影の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月5日
- 読了時間: 6分

手紙を出した翌朝は、鈴が鳴らなかった。 ちりん、が来ないだけで、家の中の音が少し増える。湯の鳴る音、祖母の器を置く音、母の針が布に触れる音。増えた音が、鈴の代わりに「待つ」をやってくれているみたいだった。
障子の向こうはよく晴れていた。 晴れの光は、紙みたいにまっすぐで、嘘をつかない。 嘘をつかない光は、部屋の中へ入るとき、格子の形になって畳へ落ちる。畳の上に、四角い影がいくつも並ぶ。
幹夫はその四角を見て、昨日書いた「間」を思い出した。 門の中に日。 今日は、門の代わりに障子の桟。日が、桟の中にいる。
その光の四角の端に、もっと濃い影があった。 縫い箱。 箱の影が、畳の上で少しだけ長い。 長い影は、朝の影だ。朝は、影がよく伸びる。
母は縫い箱の前で、針を進めていた。 入って、出る。 入って、出る。 返し縫いの戻りが、今日も小さく続いている。
幹夫は内ポケットの鉛筆に触れた。竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、待つ時間の中で自分の形が崩れにくい。
「母ちゃん」
呼ぶと、母は針を止めずに「なに」と返した。 返し方が柔らかい。柔らかいと、言葉が刺さらない。
「今日は……来ないね」
何が、とは言わなかった。 でも母は分かる顔をした。分かるけど、答えを急がせない顔。
「うん。……来ん日もある」
母の声は低い。倒れない低さ。 低いのに、今日は少しだけ息が混ざっていた。息が混ざると、「まだ」が刃にならない。
祖母が台所から言った。
「来ん日ぁ来ん。鐘でも聞いとけ」
祖母の言い方は、乱暴じゃないのに、切り替える力がある。 切り替えるのは忘れるためじゃなく、今日の鍋を焦がさないためだ。
幹夫は頷いて、縁側に出た。 海のほうが光っている。波の頭が、きら、と跳ねる。 跳ねる光は、怖くない。怖くない光は、目の奥に残っても痛くならない。
ふと足元を見ると、縁側の板に自分の影が落ちていた。 帽子のつばが、影の顔を暗くする。 暗い顔なのに、自分の形だと分かるのが不思議だった。
幹夫はしゃがんで、その影の端を指でなぞった。 なぞっても、影は動かない。 触れないのに、そこにいる。
影は、いつもこうだっただろうか。 いつもこうだったのに、今は、影が少しだけ怖い。 怖いのは、影が「いないもの」も映してしまうからだ。手が空っぽになった一瞬の「間」みたいに。
幹夫は内ポケットから帳面を出しそうになって、やめた。 風がある。紙は飛ぶ。 紙が飛ぶと、胸の中の「まだ」まで飛びそうだった。
昼前、母が縫い箱を少しだけずらした。 ずらすと、畳の影が変わる。影が変わるだけで、胸がきゅっとなる。 母はずらしただけで、下の紙を出したわけじゃない。 けれど、ずらした影の形が「何かを確かめた」影だった。
幹夫は、言葉を飲み込んだ。 飲み込むと、喉の奥が熱くなる。 熱くなった喉の奥で、昨日の「照」を思い出した。 照らす。見えるようにする。 見えるようにすると、見たくないものまで見える。
母は縫い箱の脇から控え帳を取り出し、端の棒を一本増やした。 増やす手つきが丁寧だった。丁寧に増やすのは、棒を「日」にしていく手つきだ。
「母ちゃん」
幹夫は、さっきの縁側の影を思い出して、言ってしまった。
「……影って、なんでできるの」
母の針が止まった。 止まった時間が、ひと呼吸ぶん長い。 でも母は眉間を固くしなかった。固くする代わりに、息をひとつ入れた。まず、いき。
「影?」
母は幹夫を見て、縁側のほうをちらりと見た。 光の四角が畳に落ちている。縫い箱の影がそこにいる。
「光があると、できるだに」
母はそう言って、新聞紙の裏を一枚広げた。 真っ白じゃない白。 この白の上なら、言葉が転んでも大丈夫な気がする。
母は鉛筆を取り、ゆっくり書いた。
影
幹夫は目をこらした。 線が多い。 でも、どこか見覚えのある形が混ざっている気がした。
「これが、かげ」
母は言った。
「照る、って書いただろ。照ると、影ができる。……くっついて歩くやつ」
