帰の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 7分

父が家に来てから、母の朝は少しだけ早くなった。 早いのに、急いでいない。 急がない早さ。――落とさないための早さ。
まだ薄暗い座敷で、母はちゃぶ台の脚を一本ずつ拭いた。 拭いて、乾かして、また拭く。 布巾の湿り気が木に吸われていくのを見ていると、胸の中の湿り気も一緒に吸われていくような気がするのだろう。
幹夫は布団の中で、耳だけ起こしていた。 祖母の咳。 竈の薪がはぜる音。 母の布巾の音。 そして、もうひとつ――昨夜から増えた音。
人の息。
深いのに、途中でひっかかるような息。 ひっかかるたび、幹夫の胸の奥がきゅっとなる。 きゅっとなるのに、そのきゅっは怖さだけじゃない。 「ここにいる」ときゅっとする。
幹夫は口の中で、小さく言った。
――いき。
息をひとつ入れると、音は音のままに戻る。 戻ると、今日が始められる。
朝飯の前、父が縁側へ出た。 戸を開ける音が、ゆっくりだった。 ゆっくりは、迷いじゃない。体がその場所に辿り着くまでの「間」だ。
縁側の板に、父の影が落ちた。 影が細い。 細いのに、折れていない。折れていない細さは、どこか海の水平線に似ていた。
父は海のほうを見た。 波は低くて、白い頭だけが小さく跳ねている。 跳ねる光は刺さらない。刺さらない光は、目にやさしい。
「……富士、見えるな」
父がぽつりと言った。 幹夫ははっとして、父の視線の先を追った。 遠くの空に、薄い形。 うっすらしたのに、そこにある形。 見えるだけで、胸が少しだけ温かくなった。
母は台所のほうから「うん」とだけ返した。 その「うん」は短いのに、折り目の匂いがした。 声がこぼれないように、紙みたいに畳まれている「うん」。
父はしばらく、富士の形を見ていた。 見ているだけで、何かを思い出しているような目。 思い出す目は遠い。 遠いのに、逃げない。
それから父は、ゆっくり踵を返して、座敷へ戻ってきた。 戻ってくる足音は小さい。 小さいのに、畳が少しだけ沈む。沈むと「居る」が分かる。
父は戸の敷居を越えるとき、ぽつりと言った。
「……ただいま」
声は小さかった。 小さいのに、家の中の空気が一段、揺れた。 揺れるのに、倒れない。 揺れるのは、布がほどける前の揺れに似ていた。
母の手が、布巾を握ったまま止まった。 止まって、息をひとつ入れたのが、幹夫には分かった。
――まず、いき。
母は顔を上げずに、低く言った。
「……おかえり」
「おかえり」は、言い慣れた言葉のはずなのに、今日は少し重かった。 重いのに、痛くない。 石みたいな重さだった。
父は、それを聞いて、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 全部が急に明るくならない明るさは、目にやさしい。
幹夫は、喉の奥が熱くなって、声が出なかった。 出るのは息だけだった。
――いき。
午前、母は座敷を掃こうとして、縫い箱を少し動かした。 動かすと、畳の影がずれる。 影がずれるだけで、幹夫の胸がきゅっとなる。 縫い箱の影は、ずれで「ここにある」を知らせる影だからだ。
父がそれを見て、箒を手に取った。 箒の柄を握る手が、まだ細い。 細いのに、柄を落とさない。落とさない手は、戻る手だ。
「……俺がやる」
父は言った。 言い方が強くない。 強くないのに、譲らない言い方だった。
母はすぐに「だめ」と言わなかった。 言わないで、父の手元を見て、息をひとつ入れた。 まず、いき。 息を入れてから、静かに言った。
「……ゆっくりでいい」
ゆっくりでいい。 その言い方が、幹夫の胸の角を少し丸くした。 速くしなくていい。落とさなくていい。 その許しが、家に少しだけ風を通した。
父は箒を動かした。 さら、さら、と畳の上を毛先がなでる音。 音が小さいのに、部屋の形が整っていく音だった。 整う音は、泣く音じゃない。 整う音は、暮らしの音だ。
父は縫い箱の前で手を止めた。 止め方が、妙に丁寧だった。 縫い箱の下に何かがあるのを、気づいたのかもしれない。
幹夫の胸がきゅっとなった。 縫い箱の下の紙は、母と幹夫の「声」だったからだ。 声にできない日々の、折り目の声。
父は箱を持ち上げなかった。 代わりに、箱の影を見て、ぽつりと言った。
「……これ、大事なんだな」
母の布巾が、また止まった。 止まって、母は父を見た。 見方が、叱る見方じゃない。 見届ける見方だった。
「うん」
母は短く頷いた。
「……言葉、預けとく場所」
預ける。 控え帳。受領証。縫い箱の下。 預ける、はこの家の強さになっていた。
父は箒を握ったまま、小さく頷いた。
「……ええな」
それだけ言って、またさら、さら、と畳を掃いた。 触れないでくれたことが、幹夫にはありがたかった。 触れない優しさは、家の匂いがした。
昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を取って、幹夫の前に置く。 鉛筆の継ぎ目は、今日も硬い。 硬さがあると、熱くなった胸を少し押さえられる。
