川の字
- 山崎行政書士事務所
- 3月28日
- 読了時間: 8分

朝の川は、まだ冷たい音を抱えていた。 石と石のあいだで、水が小さく息をする。 さら……ではなく、すう……に近い。 走る前の、水の座り方。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、細い葦(あし)を三本。 川べりで折って、同じ長さに揃えた。 三本は、並べると川の字みたいだ。 触ると、乾いた匂いがする。 乾いたのに、ちゃんと水の道の匂い。
――いき。
息を入れると、胸の中にも三本の線が立つ。 真ん中がいちばん深い。 左右は、寄り添って支える。 寄りすぎると詰まる。 離れすぎると切れる。 ちょうどいい“間”。
「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。
母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。
母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。
かわ の ふみいたぐらぐら こわいこども おちそうよかったら みてください かわむら
かわむら。 川の村。 川の字が、二つも並んでいるみたいに見える。
ぐらぐら。 踏み板が揺れると、揺れが胸へ来る。 胸へ来ると、足が先に固くなる。 固い足は、滑る。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、川村さんの“こわい”が届いた音。
鳴ったから、息。
――いき。
父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も暴れない。
父の目が「かわ」「ふみいた」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。
ふう……。
「……行くか」
短い。 短いのに、“渡る道”が入っている。
母が頷いた。
「うん。……川は流れるでな。流れると、板も痩せる。痩せたら、間が増える。増えすぎる前に、座らせりゃええ」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「川は引っぱるな。……渡りは急ぐな。……落ちる前が肝だ」
“前”。 父の肩が上がりきる前。 板が外れる前。 子の足が滑る前。 幹夫の得意な“前”。
父が納屋から釘と木槌と、薄い木の楔(くさび)を出してきた。 楔は軽い。 軽いのに、ぐらぐらを止める力がある。 父は釘をいきなり袋へ突っ込まない。 布に包む。 包むと、尖りが刺さらない。
「……みき坊。……板、押さえろ。……掴むな。……受ける手だ」
受ける手。 受ける手は、揺れを揺れのままで座らせる手。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん」
川へ向かう道は、朝の湿りがまだ草の先に残っていた。 草の露が、足首を冷やす。 冷えると、急ぎたくなる。 急ぐ前に、息。
――いき。
川は、家の裏の小さな流れ。 大きな海へ行く前の、細い道。 細いのに、ちゃんと深いところがある。 水が石を避けて走る。 避ける走り方は、怒らない走り方。
踏み板は、二枚の板を渡しただけの橋だった。 片方が少し沈んで、ぐらぐらしている。 沈みは、見れば分かる。 見えると怖さが形になる。
川村のおじさんが、橋の手前に立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。
「おはようだに……朝からすまん。……昨日、子がここで、つるって……」
つるって。 その音だけで膝が冷える。 冷える前に、幹夫の胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、板を見る。 釘の頭が少し浮いている。 木が痩せて、釘が居場所を失っている。 見ると、ぐらぐらの理由が形になる。 形になると、手が荒れない。
父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、父が口の中で言った。
「……浮きだ」
名前を置く。 置けると、怖さが全部にならない。
ふう……。
父は板をいきなり踏まない。 足を置く前に、手でそっと押す。 押すけれど、押しこまない。 押して、揺れの大きさを聴く。 聴くと、川の音と板の音が分かれる。
「……ここ、鳴く」
鳴く。 板が鳴くと、足が怖がる。 足が怖がると、子どもは跳ねる。 跳ねると落ちる。
父が言った。
「……みき坊。……ここ押さえろ。……板が座るまで、受けろ」
幹夫は板の端に手を添えた。 掴まない。 握りこまない。 ただ、そこにいる。 受ける手で、揺れを受ける。
――いき。
父が薄い楔を、板と桁の隙間へそっと入れる。 いきなり叩かない。 指で押して、楔が“座る場所”を探す。 探すと、楔が怒らない。 怒らないと、木が割れない。
とん。 とん。
木槌の音は小さい。 小さいのに、胸の硬いところを起こしやすい。 父の肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は小さく言った。
「……ま」
父が、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……ま」
父も言えた。 言えると、木槌の音が音のままで座る。
楔が座ると、板のぐらぐらが小さくなる。 小さくなると、川の音が前に出る。 川の音が前に出ると、板が“道”になる。
父は釘を一本、打ち直した。 ぎゅっと打ちきらない。 木が湿る日、乾く日がある。 きついと、木が息できない。 息できない木は、割れて刺さる。
