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息の字

 朝の縁側は、まだ冷たかった。 板の上に手を置くと、木の冷たさが指の腹からじわっと上がってくる。 冷たいのに、嫌じゃない。冷たいほうが、今ここがはっきりする。

 父は縁側に座って、葦笛を膝の上で転がしていた。 軽いのに、落としたくない軽さ。 転がすたび、節が指先に引っかかって、すぐ離れる。 離れると、また戻ってくる。 その繰り返しが、呼吸みたいだった。

 父の肩が、ふっと上がって、ふっと落ちた。 息。 昨夜の息より、今朝の息は少し長い。 長いのに、急がない。

 幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、胸の中の走りを少し遅くしてくれる。

 父が、海のほうを見たままぽつりと言った。

「……息、長くなった気がする」

 その言い方が、報告みたいで、幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。

 幹夫は返事をしようとして、言葉が喉で止まった。 止まったから、口の中で言った。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、止まった言葉が刺さらずに済む。

「……うん」

 やっと出た「うん」は小さい。 小さいのに、父はそれを聞いて、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

 父は葦笛を唇に当てて、小さく吹いた。

 ひゅ。

 昨日より少しだけ、音が丸かった。 丸い音は、刺さらない。 刺さらない音が家の朝に混ざると、畳の匂いまで少しやわらかくなる。

 父が照れたみたいに言った。

「……息だけなら、出せるだら」

 息だけ。 その「だけ」が、幹夫には救いだった。 だけ、は少し、に似ている。無理をしない形だ。

 朝飯のちゃぶ台で、祖母が淡々と言った。

「息が出るなら、飯が食える。飯が食えりゃ、息が続く。簡単だに」

 簡単だに、と言い切る祖母の言葉は、時々乱暴なのに、家を家に戻す。 戻す言葉があると、胸の中の警報は尖らない。

 父は椀を持って、静かに味噌汁を飲んだ。 湯気が鼻先で丸くほどける。 ほどける湯気を見ていると、息もほどける気がする。

「……うめぇ」

 掠れの少ない声。 幹夫は、その声の端っこを胸にしまった。 縫い箱の下へ紙を差し込むみたいに。飛ばないように。

 母は茶を足して、少し間を置いてから言った。

「……息、苦しくないか」

 父は首を横に振った。

「苦しくはねぇ。……でも、長くすると、怖ぇ」

 長くすると、怖い。 息を長くすると、何かが胸の奥から浮いてきそうになる――そんな怖さ。 幹夫の胸がきゅっと鳴った。

 だから、息。

 ――いき。

 母はすぐに言葉で包まなかった。 包まないで、父の茶碗の縁に指を添えるみたいに、低く言った。

「うん。……短くてもええ。切らさなきゃええ」

 切らさなきゃええ。 その言い方は、結び目みたいだった。 固くしすぎない。 でも、ほどけすぎない。

 父は小さく頷いた。 頷きの角が、昨日より丸い。

 昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫」

 母の声は低い。倒れない低さ。

「今日は、これだに」

 母はゆっくり書いた。

 息

 幹夫は、その字を見た瞬間、胸の奥がすこし熱くなった。 ずっと口の中で言ってきた「いき」が、やっと形になる。 形になると、落ちにくい。 落ちにくいと、怖さが少しだけ丸くなる。

 母は指で上をなぞった。

「これ、“自”だに」

 自。 自分の自。 母は鼻のあたりを軽く指さした。

「昔はな、鼻の形から来たとも言うだに。自分の息は、自分の鼻から出る」

 次に下をなぞった。

「こっちは心。……胸の中のやつ」

 心。 胸の中のやつ。 その言い方が、幹夫には妙にぴったりだった。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「息ってのはな……でできとる」

 自と心。 鼻と胸。 息は、その間を行ったり来たりする。

 父が新聞紙の「息」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、心が先に走る」

 走る。 胸だけ走ると足が転ぶ――祖母の言葉が胸で鳴る。 父の言う「心が走る」は、夜の網と同じ匂いがした。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……走ってもええ」

 走ってもいい。 許の字の、ゆるめる許し。

 母は続けた。

「でも、走ったら……自を戻す。鼻に戻す。いきだに」

 鼻に戻す。 その言葉は、幹夫がずっとやってきたことだった。 石を握って、口の中で「いき」。 胸が走っても、鼻へ戻す。

 父はしばらく「息」を見ていて、それから小さく言った。

「……みき坊、よく“いき”って言うだら」

 幹夫は恥ずかしくなって、でも目を逸らさなかった。 逸らさなかったのは、逃げたくなかったからだ。

「……言う」

 父は、ふっと息を吐いた。 その息は、少しあたたかかった。

「……あれ、助かる」

 助かる。 その一言で、幹夫の喉の奥が熱くなった。熱いのに、息ができる熱さだった。

 母は「息」の字の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、手が震えても戻ってこられる気がする。

 自を書く。 心を書く。 一回目の「息」は、心が大きくなりすぎた。 大きい心は、走りそうな顔をする。 走りそうになったから、幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 二回目の「息」は、少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が座る。 座る字は、「居」に似ている。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父は鉛筆を握った。 ぎこちない握り方。 ぎこちないのに、落とさない。

 父の「自」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 父の「心」は、最後のはねが少し尖った。 尖るのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「戻そう」とする手があるからだ。

 父は書き終えると、ふっと息を吐いた。

「……息、って字……俺のことみてぇだな」

 自と心。 鼻と胸。 父は、自分の胸のあたりに手を当てて、そして鼻の下を軽く指で擦った。

「ここ(心)が走る。ここ(自)に戻す。……それが、息」

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だった。

 母は「息」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、息の往復みたいに見えた。

 夕方、風が強くなって、障子がかすかに鳴った。 風は紙を飛ばす風だ。 飛ばされそうなときほど、結び目がいる。

 父は縁側で、葦笛を幹夫に渡した。

「息、短くなったら……これ吹け」

 命令じゃない。 道具の渡し方だった。 息の手すりを渡す渡し方。

 幹夫は受け取って、掌の軽さを確かめた。 軽いのに、落としたくない軽さ。

 その夜、灯りが落ちたあと、父の息が一度だけ早くなった。 布団が擦れて、父の肩が上がる気配。

 幹夫の胸の中の警報がきゅっと鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 次の瞬間、母の低い声。

「ここだに。……鼻、戻す」

 少し間があって、父が小さく答えた。

「……自と心」

 覚えている。 言える。 言えると、痛さは少し丸くなる。

 父の息が、ふっと落ちていく。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。

 幹夫は布団の中で、葦笛を握った。 冷たい石じゃなく、軽い木。 軽いのに、手すりになる軽さ。

 ――いき。

 それだけで、暗さは暗さのままでいられた。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > いき は> じぶん と こころ の あいだ> はしっても> もどれば だいじょうぶ> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう> きのう よる> いき を おもいだした> すこし> もどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――父の書いた「息」がひとつ、ちいさな紙片に書かれていた。 自が少し揺れて、心が少し尖っている。 尖っているのに、刺さらない。 その尖りは、「戻ろう」としている尖りだった。

 幹夫は紙片を胸に当てて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「もどれた」という父の字は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――自と心のあいだに、今日も静かな道を一本、そっと敷いていった。

 
 
 

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