息の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 8分

朝の蒲原は、海の匂いがいちばん先に家へ入ってくる。 戸の隙間から、畳の目をなぞって、縁側の板の上でいちど止まる。 止まって、少し。 それからまた、ゆっくり動く。
幹夫は目を覚ますと、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。 重いのに痛くない。
――いき。
息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に戻る。
縁側のほうで、板がきしむ音がした。 父の足音。 急がない足音。 それでも、朝の家は静かだから、きしみが少し大きく聞こえる。
幹夫がそっと覗くと、父は縁側に座っていた。 背中がいつもより少し丸い。 肩が、ふっと上がって、落ちる。 上がって、落ちる。 それが、波みたいに繰り返されている。
父は海のほうを見ていない。 畳の端を見ている。 見ているのに、遠くへ行かない目だった。
「……父ちゃん」
呼ぶと、父の肩がいちどだけ止まった。 止まって、少し。 止まった「間」に、幹夫は自分の息を入れた。
――いき。
父がぽつりと言った。
「……息が……浅い」
浅い。 浅いと、胸の中の水がすぐ干上がりそうで、幹夫はきゅっとなった。 きゅっとなったから、息。
――いき。
幹夫は縁側へ出て、父の横に座った。 近づきすぎない距離。 でも、遠すぎない距離。
「……父ちゃん。……いき」
口に出す「いき」は、小さいのに手すりになる。
父はすぐ頷かなかった。 でも、怒らなかった。 父は、自分の胸に手を当てて、ゆっくり言った。
「……いき……か」
幹夫は、首の袋を少し持ち上げた。 鳴らない石が胸に当たって、冷たい。 冷たいと、今ここがはっきりする。
「……ここ、押さえると……戻る」
幹夫が言うと、父はそれを見て、目を細めた。 細めると、光が丸くなる。 丸い光は刺さらない。
「……戻る、か」
父は息を、ひとつだけ、長く吐いた。 吐く息は、目に見えないのに、空気の角を丸くする。
しばらく、二人で黙った。 黙っているのに、黙りが怖くない。 怖くないのは、息を数えているからだ。
――いき。 ――いき。
父の肩が、少しずつ、上がり方を小さくした。 小さくなると、胸の奥の水が戻ってくる気がした。
そこへ、母の声が台所から落ちた。 急がせない、倒れない声。
「朝だに。……飯、冷める」
祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜた。
「冷めたら温めりゃええ。息も同じだに」
同じだに。 祖母の言葉は乱暴なのに、道の太いところを踏ませる。
父が小さく言った。
「……飯の前に……息、だな」
その言い方が、少し照れくさいのに、嬉しかった。 父が自分で「息」を言えたから。
幹夫は、喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
朝飯のあと、母が縫い箱の横から、紙を一枚引っぱり出した。 いつもの新聞紙じゃない。 少し硬い紙。 折り目がついている。
「これ、作るだに」
母が言って、紙を三角に折り、また折って、切れ込みを入れた。 指が早いのに、乱暴じゃない。 生活の早さ。
折った紙を広げると、羽みたいな形が出てきた。 母は小さな竹串を一本、真ん中に通して、指でくるりと回した。
くる。
音はほとんどしない。 しないのに、動く。
「風車だに。……息で回る」
息で回る。 幹夫は胸の真ん中が、すとんと座るのを感じた。 息は見えないのに、回るなら見える。
父が風車を見て、ぽつりと言った。
「……回るのは……音、出るか」
母はすぐ「出る」とも「出ない」とも言わず、風車を指でそっと回して見せた。 紙がすれる、かすかな音。 布の「ぱたん」よりも小さい音。
「大きい音は出ん。……怖かったら、止めりゃええ」
止めりゃええ。 許の字の匂いがした。
母は幹夫に風車を渡して、低く言った。
「まず、みき。やってみ」
幹夫は風車を口元に近づけた。 吹く前に、息。
――いき。
ふう。
羽が、くる、くる、と回った。 回るのに、叫ばない。 叫ばない回り方。 回るのに、怖くない。
父がその回り方を見て、目を細めた。 細めると、光が丸くなる。
「……息、見えるな」
見える。 見えると、怖さは少し丸くなることがある。 正体が分かるから。
幹夫は風車を父へそっと差し出した。 差し出し方は、置くみたいに。
「……父ちゃんも」
父は一瞬、手を止めた。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れる。
――いき。
父は風車を受け取った。 受け取り方が、投げない。 落とさない。 置くみたいに受け取る。
父は口元へ近づけて――いちど、止まった。 止まって、喉がごくりと動く。
幹夫の胸がきゅっとした。 きゅっとしたから、息。
――いき。
父が、短く言った。
「……吐く、だけだな」
吐く、だけ。 “だけ”は、少しの匂い。
父は息を、細く、長く吐いた。
ふう……。
風車が、ゆっくり回った。 ゆっくり回る。 ゆっくりは、落とさない速さだ。
父の肩が、ふっと落ちた。 落ちると、息が入る。
「……回った」
回った。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、守りが増えた鳴り方だ。
父は風車をもう一度吹いて、また回した。 回るたび、父の眉の間が少しずつほどける。 ほどけると、家の空気が柔らかくなる。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「息はな、出せば入る。……溜めると苦しい。出せ」
出せ。 乱暴なのに、優しい命令だった。
昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆が、今日も“痛くない継ぎ目”で待っている。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
息
幹夫は、その字を見た瞬間、口元で回った風車を思い出した。 見えない息が、見える形になったこと。 父の肩が落ちたこと。
母は上の字を指でなぞった。
「こっちは自(じ)だに。……自分、の自」
