待の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月17日
- 読了時間: 9分

夕方の光は、昼の顔をもう脱ぎかけていた。 脱ぎかけの光は、家の角をやわらかくする。
ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 でも今日は、来るものを待つ空っぽじゃなくて――来ないものを待つ空っぽに見えた。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
戸口の外で、足音が止まった。 止まる足音は、話を持ってくる足音だ。
とん、とん。
母が急がせない声で返す。
「はーい」
戸が少し開いて、外の匂いが入る。 潮の匂いに混じって、土の匂いがいつもより濃い。 土が濃い日は、胸がじっとする。
組の男が、帽子の影から小さく言った。
「……清水のほう、警戒(けいかい)だに。今夜、灯(ひ)落とせって」
灯を落とせ。 その言葉が、畳の上に落ちた瞬間、家の空気が一段だけ冷えた。
父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
母は、声を尖らせない。
「わかっただに。……ここはサイレン届かんで、合図は?」
男が首をすくめる。
「半鐘か、拍子木か、誰かの声だに。……とにかく、灯は漏らすなって」
漏らすな。 “漏れる”は、怒られる漏れ方をする日がある。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「漏らすなじゃなくて、包め。……包めば漏れん」
包め。 包むと、刺さらない。
男が帰って、戸が閉まる。 閉まる音は小さい。 小さいのに、家の中が少しだけ狭くなる気がした。
――いき。
母は押し入れから黒い布を出した。 昔の着物をほどいた布。 黒は光を飲む。 飲むのに、怒ってない黒。
「窓、これでだに」
父が無言で立ち上がる。 立ち上がり方が少し早い。 早いと、胸が先に走る。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。
ふう……。
父がぽつりと言った。
「……鳴るのか」
鳴る。 何が。 サイレンなのか、半鐘なのか、胸の中なのか。
母は否定しない。 低く言った。
「鳴るかもしれん。……でも、ここは届かん。届かんぶん、待つだけだに」
待つだけ。 だけ、があると、怖さが全部にならない。
祖母が淡々と言う。
「待つなら座れ。……立つと走る。走ると腹が荒れる」
父は黒い布を受け取る前に、いったん置き布の上へ置いた。 置いてから、両手で受けるように持つ。 掴まない。 掴まないと、布も胸も暴れない。
幹夫は、窓の桟(さん)を指で触った。 冷たい木。 冷たい木は、今ここを教える。
――いき。
母が布を当てて、父が留める。 留め方が丁寧だ。 丁寧だと、手が戻る。
ぱさ。 ぱさ。
布の音は柔らかい。 柔らかい音は、刺さらない。
父が、ぽつり。
「……布は……守りだな」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
日が落ちると、家の中の色が消えた。 消えると、耳が起きる。 耳が起きると、遠いものも近くなる。
波の音。 線路の音。 風が布を撫でる音。
どれも、悪い音じゃない。 でも、悪い音じゃないのに、胸が忙しくなる夜がある。
父は縁側の端に座っていた。 座っているのに、膝が小さく揺れている。 揺れは、走りたい揺れ。
幹夫は、父の膝の揺れを見て、喉の奥が熱くなった。 熱いのは怖いからじゃない。 父が“待っている”のが分かるからだ。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……鳴らないのが……一番、嫌だ」
鳴らないのが嫌。 音が来たら、それが合図になる。 合図がないと、いつ終わるか分からない。 分からないのは、胸を尖らせる。
母は、声を低く置いた。
「鳴らんでもええだに。……鳴らんなら、鳴らんで済む夜だに」
“済む夜”。 終いの匂いがする言い方。
祖母が淡々と言う。
「鳴らんなら飯がうまい。鳴ったら飯食って待て。……どっちでも飯だに」
飯だに。 太い道。 太い道があると、夜が少し太くなる。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
幹夫はそっと、ちゃぶ台の端にあるま札を取った。 角が丸い札。 片面に「ま」。もう片面に「息」。
札を、父の膝の横――畳の上に、音を立てないように置く。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
幹夫は声を小さくした。
「……ま」
父の目が、札へ落ちる。 落ちると、目が今ここへ戻る。
父は少し間を置いて、息を吐いた。
ふう……。
「……ありがとう」
たった一言。 でも、その一言が暗い部屋の中で、灯みたいに小さく座った。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
外で、どこかの家の拍子木が鳴った。
カン、カン。
乾いた音。 乾いた音は、胸の奥の硬いところを起こしやすい。
父の肩が、跳ねそうになって――止まる。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。
ふう……。
父が口の中で言った。
「……拍子木だ」
名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。
母が低く言った。
「待て、って合図だに。……動くなって」
動くな。 待て。 言葉が、今夜の形になる。
幹夫は、袋を押さえて息を入れた。
――いき。
時間が、のろい歩き方で進む。 のろい歩き方は、怖い日もある。 でも、のろい歩き方は、ちゃんと“歩いている”。
父の膝の揺れが、少しずつ小さくなる。 小さくなるのは、諦めじゃない。 “待てている”揺れだ。
そのとき、遠くで、長い音が一つ伸びた。
うぉー……。
汽笛なのか、工場なのか。 分からない長い音。 分からないは、胸を探ってくる。
父の目が一瞬だけ遠くへ行きかけて――戻る。 戻る前に、父の指がま札の角を撫でた。 丸い角。 丸い角は刺さらない。
ふう……。
「……遠い音だ」
父が言った。 “遠い”を付けると、胸も遠くなる。
母が、小さく頷いた。
「うん。……遠いもんは、遠いままでええだに」
遠いままでええ。 その言い方が、幹夫の胸をすとんと座らせた。
――いき。
しばらくして、戸口が小さく鳴った。
とん、とん。
夜の戸の音は、昼より胸に届く。 届くと、肩が上がりやすい。
父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
母が戸を少し開ける。 隙間から、外の声。
「解除(かいじょ)だにー。……もう灯、ええぞー」
