待の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月10日
- 読了時間: 8分

便りの箱は、今朝も空っぽだった。 布の上に、何も座っていない。 何も座っていないのに、箱はちゃんとそこに居る。 居るから、余地が見える。
幹夫は縁側に腰を下ろして、箱のふちを目でなぞった。 昨日、丸くした縁側のふちは、今日も刺さらない顔をしている。 刺さらない顔は、見ているだけで胸の角を丸くする。
首の布の袋を掌で押さえる。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れてから、幹夫は箱へ、そっと言った。
「……まだ、だね」
返事はない。 でも返事がないのは、“まだ”の形だ。 “ない”じゃなく、“まだ”。
縁側の板が、きし、と鳴った。 父が出てきた音。 急がない音。
父は箱を見て、ぽつりと言った。
「……来てねぇか」
来てねぇ。 その言い方が、少しだけ寂しそうに聞こえて、幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
母が台所の境目から声を落とした。
「昨日出したばっかだに。……今日来るわけねぇ」
“ねぇ”の言い方が、刃じゃなくて笑いに近い。 笑いに近いと、待つのが怖くない。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「待て。……腹減ったら飯だに。飯は待たせん」
飯は待たせん。 その言い方で、家の空気が暮らしへ戻る。 戻ると、胸の奥のざわざわが、少しだけ遠くへ座る。
父は箱の前で、いちど立ち止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、父の喉がごくりと動くのが見えた。
「……待つのが……苦手だ」
ぽつり。 落とすみたいな声。
幹夫は、すぐに何も言わなかった。 急いで言葉を出すと、言葉が尖る日がある。 だから、間。
――いき。
母が、急がせない声で言った。
「苦手でええ。……待つのは、練習だに」
練習。 習の字の匂い。
父は小さく笑いそうになって、笑わないまま、ぽつりと言った。
「……練習、か……」
言えると、練習は恥じゃなくなる。
朝飯のあと、父は縁側へ戻って、便りの箱の横に座った。 座っているのに、じっとしていない。 指が、小さく動く。 藁縄の蝶結びを、ほどいて、また結んで。 ほどける余地を残して、また結ぶ。
結び目は、輪っかが二つ。 二つあると、怖さも二つに分かれる気がする。 ひとつに固まらない。
幹夫はその指先を見ながら、胸の中で小さく言った。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……手ぇ動かしてねぇと……待てねぇ」
待てねぇ。 待つと、胸の奥から昔が出てくる日がある。 出てくる前の“空白”が怖い日がある。 父の声は、その怖さに触れないふりをしなかった。
母が、縫い箱の横から小さな木の端切れを取り出して、ちゃぶ台に置いた。 置いた音が、布の上で眠る。
「じゃあ、手ぇ動かすなら……これ」
小さな木。 昨日削った縁側の削り屑の匂いが、まだ少し残っている。
「便り箱の名札、作るだに」
名札。 名前があると、そこが座れる場所になる。 座れると、心が突っ込まない。
父が木片を見て、眉の間がほんの少し寄った。 寄って――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は木片を持ち上げる前に、いちど布を敷いた。 布の上に置いて、指でそっと押さえる。 置けると、道具は暴れない。
父がぽつり。
「……待ち箱、って書くか」
待ち箱。 その言葉が、便りの箱の空っぽを、空っぽのままやさしくした。 空っぽは、来る場所になる。
母が頷いた。
「うん。……“待つ”って書いとけば、急がんで済むだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「急いでも便りぁ早くならん。……急いだら飯がまずい」
父が小さく笑って、でもすぐ真顔に戻った。
「……書く」
昼前。 父と幹夫は、浜へ行った。 潮が引く時間だった。 潮が引くと、海の底の石が顔を出す。 顔を出す石は、濡れて黒い。 黒いのに、角がない。
父は浜の端に立って、波を見た。 波は来て、引く。 来て、引く。 行って、戻る。
幹夫はその繰り返しが好きだ。 繰り返すものは、怖さを小さくする日がある。 次が分かるからだ。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……潮も、待つもんだな」
幹夫は首を傾げた。
「潮、待ってるの?」
父は海を見たまま、ゆっくり言った。
「……俺らが、潮を待つ。……潮は待たねぇ。……でも、待つと……合う」
合う。 和の匂い。 合わせるんじゃなく、合う。
父は石の上に腰を下ろした。 座るとき、いちど止まって、息を吐いた。
ふう……。
吐いてから座る。 それだけで、座る音が小さい。
幹夫も隣に座って、首の袋を押さえた。
――いき。
波が、すう、と引く。 引いたあとに、砂が鳴る。 ざら、ざら。 その音は小さい。 小さいのに、耳の奥まで届く。
幹夫は言った。
「……音、やさしいね」
父が少しだけ目を細めた。
「……やさしい音は……待てる」
待てる。 父の口から出た“待てる”は、命令の「待て」じゃない。 自分の足で立つ「待てる」だった。
浜の向こうで、子どもたちが走って笑っている。 笑い声が風に乗って、来て、消える。 来て、消える。 音にも“終い”がある。
幹夫は、便りの箱の空っぽを思い出した。 空っぽにも終いがあって、次が来る。 来るまでの間が、今日の“待つ”。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……返事が来るまで……潮を見てりゃいいか」
その言い方が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。 待つ場所ができた言い方だった。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
待
幹夫は、その字を見た瞬間、浜の波の“来て、引く”を思い出した。 待つのは止まることじゃなくて、来るものに合わせて息を入れること。
