汁を飲んだ。
「……うめぇな」
昨日も聞いた言葉なのに、今日は「ここ」の言葉に近い音だった。 遠い場所の乾いた風じゃなく、竈の湯気の匂いが混じっている。
祖母は淡々と返した。
「味噌は味噌だ。うまいなら飲め」
淡々とした言葉は、暮らしを暮らしに戻す。 戻す言葉があると、胸の中の警報は尖らない。
母は父の前に、もう一杯、茶を置いた。 置き方が丁寧すぎなくなっている。 丁寧さが少しだけゆるむと、家の中に息の通り道ができる。
父は茶を見て、母を見て、幹夫を見た。 目が動くまでの「間」は、まだ長い。 でも、その長さが、今日は少しだけ怖くなかった。 長い間の中に、息を入れられるようになってきたからだ。
「……みき坊」
呼び方が落ちる。 落ちるたび、幹夫の胸の奥に折り目が増える。 増える折り目は、飛ばないための折り目だ。
幹夫は、すぐ返事ができなかった。 できないまま、息をひとつ入れた。
――いき。
「……うん」
父はほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 全部が急に明るくならない明るさは、目にやさしい。
その「目にやさしい」が、幹夫には嬉しかった。 嬉しいのに、嬉しさが叫ばない。 叫ばない嬉しさは、少しずつ増える。
朝飯のあと、父は縁側に出て、網の欠片を手に取った。 昨日解けた、あの糸の切れ端。 細いのに、ちゃんとそこにある糸。
父はそれを指先でつまんで、結ぼうとして――止めた。 止めたまま、目を細める。 目を細めると、光が丸くなる。丸い光は痛くない。
「……まだ、指が言うこときかん」
父がぽつりと言った。 その言い方は、怒りじゃなく、報告みたいだった。 報告の言葉は、刃になりにくい。
母が台所から声を投げた。
「急がんでええ。……少しずつだに」
少しずつ。 母の口から出ると、それは叱りじゃなく、抱える言葉になる。
父は「うん」とだけ返した。 短い「うん」。 短いのに、重い。 重いのに刺さらない。
幹夫は、その「少しずつ」を、心の中で何度も撫でた。 撫でると、角が丸くなる気がした。
「母ちゃん」
幹夫は、縁側と台所の間の「間」に声を置いた。
「父ちゃんの紙に……“すこし”って書いてあった」
母は桶の水を絞る手を止めて、幹夫を見た。 見る目が、叱る目じゃない。 見届ける目だった。
「うん」
母は頷いた。
「“少し”って書きてぇのか」
幹夫は頷いた。 頷くと、胸がぽん、と鳴る。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、返事の鳴り方だ。
母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を取る。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「今日はな……“少”を書く」
母はゆっくり書いた。
少
幹夫は目をこらした。 「小」に似ている。 似ているのに、どこか違う。
「これな」
母は指で上の線をなぞった。
「小さい、の“小”があるだろ」
次に、ちいさな“ノ”みたいな一画を指でなぞった。
「ここが“ちょっと”だに」
ちょっと。 ちょっと、という言葉が、今日はやさしく聞こえた。 ちょっとは、無理をさせない言葉だ。 ちょっとは、息を入れる場所を残す言葉だ。
母は続けた。
「小さい、ってだけじゃなくて……小さいの中の“ちょっと”。それが少」
幹夫は、父の紙の「すこし」を思い出した。 まだ解けない。でも、きのうより、すこし。 その「ちょっと」こそが、胸を走らせすぎない重さだった。
父が縁側から顔を上げた。 上げ方がゆっくりで、目がここへ戻ってくるまでに間がある。 その間に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は新聞紙の「少」を見て、ぽつりと言った。
「……小さいのが、大事なとき、あるだら」
母は一度だけ頷いた。 頷きは返事になる。
「うん。……腹が減ってるときの、一口とかな」
一口。 幹夫は、握り飯のひと口を思った。 固い握り飯。 固いのに、崩れない。 崩れないから、持てる。
父はしばらく黙って、それから小さく言った。
「……少しで、助かることもある」
助かる。 その言葉が出た瞬間、幹夫の胸の奥が熱くなった。 熱いのに、息ができる熱さだった。 父の言葉が、「遠い」だけの言葉じゃなくなる熱さ。
母は、そこで声を落とした。
「少しでええ、って言えるのも……強さだに」
強さ。 祖母の淡々とした強さ。 母の息を入れる強さ。 父の震える線の強さ。 少し、もその中に座っている。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、手が震えても戻ってこられる。
「小」を書く。 それから、ちいさな一画を置く。
