届の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月10日
- 読了時間: 8分

丸く削った縁側のふちは、朝の光を受けて、昨日より少しだけやわらかく見えた。 やわらかいものは、触る前から肩を下ろしてくれる。
幹夫は指の絆創膏の上から、そっとふちをなぞった。 ちく、は来ない。 来ないと、胸の奥が静かになる。静かが刺さらない。
首の布の袋を掌で押さえる。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れた、そのとき。
チリン。
外から小さな鈴の音が来た。 小さいのに、澄んだ音。 澄んだ音は、遠くまで届きやすい。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
戸の外から、声。
「郵便ですー」
郵便。 その言葉は、紙の匂いと、外の風を一緒に連れてくる。
母が台所の境目から、急がせない声で返した。
「はーい。……今、出ますだに」
父が、縁側の板に手を置いたまま、ぽつりと言った。
「……ベルだ」
チリンの音に、名前がついた。 名前がつくと、音は音のままで座る。
父はもうひとつ、息を吐いた。
ふう……。
幹夫も、息を入れる。
――いき。
母が戸を開けると、朝の潮の匂いが、紙の匂いと混ざって入ってきた。 紙の匂いは乾いているのに、なぜか人の指の温度が混じっている気がする。
配達の人が、はがきを一枚差し出した。 角が少し丸いはがき。 角が丸いと、刺さらない。
「静岡のほうからだに」
母が言って受け取り、いちど胸の前で止めた。 止めて、少し。 その少しが、家の“間”になる。
父ははがきを見た。 目が遠くへ行かない。 でも、眉の間がほんの少し寄った。
宛名の字。 消印の丸。 その丸が、今日の“届いた”の印みたいに見えた。
母が、はがきを裏返す。 裏返す前に、息をひとつ入れる。
――いき。
裏には、走る字が並んでいた。 急いで書いた字。 急いでいる字は、胸を急がせることがある。
母は声に出して読まなかった。 読むと、言葉が家の中に走ってしまう日があるのを知っている声だ。
ただ、目だけで読んで―― 一瞬だけ、唇が小さく結ばれた。
父が、ぽつりと言った。
「……なんて書いてある」
“聞く”じゃなく、確かめる言い方。 その確かめ方が、やわらかかった。
母は息をひとつ吐いて、短く言った。
「向こうは……昨夜、音が鳴ったって」
音。 それだけにして、母は言葉を切った。 切るのに、刃じゃない切り方。 置いて止める切り方。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
幹夫は、はがきの端に目をやった。 字の中に、見慣れないカタカナが一つだけ、刺のように立っていた。
サイレン。
それを見た瞬間、胸の奥が、きゅっと鳴った。 鳴ったのは怖さじゃなく、“大人の顔”の匂いだった。 大人の顔の匂いは、子どもにも届く。
父は、はがきのその一語のあたりを見て、目を細めた。 細めた目の奥で、何かが一瞬だけ遠くへ行きかけて――でも、戻った。
戻ったまま、父はぽつりと言った。
「……ここには……届かなかったな」
届かなかった。 その言い方は、少しだけ助かったみたいな言い方だった。
母が、低く言った。
「うん。……海のほうは、音が散るだに。山もある。……届かん日もある」
届かん日もある。 “ある”が入ると、怖さが一個に固まらない。 日によって違う。 違うなら、息が入る。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「届くもんぁ届く。届かんもんぁ届かん。……届いたのは、はがきだに」
はがき。 紙が届いた。 言葉も届いた。 でも音は、届かなかった。
父が、はがきを母の手からそっと受け取った。 受け取り方が、置くみたいだった。 ぎゅっと掴まない。 紙を痛がらせない。
父は声を出して読まなかった。 でも、指で文字の上を、そっとなぞった。 なぞる指が、ゆっくり。 ゆっくりだと、胸の奥が走りにくい。
父が、ぽつり。
「……心配、ってのは……音より先に届くな」
心配。 その二文字が、畳の上に座った。
幹夫は喉の奥が熱くなって、言葉が出そうになった。 出そうになったから、息。
――いき。
「……父ちゃん。……ぼくの、いきも……届く?」
言ってから、少し恥ずかしくなる。 でも恥ずかしいまま、ここに置く。
父はすぐ返事をしなかった。 返事を急ぐと、言葉が刺さる日がある。 父は、いちど息を吐いた。
ふう……。
「……届く」
短いのに、落とさない声だった。
「……おまえの“いき”は……ここまで来る」
“ここまで”。 その言い方が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。 遠すぎない。 近すぎない。 縁の距離で届く言葉。
昼前、母ははがきを小さな布で包んだ。 布で包むと、紙の角が刺さらない。 刺さらないと、見返すときに胸が走りにくい。
母は縫い箱の横に、小さな箱を置いた。 空き箱に布を敷いただけの箱。 でも布があると、置いた音が眠る。
「ここ、便りの箱にするだに」
便りの箱。 届いたものを、走らせないで置く場所。
父が箱を見て、ぽつりと言った。
「……届いたの、ここへ置けば……胸まで突っ込まんで済むな」
突っ込まんで済む。 余地のある言い方。 余地があると、息が入る。
幹夫はその箱の布のしわを、指でならした。 ならす指が、やさしい。 やさしい指は、紙を怖がらせない。
――いき。
綴じた冊子を膝に置いて、鉛筆で小さく書いた。
きょうゆうびんはがきとどいたむこう は おと が なったでもここには とおかったいき
“いき”は丸く書いた。 丸いと、刺さらない。
父がそれをちらりと見て、ぽつりと言った。
「……“とおかった”って……ええな」
遠かった。 遠い、は怖いの日もあるけれど、今日は助けの遠さだった。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
届
幹夫はその字を見た瞬間、はがきの消印の丸を思い出した。 丸は「ここまで来た」の印。