くっついて歩く。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 影は逃げない。置いていかない。 置いていかないから、怖いときもある。 でも置いていかないから、ひとりにならない気もする。
幹夫は小さく聞いた。
「……影って、消える?」
母は少しだけ困った顔をして、それから困ったまま答えた。
「夜は見えん。けど、消えたわけじゃない」
消えたわけじゃない。 見えないだけ。 見えないだけ、という言い方が、宛所不明の白や、照会中の葉書とどこか似ていた。 ない、じゃなくて、見えない。 見えないなら、まだ、が生きていられる。
母は、影の字を指でなぞった。
「難しい字だで、今日はな……形だけ覚えりゃええ」
形だけ。 母はいつも、急がせない。急がせないのは、字だけじゃない。心もだ。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、線がぶれそうになっても戻ってこれる。
幹夫は「影」を真似した。 一回目は、門みたいな枠が歪んだ。 歪むと、字が子どもの顔になる。子どもの顔になると、胸の中の警報がちくりと鳴る。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「影はな、まっすぐでも、曲がってても……影だに」
その言い方が、妙にあたたかかった。 まっすぐじゃない影も、影。 まっすぐじゃない気持ちも、気持ち。
幹夫は息をひとつ入れて、もう一度書いた。 二回目の「影」は、まだよろけているのに、ちゃんと「影」の顔をしていた。
母はその横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
午後、空っぽの袖の男が戸口に来た。 今日は日が強く、男の足元に影がくっきり落ちている。 空っぽの袖の影は、風に揺れて形が変わる。 変わるのに、男だと分かる。
「清水、行ったらしいな」
男は言った。 声は低い。低いのに、命令しない低さ。 母は「うん」とだけ返した。返し方が、縫い箱の下の「うん」みたいだった。短いのに、預かる「うん」。
「……報せ、来たか」
男が聞くと、母は首を横に振った。
「まだ」
まだ。 その二文字は、今日もちゃんと息をしていた。
男は空を見上げ、口の端を少し噛んだ。
「影はなぁ……日に当たるほど濃うなるで」
男がぽつりと言った。 言い方が、慰めでも脅しでもなくて、ただの事実みたいだった。 事実みたいな言葉は、胸に刺さらないぶん、長く残る。
男は「じゃあな」と言って去っていった。 男の影が、戸口から畳へ入らないように、ぎりぎりのところで切れていた。 切れている影を見て、幹夫は思った。 影も、境目がある。 境目があるなら、戻ってくる場所もあるのかもしれない。
夜、幹夫は小さな紙を切り、封筒の形を描いた。 宛名に「おかあちゃんへ」。 中に、今日の字を入れたかった。
> かげ って > くっついて あるくんだね
最後に、小さく漢字で書いた。
影
そして丸をひとつ。 光が飛ばないように、影が迷子にならないように置く丸。
幹夫はそれを折り畳んで、縫い箱の下へ差し込んだ。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、言葉を出したあとの軽さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱の位置が畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の紙を開くと、母の字があった。
> かげ が あるのは> ひかり が ある ってこと> うん
最後に、小さな丸。
幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
影は、怖いだけじゃない。 影があるのは、光がある。 光があるなら、まだ、は息をできる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、畳の上の影は届く。 縫い箱の影も、母の手の影も、幹夫の帽子の影も――今日も、光といっしょに静かに歩いていた。





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