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待の字


 夕方の光は、昼の顔をもう脱ぎかけていた。 脱ぎかけの光は、家の角をやわらかくする。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 でも今日は、来るものを待つ空っぽじゃなくて――来ないものを待つ空っぽに見えた。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 戸口の外で、足音が止まった。 止まる足音は、話を持ってくる足音だ。

 とん、とん。

 母が急がせない声で返す。

「はーい」

 戸が少し開いて、外の匂いが入る。 潮の匂いに混じって、土の匂いがいつもより濃い。 土が濃い日は、胸がじっとする。

 組の男が、帽子の影から小さく言った。

「……清水のほう、警戒(けいかい)だに。今夜、灯(ひ)落とせって」

 灯を落とせ。 その言葉が、畳の上に落ちた瞬間、家の空気が一段だけ冷えた。

 父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 母は、声を尖らせない。

「わかっただに。……ここはサイレン届かんで、合図は?」

 男が首をすくめる。

「半鐘か、拍子木か、誰かの声だに。……とにかく、灯は漏らすなって」

 漏らすな。 “漏れる”は、怒られる漏れ方をする日がある。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「漏らすなじゃなくて、包め。……包めば漏れん」

 包め。 包むと、刺さらない。

 男が帰って、戸が閉まる。 閉まる音は小さい。 小さいのに、家の中が少しだけ狭くなる気がした。

 ――いき。

 母は押し入れから黒い布を出した。 昔の着物をほどいた布。 黒は光を飲む。 飲むのに、怒ってない黒。

「窓、これでだに」

 父が無言で立ち上がる。 立ち上がり方が少し早い。 早いと、胸が先に走る。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。

 ふう……。

 父がぽつりと言った。

「……鳴るのか」

 鳴る。 何が。 サイレンなのか、半鐘なのか、胸の中なのか。

 母は否定しない。 低く言った。

「鳴るかもしれん。……でも、ここは届かん。届かんぶん、待つだけだに」

 待つだけ。 だけ、があると、怖さが全部にならない。

 祖母が淡々と言う。

「待つなら座れ。……立つと走る。走ると腹が荒れる」

 父は黒い布を受け取る前に、いったん置き布の上へ置いた。 置いてから、両手で受けるように持つ。 掴まない。 掴まないと、布も胸も暴れない。

 幹夫は、窓の桟(さん)を指で触った。 冷たい木。 冷たい木は、今ここを教える。

 ――いき。

 母が布を当てて、父が留める。 留め方が丁寧だ。 丁寧だと、手が戻る。

 ぱさ。 ぱさ。

 布の音は柔らかい。 柔らかい音は、刺さらない。

 父が、ぽつり。

「……布は……守りだな」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 日が落ちると、家の中の色が消えた。 消えると、耳が起きる。 耳が起きると、遠いものも近くなる。

 波の音。 線路の音。 風が布を撫でる音。

 どれも、悪い音じゃない。 でも、悪い音じゃないのに、胸が忙しくなる夜がある。

 父は縁側の端に座っていた。 座っているのに、膝が小さく揺れている。 揺れは、走りたい揺れ。

 幹夫は、父の膝の揺れを見て、喉の奥が熱くなった。 熱いのは怖いからじゃない。 父が“待っている”のが分かるからだ。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……鳴らないのが……一番、嫌だ」

 鳴らないのが嫌。 音が来たら、それが合図になる。 合図がないと、いつ終わるか分からない。 分からないのは、胸を尖らせる。

 母は、声を低く置いた。

「鳴らんでもええだに。……鳴らんなら、鳴らんで済む夜だに」

 “済む夜”。 終いの匂いがする言い方。

 祖母が淡々と言う。

「鳴らんなら飯がうまい。鳴ったら飯食って待て。……どっちでも飯だに」

 飯だに。 太い道。 太い道があると、夜が少し太くなる。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 幹夫はそっと、ちゃぶ台の端にあるま札を取った。 角が丸い札。 片面に「ま」。もう片面に「息」。

 札を、父の膝の横――畳の上に、音を立てないように置く。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 幹夫は声を小さくした。

「……ま」

 父の目が、札へ落ちる。 落ちると、目が今ここへ戻る。

 父は少し間を置いて、息を吐いた。

 ふう……。

「……ありがとう」

 たった一言。 でも、その一言が暗い部屋の中で、灯みたいに小さく座った。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 外で、どこかの家の拍子木が鳴った。

 カン、カン。

 乾いた音。 乾いた音は、胸の奥の硬いところを起こしやすい。

 父の肩が、跳ねそうになって――止まる。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。

 ふう……。

 父が口の中で言った。

「……拍子木だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 母が低く言った。

「待て、って合図だに。……動くなって」

 動くな。 待て。 言葉が、今夜の形になる。

 幹夫は、袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 時間が、のろい歩き方で進む。 のろい歩き方は、怖い日もある。 でも、のろい歩き方は、ちゃんと“歩いている”。