母は字の上を指でなぞった。
「この上の形はな……家の中みたいにも見えるだに」
家の中。 屋根の下。 守の屋根の匂い。
母は下をなぞった。
「こっちは道筋みたいに見えるだら。……通り道」
通り道。 糸の道。 息の道。 縁側の道。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「届くってのはな……外から来たもんが、ここまで着く字だに。手が届く、便りが届く、声が届く」
幹夫は頷いた。 頷く前に、息。
――いき。
母は続けた。
「でもな、届かんほうがええもんもある。怖い音とか、刃みたいな言葉とか。……届きそうになったら、間を置く。息を入れる」
届かんほうがええ。 それは“逃げ”じゃない。 守りの選び方だ。
父が新聞紙の「届」を見て、ぽつりと言った。
「……俺には……届くものが多すぎた」
声は低い。 低いのに、折れていない。 折れていないのは、言葉にできているからだ。
母は否定しなかった。 低く言った。
「うん。……だから今は、届かせるものを選ぶ。飯の匂い、燕の声、みきの“いき”。……それは届かせてええ」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……届かせてええ、って……救いだな」
救い。 その言葉が、ちゃぶ台の上に丸く座った。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「腹が届けば飯がうまい。飯がうまけりゃ、余計なもんは届かん」
祖母の言い方は乱暴なのに、太い道だった。
幹夫は鉛筆を握った。 「届」を書く。
一回目は、線が詰まって、字が息苦しい顔になった。 息苦しいと、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「詰まったらな……ここに“間”を作れ。線と線のあいだに、息を入れるだに」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「届」は、少し座った顔になった。 座ると、字が“ここまで来た顔”になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「届」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……点、置いたら……届いた、って感じがするな」
点は、入口。 点は、印。 点は、着いた、の小さな旗。
母は「届」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、消印みたいに見えた。
夜。 便りの箱の布の上に、はがきが静かに座っていた。 座っていると、胸の中へ突っ込んでこない。 突っ込まないと、眠れる。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
はがきとどいたさけび そう に なった けどとまれたとおい おと はここまで こなかったみきぼう の いきとどいたいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……届くって……怖い日もあるけど……助かる日もあるな」
幹夫は返事を急がなかった。 間を置く。
――いき。
「……うん。……ぼく、父ちゃんに、いき、とどける」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……受け取る」
短いのに、落とさない言葉だった。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「届くもんは、箱に置いて、ゆっくり開けるだに。……心も同じ」
祖母が淡々と言う。
「ゆっくりなら飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 続きの言葉。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
とどく ってここまで くる って こと なんだねきょうはがき とどいたむこう の おと は こわい けどここまで こなかったでもぼく の いきとうちゃん に とどけるいき
最後に、小さく「届」。 丸をひとつ。 消印の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「サイレン」の文字の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
とどく はここまで くるて も こえ も たより もこわい の はま と いき で とめるうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうはがき きたむこう の ことば がむね に きそう だったでもばこ に おけたとおい おと は こなかったみきぼう の いき はとどいたすこしもどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――消印のついた切手の端っこ。 紙の角が、父の手で少し丸く切りそろえられていて、刺さらない。 そのそばに、父の震える字で小さく、
とどく
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその小さな切手の端を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
届く。 怖いものは、間と息で止める。 でも、ええものは、ここまで届かせてええ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、掌の上の小さな消印は届いた。 届いた“ここまで”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、届くものを選んで、刺さらない形で受け取っていこうとしていた。





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