解除。 その二文字で、夜がほどける。
父が、ふう、と長く息を吐いた。
ふう……。
「……待てたな」
“待てた”。 父が自分で自分に言う言葉。 その言葉が、幹夫の喉の奥を熱くした。
熱いと走りそうだから、息。
――いき。
母が黒い布を少しだけずらして、月の光を入れた。 月の光は白い。 白いのに、刺さらない。 白い光は、待ったあとの光だ。
遅い夜。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 灯は小さく、布で半分隠してある。 隠すのに、息は通す。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
待
幹夫は、その字を見た瞬間、暗い中の膝の揺れと、拍子木の乾いた音と、「解除」の二文字が一緒に浮かんだ。 待つのは、ただ止まることじゃない。 息を入れて、走らないでいること。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは彳(ぎょうにんべん)だに。……小さい歩き。足の字」
小さい歩き。 父の膝の揺れ。 走らないための、小さい歩き。
母は右側をなぞった。
「こっちは寺(てら)だに。……止まる場所。座る場所」
座る場所。 縁側の端。 逃げ道のある端。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「待つってのはな……小さい歩きを、寺みたいな場所で止めて、息を入れる字だに。走り出す前に、足を座らせる。……“ま”を足に入れる」
“ま”を足に入れる。 その言い方が、幹夫の胸の奥にすとん、と座った。
母は続けた。
「待つって、我慢だけじゃない。……守りだに。待てば、刺さらんで済むことがある。待てば、届かん音も薄れる。……今夜みたいに」
父が新聞紙の「待」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、待つの……嫌いだった」
母は否定しない。
「うん。……待つ間に、胸が勝手に鳴るでな。でも今日は、札を置いた。息を入れた。……待ち方が、丸かった」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「待てりゃ飯がうまい。……待てんと腹が荒れる。荒れりゃ夜が長い」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……夜、短くなった気がする」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 待を書く。
一回目の「待」は、彳が急いで、字が走りそうな顔になった。 走りそうだと、待てない。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「急いだらな……彳を小さく書け。小さい歩きだに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「待」は、足が落ち着いて、寺が座った。 座ると、待てる字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「待」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……足が止まるな」
母が小さく頷いた。
「うん。……止まれりゃ、待てる。待てりゃ、守れる」
母は「待」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、夜の闇の中で座っていた“ま”みたいに見えた。
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
けいかいひ おとしたさけん かったひざ うごいた けどま した息 したかいじょ きた待こわい けどま を いれる とまてたみきぼうまたすかったいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……待つの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、待てたら、夜が短い」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……短くするのは……俺だな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「そうだに。……待つのは、誰かにさせられるんじゃない。自分で“ま”を入れることだに」
祖母が淡々と言う。
「ま、入れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 待てる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
まつ ってちいさい あし ととまる ばしょ の じ なんだねきょうよるまってかいじょ きたとうちゃんま して息 してまてたぼくうれしかったいき
最後に、小さく「待」。 丸をひとつ。 夜の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは拍子木の乾いた音の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
待 はちいさい あし を とめてま を いれて夜 を みじかく するうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうならん の が こわかったでもま できた息 できた待 って じすこしおれ の あしとまったありがとう
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――黒い布の小さな切れ端。 角が丸く縫ってあって刺さらない。 布の端に、父の震える字で白く、
待
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。 白い丸は、夜の月みたいだった。
幹夫はその黒い布を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
待つ。 鳴らない音のあいだを、息で渡る。 小さい歩きを止めて、心を座らせる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど昨夜、届かない音の中で父が作った「待つ」は届いた。 届いた“夜を短くする布”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない待ち方を、そっと家の中に置いていった。





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