 父の膝の揺れが、少しずつ小さくなる。 小さくなるのは、諦めじゃない。 “待てている”揺れだ。

 そのとき、遠くで、長い音が一つ伸びた。

 うぉー……。

 汽笛なのか、工場なのか。 分からない長い音。 分からないは、胸を探ってくる。

 父の目が一瞬だけ遠くへ行きかけて――戻る。 戻る前に、父の指がま札の角を撫でた。 丸い角。 丸い角は刺さらない。

 ふう……。

「……遠い音だ」

 父が言った。 “遠い”を付けると、胸も遠くなる。

 母が、小さく頷いた。

「うん。……遠いもんは、遠いままでええだに」

 遠いままでええ。 その言い方が、幹夫の胸をすとんと座らせた。

 ――いき。

 しばらくして、戸口が小さく鳴った。

 とん、とん。

 夜の戸の音は、昼より胸に届く。 届くと、肩が上がりやすい。

 父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 母が戸を少し開ける。 隙間から、外の声。

「解除(かいじょ)だにー。……もう灯、ええぞー」

 解除。 その二文字で、夜がほどける。

 父が、ふう、と長く息を吐いた。

 ふう……。

「……待てたな」

 “待てた”。 父が自分で自分に言う言葉。 その言葉が、幹夫の喉の奥を熱くした。

 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 母が黒い布を少しだけずらして、月の光を入れた。 月の光は白い。 白いのに、刺さらない。 白い光は、待ったあとの光だ。

 遅い夜。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 灯は小さく、布で半分隠してある。 隠すのに、息は通す。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 待

 幹夫は、その字を見た瞬間、暗い中の膝の揺れと、拍子木の乾いた音と、「解除」の二文字が一緒に浮かんだ。 待つのは、ただ止まることじゃない。 息を入れて、走らないでいること。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは彳(ぎょうにんべん)だに。……小さい歩き。足の字」

 小さい歩き。 父の膝の揺れ。 走らないための、小さい歩き。

 母は右側をなぞった。

「こっちは寺(てら)だに。……止まる場所。座る場所」

 座る場所。 縁側の端。 逃げ道のある端。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「待つってのはな……小さい歩きを、寺みたいな場所で止めて、息を入れる字だに。走り出す前に、足を座らせる。……“ま”を足に入れる」

 “ま”を足に入れる。 その言い方が、幹夫の胸の奥にすとん、と座った。

 母は続けた。

「待つって、我慢だけじゃない。……守りだに。待てば、刺さらんで済むことがある。待てば、届かん音も薄れる。……今夜みたいに」

 父が新聞紙の「待」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、待つの……嫌いだった」

 母は否定しない。

「うん。……待つ間に、胸が勝手に鳴るでな。でも今日は、札を置いた。息を入れた。……待ち方が、丸かった」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「待てりゃ飯がうまい。……待てんと腹が荒れる。荒れりゃ夜が長い」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……夜、短くなった気がする」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 待を書く。

 一回目の「待」は、彳が急いで、字が走りそうな顔になった。 走りそうだと、待てない。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「急いだらな……彳を小さく書け。小さい歩きだに。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「待」は、足が落ち着いて、寺が座った。 座ると、待てる字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「待」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……足が止まるな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……止まれりゃ、待てる。待てりゃ、守れる」

 母は「待」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、夜の闇の中で座っていた“ま”みたいに見えた。

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

けいかいひ おとしたさけん かったひざ うごいた けどま した息 したかいじょ きた待こわい けどま を いれる とまてたみきぼうまたすかったいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……待つの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、待てたら、夜が短い」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……短くするのは……俺だな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「そうだに。……待つのは、誰かにさせられるんじゃない。自分で“ま”を入れることだに」

 祖母が淡々と言う。

「ま、入れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 待てる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

まつ ってちいさい あし ととまる ばしょ の じ なんだねきょうよるまってかいじょ きたとうちゃんま して息 してまてたぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「待」。 丸をひとつ。 夜の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは拍子木の乾いた音の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

待 はちいさい あし を とめてま を いれて夜 を みじかく するうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうならん の が こわかったでもま できた息 できた待 って じすこしおれ の あしとまったありがとう

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――黒い布の小さな切れ端。 角が丸く縫ってあって刺さらない。 布の端に、父の震える字で白く、

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。 白い丸は、夜の月みたいだった。

 幹夫はその黒い布を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 待つ。 鳴らない音のあいだを、息で渡る。 小さい歩きを止めて、心を座らせる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど昨夜、届かない音の中で父が作った「待つ」は届いた。 届いた“夜を短くする布”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない待ち方を、そっと家の中に置いていった。

 
 
 

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