母は左の小さい形を指でなぞった。
「こっちは彳(ぎょうにんべん)だに。……ちょこちょこ歩く足」
足。 歩く。 歩くと、心が走る日もある。 でも歩くから、戻れる日もある。
母は右側をなぞった。
「こっちは寺だに。お寺の“てら”」
寺。 寺の鐘の音は、鳴ったあと、ゆっくり消える。 消えるまで待てる音。
母は少しだけ笑いそうになって、笑わないまま言った。
「待つってのはな……**足を止めて、寺みたいに静かに“そこに居る”**字だに」
そこに居る。 居るのが怖い日もあるのに、居られる字。
母は続けた。
「それとな、寺の中に“寸”が入っとるだら。小さい手つき。守の字の寸と同じ。待つってのは、守りながら待つってことだに」
守りながら待つ。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。 待つのは、ただ我慢することじゃない。 自分を傷つけない形で居ること。
父が新聞紙の「待」を見て、ぽつりと言った。
「……彳って……少しずつ、って足だな」
母が頷く。
「うん。……少しずつ歩いて、止まって、息入れて、また歩く。待つのも、歩きだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「待つなら噛め。噛んでりゃ時間が進む。……進めば飯がうまい」
幹夫は鉛筆を握った。 彳を書いて、寺を書く。
一回目の「待」は、彳が急いで、字が走りそうになった。 走りそうになると、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ”。
「走りそうならな……彳を小さく。足をちょんちょんにする。……寺を大きくして、そこに座らせるだに」
座らせる。 便りの箱の布の上。 はがきが座った場所。 父が波を見た石の上。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「待」は、寺が少し落ち着いて、字が“居られる顔”になった。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「待」は、彳の線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 寺の最後の点を置くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……点、置くと……待ってる“場所”ができるな」
場所。 場所があると、待つのが怖くない。
母は「待」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、波が描く小さな輪みたいに見えた。
夜。 父は昼に作りかけた木の名札を、仕上げていた。 紙やすりで角を丸くする。 刺さらないように。 刺さらない形にしてから、筆じゃなく鉛筆で、静かに書く。
> まちばこ
“まち”の文字が、少し震えている。 震えているのに、折れていない。 折れていないのは、父が息を入れて書いているからだ。
父は名札を、便りの箱の横にそっと置いた。 置く。 投げない。 落とさない。
父がぽつりと言った。
「……これがあると……待つの、少し楽だ」
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
「……うん。……箱も、待ってる」
父は少し間を置いて、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……待ってるのは……俺か」
“俺”が出る。 父が自分のことを、ちゃんとここに置ける日が増えている。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「待つのが怖い日はな……待つ場所を作ればええ。縁側、浜の石、箱の布。……場所が守りだに」
祖母が淡々と言う。
「場所があれば飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 待つ明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
まつ ってあし を とめてそこに いる って こと なんだねきょうべんり の ばこ からっぽでもまちばこ の ふだ つくったとうちゃんうみ みながら まてたいき
最後に、小さく「待」。 丸をひとつ。 波の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは“空っぽ”の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
まつ はあし を とめて そこに いるすこしずついき を いれてばしょ を つくるうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうまつ の じ かいたからっぽ が こわい とき あるでもうみ の おと は やさしいまてたまちばこ の ふだできたすこしおれ も そこに いられた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――名札を削った木の薄い削り屑がひとつ。 くるん、と巻いて、木の糸みたい。 端が丸く整えられていて刺さらない。 そのそばに、父の震える字で小さく、
まつ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその“木の糸”を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
待つ。 空っぽを、空っぽのまま怖がりすぎない。 足を止めて、場所に座る。 息を入れて、波みたいに、来て引くのを見ている。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、便りが来る前の“待ち”は届いた。 届いた静かな場所を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、返事の来るほうへ、刺さらない足取りで、そっと待っていた。





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