「幹夫」
母が言った。 声は低い。倒れない低さ。
「今日、これ覚えよ」
母がゆっくり書いた。
帰
幹夫は目をこらした。 左が、刃みたいに細い。 右が、箒みたいな形をしている。
「帰る、の帰」
母は言って、右側を指でなぞった。
「これな……箒の字が入っとる」
箒。 さっき父が握っていた柄。 さら、さら、の音。
「家に帰るってのはな」
母は少しだけ間を置いて、息をひとつ入れた。 まず、いき。
「……掃く場所がある、ってことだに」
掃く場所。 居る場所。 戻って、手を動かせる場所。
幹夫は、さっき父が言った「ただいま」を思い出した。 ただいま、は帰ってきた声。 おかえり、は帰っていい声。
「母ちゃん」
幹夫は小さく聞いた。
「……帰るって、言っていいの?」
母は幹夫を見て、ほんの少しだけ目を細めた。 湯気みたいに、やわらかい目。
「うん」
母は言った。
「帰るってのは、帰っていいって言われることでもある」
許の字が胸の奥で揺れた。 力をゆるめて息を入れる許し。 帰るには、その許しがいる。
父が、ちゃぶ台の端に肘をついて、新聞紙の「帰」を見た。 見て、ゆっくり言った。
「……帰るって、難しいな」
難しい。 その言葉は痛いのに、刃じゃなかった。 難しいと言えると、難しさが少し丸くなる。
母は、すぐに答えなかった。 答えない間に、針を通すみたいに息を入れた。 そして、低く言った。
「うん。……だから、ゆっくりでいい」
父は、ほんの少しだけ頷いた。 頷きは、返事になる。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、字の線がぶれても戻ってこられる。
左の細い線を引いて、右の箒みたいな形を書く。 一回目の「帰」は、右側が箒じゃなく、ほうきの毛が散ったみたいになった。 散ると、帰る場所が散る気がして、胸がきゅっとした。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「帰はな、きれいに書く字じゃない。……散らばったら、また掃けばええ」
また掃けばええ。 その言い方が、幹夫の胸を少しだけ軽くした。 軽いのに飛ばない軽さだった。 散っても戻れる、という軽さ。
二回目を書いた。 今度の「帰」は、少しだけ箒の形になった。 箒の形になると、字が「戻ってくる顔」をする。
父がそれを見て、ぽつりと言った。
「……みき坊、ええ帰だ」
褒める声が小さい。 小さいのに、胸の奥が熱くなる。 熱いのに、息ができる熱さだった。
幹夫は、返事の言葉が見つからなくて、石を握り直した。 冷たさが戻ってきて、やっと言えた。
「……父ちゃんも、帰ってきた」
言ってしまった瞬間、胸がきゅっとした。 帰ってきた、と言ったら、帰ってこなかった時間が全部、背中に乗る気がしたからだ。
でも父は、否定しなかった。 否定しないかわりに、ゆっくり「うん」と言った。
「……帰ってきた。……ただいま」
ただいま。 今度は、練習じゃないただいまだった。 家に向けた声だった。
母は「帰」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
夜。 父は早く布団に入った。 布団の端を握る指は、昨日より少しだけ白くない。 白くないだけで、胸が少しだけ楽になる。
幹夫は小さな紙を切って、封筒の形を描いた。 宛名に「おかあちゃんへ」。
> かえる って > ほうき が ある ってことなんだね > ただいま って きこえた
最後に、小さく「帰」。 丸をひとつ。 帰る道が飛ばないように置く丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、今日の熱の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、母の字だった――けれど、いつもより紙が少し厚かった。 重ねてある。 重ねてあると、胸がぽん、と鳴る。
一枚目、母の字。
> かえる は > いき が もどる ってこと > こわくても > ただいま って いっていい > おかえり って いうから > うん
最後に、小さな丸。
二枚目。 字が違う。 線が少し震えていて、でも折れていない。折れていない震えの字。
> みきぼう > ただいま
その下に、丸がひとつ。 母の丸より、少しいびつな丸。 いびつなのに、ちゃんと「ここまで」の丸だった。
幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
帰るって、言っていい。 ただいま、って言っていい。 おかえり、って言っていい。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど――今朝、縫い箱の下に届いた父の丸は、ちゃんと届いた。 幹夫はその丸を、石みたいに胸の奥でそっと転がして、今日の息の間を静かに守った。





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