一回目の「少」は、その“ちょっと”が大きくなりすぎた。 大きすぎると、少しじゃなくなる。 少しじゃなくなると、胸が走ってしまう気がした。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「“ちょっと”はな、飛びそうなくらい小さくてええ。……飛びそうなら、息を入れる」
飛びそうなら、息。 幹夫は息をひとつ入れた。
――いき。
二回目の「少」は、ちょっとがちょっとらしくなった。 小さいのに、ちゃんとそこにいる。 そこにいると、字が落ち着く。
父がそれを見て、小さく言った。
「……みき坊、少、ええな」
褒める声が小さい。 小さいのに、胸の奥が熱くなる。 熱いのに、息ができる熱さだった。
幹夫は恥ずかしくて、石を握り直した。 冷たさが戻ってきて、やっと言えた。
「父ちゃんの“すこし”、好き」
言ってしまった瞬間、胸がきゅっとした。 好き、と言うのは、嬉しさの刃になることもあるからだ。 でも父は、顔を背けなかった。
父は新聞紙の端に、ゆっくり鉛筆を伸ばした。伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……少し、書いてみる」
父はそう言って、「小」を書いた。 線が揺れる。 揺れるのに、折れていない。
最後の“ちょっと”を置くとき、父は息をひとつ止めた。 止めた間に、幹夫は自分の息を入れた。
――いき。
父の点が置かれた。
とん。
小さい音。 小さいのに、腹に届く音。
父の「少」は、少し歪んでいた。 歪んでいるのに、ちゃんと「少」の顔をしていた。 「ちょっと」が、父らしく小さい。
父は、その字を見て、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、落ちなかった息だ。
母は「少」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
夕方、近所の男が網を取りに来た。 戸口で「よう、戻ったな」と父に言って、言い終わってから少しだけ目を伏せた。 目を伏せるのは、嬉しさを乱暴にしないためだ。
父はすぐ返せなかった。 返せない間が少し長い。 でもその間に、父は息を入れたのが分かった。
「……ああ。少しずつだら」
少しずつ。 父の口から「少しずつ」が出た瞬間、幹夫の胸の奥で何かがすとんと座った。 座ると、息ができる。
近所の男は「おう」と頷いて、網を抱えた。 抱える腕が少しゆるい。 ゆるいのに落とさない抱え方は、許しの抱え方に似ていた。
夜。 父は布団に入る前に、縫い箱の前で立ち止まった。 立ち止まる影が畳の上で揺れる。 揺れるのに、倒れない。
父は縫い箱を持ち上げない。 代わりに、箱の脇へ――今日の新聞紙の切れ端を小さく折って、そっと置いた。 折られた紙の角は丸くなっている。 角が丸いと、刺さらない。
紙の上には、父の震える字で「少」がひとつ。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だった。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。
> (とうちゃんへ も)
中に書く。
> すこし って > ちいさい けど > いちばん だいじ なとき が あるね> とうちゃんの すこし が> きょう ここ に あった
最後に、小さく「少」。 丸をひとつ。 そして、もうひとつ。 二つの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、あたたかさの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> すこし は> こぼさない ってこと> すこし ずつ は> なくさない ってこと> いき しながら> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう> きのう より> すこし> ねむれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく、ちいさな麻縄の結び目がひとつ。 昨日より、少しだけゆるい。 ゆるいのに、ほどけない。
幹夫はその結び目を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
少し、は嘘をつかない。 少し、は胸を走らせすぎない。 少し、は今日を持てる形にする。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「少し眠れた」という父の字は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――家の中の“少しずつ”を、そっと増やしていこうとしていた。





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