息の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 7分

朝の縁側は、まだ冷たかった。 板の上に手を置くと、木の冷たさが指の腹からじわっと上がってくる。 冷たいのに、嫌じゃない。冷たいほうが、今ここがはっきりする。
父は縁側に座って、葦笛を膝の上で転がしていた。 軽いのに、落としたくない軽さ。 転がすたび、節が指先に引っかかって、すぐ離れる。 離れると、また戻ってくる。 その繰り返しが、呼吸みたいだった。
父の肩が、ふっと上がって、ふっと落ちた。 息。 昨夜の息より、今朝の息は少し長い。 長いのに、急がない。
幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、胸の中の走りを少し遅くしてくれる。
父が、海のほうを見たままぽつりと言った。
「……息、長くなった気がする」
その言い方が、報告みたいで、幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
幹夫は返事をしようとして、言葉が喉で止まった。 止まったから、口の中で言った。
――いき。
息をひとつ入れると、止まった言葉が刺さらずに済む。
「……うん」
やっと出た「うん」は小さい。 小さいのに、父はそれを聞いて、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。
父は葦笛を唇に当てて、小さく吹いた。
ひゅ。
昨日より少しだけ、音が丸かった。 丸い音は、刺さらない。 刺さらない音が家の朝に混ざると、畳の匂いまで少しやわらかくなる。
父が照れたみたいに言った。
「……息だけなら、出せるだら」
息だけ。 その「だけ」が、幹夫には救いだった。 だけ、は少し、に似ている。無理をしない形だ。
朝飯のちゃぶ台で、祖母が淡々と言った。
「息が出るなら、飯が食える。飯が食えりゃ、息が続く。簡単だに」
簡単だに、と言い切る祖母の言葉は、時々乱暴なのに、家を家に戻す。 戻す言葉があると、胸の中の警報は尖らない。
父は椀を持って、静かに味噌汁を飲んだ。 湯気が鼻先で丸くほどける。 ほどける湯気を見ていると、息もほどける気がする。
「……うめぇ」
掠れの少ない声。 幹夫は、その声の端っこを胸にしまった。 縫い箱の下へ紙を差し込むみたいに。飛ばないように。
母は茶を足して、少し間を置いてから言った。
「……息、苦しくないか」
父は首を横に振った。
「苦しくはねぇ。……でも、長くすると、怖ぇ」
長くすると、怖い。 息を長くすると、何かが胸の奥から浮いてきそうになる――そんな怖さ。 幹夫の胸がきゅっと鳴った。
だから、息。
――いき。
母はすぐに言葉で包まなかった。 包まないで、父の茶碗の縁に指を添えるみたいに、低く言った。
「うん。……短くてもええ。切らさなきゃええ」
切らさなきゃええ。 その言い方は、結び目みたいだった。 固くしすぎない。 でも、ほどけすぎない。
父は小さく頷いた。 頷きの角が、昨日より丸い。
昼前、母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫」
母の声は低い。倒れない低さ。
「今日は、これだに」
母はゆっくり書いた。
息
幹夫は、その字を見た瞬間、胸の奥がすこし熱くなった。 ずっと口の中で言ってきた「いき」が、やっと形になる。 形になると、落ちにくい。 落ちにくいと、怖さが少しだけ丸くなる。
母は指で上をなぞった。
「これ、“自”だに」
自。 自分の自。 母は鼻のあたりを軽く指さした。
「昔はな、鼻の形から来たとも言うだに。自分の息は、自分の鼻から出る」
次に下をなぞった。
「こっちは心。……胸の中のやつ」
心。 胸の中のやつ。 その言い方が、幹夫には妙にぴったりだった。
母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。
「息ってのはな……自と心でできとる」
自と心。 鼻と胸。 息は、その間を行ったり来たりする。
父が新聞紙の「息」を見て、ぽつりと言った。
「……俺、心が先に走る」
走る。 胸だけ走ると足が転ぶ――祖母の言葉が胸で鳴る。 父の言う「心が走る」は、夜の網と同じ匂いがした。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……走ってもええ」
走ってもいい。 許の字の、ゆるめる許し。
母は続けた。
「でも、走ったら……自を戻す。鼻に戻す。いきだに」
鼻に戻す。 その言葉は、幹夫がずっとやってきたことだった。 石を握って、口の中で「いき」。 胸が走っても、鼻へ戻す。
父はしばらく「息」を見ていて、それから小さく言った。
「……みき坊、よく“いき”って言うだら」
幹夫は恥ずかしくなって、でも目を逸らさなかった。 逸らさなかったのは、逃げたくなかったからだ。
「……言う」
父は、ふっと息を吐いた。 その息は、少しあたたかかった。
「……あれ、助かる」
助かる。 その一言で、幹夫の喉の奥が熱くなった。熱いのに、息ができる熱さだった。
母は「息」の字の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、手が震えても戻ってこられる気がする。
自を書く。 心を書く。 一回目の「息」は、心が大きくなりすぎた。 大きい心は、走りそうな顔をする。 走りそうになったから、幹夫は息をひとつ入れた。
――いき。
二回目の「息」は、少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が座る。 座る字は、「居」に似ている。
父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父は鉛筆を握った。 ぎこちない握り方。 ぎこちないのに、落とさない。
父の「自」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 父の「心」は、最後のはねが少し尖った。 尖るのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「戻そう」とする手があるからだ。
父は書き終えると、ふっと息を吐いた。
「……息、って字……俺のことみてぇだな」
自と心。 鼻と胸。 父は、自分の胸のあたりに手を当てて、そして鼻の下を軽く指で擦った。
「ここ(心)が走る。ここ(自)に戻す。……それが、息」
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だった。
母は「息」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、息の往復みたいに見えた。
夕方、風が強くなって、障子がかすかに鳴った。 風は紙を飛ばす風だ。 飛ばされそうなときほど、結び目がいる。
父は縁側で、葦笛を幹夫に渡した。
「息、短くなったら……これ吹け」
命令じゃない。 道具の渡し方だった。 息の手すりを渡す渡し方。
幹夫は受け取って、掌の軽さを確かめた。 軽いのに、落としたくない軽さ。
その夜、灯りが落ちたあと、父の息が一度だけ早くなった。 布団が擦れて、父の肩が上がる気配。
幹夫の胸の中の警報がきゅっと鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
次の瞬間、母の低い声。
「ここだに。……鼻、戻す」
少し間があって、父が小さく答えた。
「……自と心」
覚えている。 言える。 言えると、痛さは少し丸くなる。
父の息が、ふっと落ちていく。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。
幹夫は布団の中で、葦笛を握った。 冷たい石じゃなく、軽い木。 軽いのに、手すりになる軽さ。
――いき。
それだけで、暗さは暗さのままでいられた。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> いき は> じぶん と こころ の あいだ> はしっても> もどれば だいじょうぶ> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう> きのう よる> いき を おもいだした> すこし> もどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――父の書いた「息」がひとつ、ちいさな紙片に書かれていた。 自が少し揺れて、心が少し尖っている。 尖っているのに、刺さらない。 その尖りは、「戻ろう」としている尖りだった。
幹夫は紙片を胸に当てて、息をひとつ入れた。
――いき。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「もどれた」という父の字は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――自と心のあいだに、今日も静かな道を一本、そっと敷いていった。





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