自分。 記の字の己と、匂いが似ている。 自分がここにいる、の匂い。
母は少し笑いそうになって、笑わないまま続けた。
「それと、昔の言い方じゃ、鼻だに。……鼻で息するだら」
鼻。 父が朝、胸に手を当てていたのを思い出して、幹夫は自分の鼻に触った。 冷たい。 冷たいと、今ここが分かる。
母は下をなぞった。
「こっちは心だに。胸の中」
心。 憶の心。 来るものが座る場所。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「息ってのはな……自分と心のあいだを、行ったり来たりするものだに」
行って、戻る。 縫い目みたいに。 針が行って、糸が戻る。 線がたわんで続く。 綴じた糸がきつくなく束ねる。 全部が、息の中に入っていく気がした。
父が新聞紙の「息」を見て、ぽつりと言った。
「……自と心……」
父は自分の胸を指で一度だけ押さえて、それから鼻の下を擦った。
「……俺、心ばっかり見てた。……鼻、忘れてたな」
忘れてた。 言えると、戻る道ができる。
母は否定しなかった。 低く言った。
「うん。……鼻は戻し口だに。ここから戻る。……だから“いき”って言うと戻れる」
幹夫は、胸の奥がすとん、と座った。 「――いき。」が、ただの合図じゃなく、字になった。
幹夫は鉛筆を握った。 自を書く。 心を書く。
一回目の「息」は、心が小さくなって、字が冷たい顔になった。 冷たいと、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「心が小さいときはな……少し太らせりゃええ。胸も一緒に呼ぶだに」
胸も一緒に。 父の胸に手が当たった朝。 風車が回った昼。 そこに胸がいた。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「息」は、心が少し座って、字が“戻れる顔”になった。 戻れる顔は刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「息」は、自の縦が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 心の最後の点を置くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……いき、って……点だな」
点。 縫い目の点。 置く点。 父の指の赤い点。 点があると、続きができる。
母は「息」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、風車の輪みたいに見えた。
夕方、風が強くなって、戸の外で何かがころん、と転がった。 昨日なら父の肩が跳ねたかもしれない音。 でも今日は、父は風車を指で軽く回して、ぽつりと言った。
「……風だ。……息みたいな風」
息みたいな風。 それは、音に名前をつける言い方だった。 名前がつくと、刺さらない。
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
父が幹夫を見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「……みき坊。……おまえの“いき”、俺に渡したな」
渡した。 渡。 受けて、返して、綴って、記して、憶えて――いま、息になった。
幹夫は言葉が出なくて、首の袋を押さえた。 鳴らない石が、胸の真ん中で重い。 重いのに痛くない。
――いき。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、表紙の下に小さく書き足した。
> いき の ぺえじ
父の字は震えている。 震えているのに、折れていない。
父がぽつりと言った。
「……息、書けると……眠れる気がする」
眠れる気がする。 無理をしない未来の言葉。
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「息は戻り道だに。……道があれば、夜は刺さらん」
祖母が淡々と言う。
「息が戻れば飯がうまい。飯がうまけりゃ、また明日だ」
また明日。 続きの言葉。
幹夫は布の袋の上から石を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
いき はじぶん と こころ がいったり きたり する んだねきょうかざぐるま まわったとうちゃん も まわしたあさ とうちゃん いき あさい って いえたいま ここ に もどれたいき
最後に、小さく「息」。 丸をひとつ。 戻り道の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは朝の浅い肩の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
いき はじ と こころもどりぐちいったり きたりかざぐるま みたいにすこし ずついきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうあさ いき あさい って いえたかざぐるま まわったいき が みえたすこしもどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――小さな紙の風車。 羽の端が、父の手でほんの少し丸く切られている。 刺さらない端。 竹串の根元に、父の震える字で小さく、
いき
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫は風車を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
息は見えない。 でも、回せる。 戻れる。 自分と心の間を、少しずつ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、回る風車の小さな“いき”は届いた。 届いた戻り道を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の真ん中に「ここ」を、そっと増やしていった。







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