「……少し、残す」
父が言う。 少し。 結び目の“ま”と同じ少し。 詰めない少し。
板を踏んで確かめる。 今度は、ぐらぐらじゃない。 こつ。 こつ。
丸い音。 丸い音は刺さらない。
川村のおじさんの肩が、すとん、と落ちた。
「……助かった……これで、子が渡れる」
渡れる。 渡れる、は生きるに近い言い方。
父はすぐ「いいえ」と返さず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。
「……うん。……落ちる前でよかった」
“前でよかった”。 祖母の言う“前”。
川村のおじさんが恐る恐る言った。
「……うち、礼も……」
父が先に言った。 尖らせず、短く。
「……ええ。……川が流れるのが、いちばんだ」
川が流れる。 板が座る。 その二つが揃うと、朝が続く。
幹夫も、息をひとつ入れてから言った。
――いき。
「……よかったら、で……いい」
川村のおじさんの目が、少しだけ柔らかくなった。 柔らかい目は、受け取る目。
「……ありがと。……川の音、こわい日があったけど……今日、こわくない」
こわくない。 その言葉が、川の上を少し明るくした。 雲の影が薄くなるみたいに。
――いき。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 先生が黒板に、大きく字を書いた。
川
きゅっ、きゅっ。
「今日は“かわ”の川。読めるな」
教室が声を出す。
「かわ!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が言った。
「川はな、三本の線だ。真ん中がいちばん深い流れ。両脇は浅い流れ。――水はな、一本じゃ足りん。広がって、寄って、また広がる」
広がって、寄って。 寄りすぎると詰まる。 離れすぎると切れる。 ちょうどいい間が、流れになる。
先生は少し声を落として言った。
「心も同じだ。溜めると濁る。濁ると刺さる。――息をして、間を置いて、流せ。川の字みたいに」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
川
幹夫はその字を見た瞬間、朝の板のこつ、こつと、川のすう……が一緒に浮かんだ。 浮かぶと胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
母が三本の線を指でなぞった。
「左、真ん中、右。……間があるだに。間があると、流れる。間がないと、詰まる。――川は“ま”の字だに」
父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。
「……今日……釘、打ちきらんかった。……少し残した。……あれが川だな」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「詰めるな。……川は逃げ道。……逃げ道がありゃ腹が荒れん」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……俺の胸も……詰まる日がある。……でも、みき坊の『ま』で……流れた」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 川を書く。
一回目の「川」は、線が寄りすぎて、字が息苦しそうになった。 息苦しい字は、見てる胸も息苦しい。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「寄りそうならな……間を残せ。川は、間が水だに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「川」は、三本の線のあいだに、細い道が見えた。 見えると、字が流れる。 流れると、刺さらない。
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
けさ かわむら の ふみいた ぐらぐらこども おちそうくさび で すわらせたくぎ うちきらんで すこし のこした川 って じ みっつ の せんみっつ の あいだ が みず の みちおれ の むね も いき して ま して ながすいき
翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、二つと、ひとつ。
一枚目、川村さんの字。
きょう こども わたったこわくないかわ の おと きいて わらったありがとう
最後に、小さな丸。
二枚目、母の字。
川 は せん の あいだ が みずあいだ を のこせいき して ま を いれろ うん
最後に、丸。
三つ目は、紙じゃなく――葦が三本。 幹夫の袋の三本より、少し長い。 先がふわっと揃っている。 葦の横に、川村さんの字で小さく、
みっつ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその葦を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
川。 三本の線のあいだに水の道がある字。 渡れるように座らせる道。 詰めずに残す間。 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど川の音は毎日届く。 その音の“間”に、父の「ふう」と、幹夫の「ま」は届いた。 届いた“少しの余地”が、板も胸も落とさせなかった。
幹夫は葦を袋へ戻し、口の中で小さく言った。
――いき。
今日も、川の字みたいに。 間を残して、流れて、刺さらないように――そっと胸の中へ、川を座らせていった。





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