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息の字

 朝の蒲原は、海の匂いがいちばん先に家へ入ってくる。 戸の隙間から、畳の目をなぞって、縁側の板の上でいちど止まる。 止まって、少し。 それからまた、ゆっくり動く。

 幹夫は目を覚ますと、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。 重いのに痛くない。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に戻る。

 縁側のほうで、板がきしむ音がした。 父の足音。 急がない足音。 それでも、朝の家は静かだから、きしみが少し大きく聞こえる。

 幹夫がそっと覗くと、父は縁側に座っていた。 背中がいつもより少し丸い。 肩が、ふっと上がって、落ちる。 上がって、落ちる。 それが、波みたいに繰り返されている。

 父は海のほうを見ていない。 畳の端を見ている。 見ているのに、遠くへ行かない目だった。

「……父ちゃん」

 呼ぶと、父の肩がいちどだけ止まった。 止まって、少し。 止まった「間」に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父がぽつりと言った。

「……息が……浅い」

 浅い。 浅いと、胸の中の水がすぐ干上がりそうで、幹夫はきゅっとなった。 きゅっとなったから、息。

 ――いき。

 幹夫は縁側へ出て、父の横に座った。 近づきすぎない距離。 でも、遠すぎない距離。

「……父ちゃん。……いき」

 口に出す「いき」は、小さいのに手すりになる。

 父はすぐ頷かなかった。 でも、怒らなかった。 父は、自分の胸に手を当てて、ゆっくり言った。

「……いき……か」

 幹夫は、首の袋を少し持ち上げた。 鳴らない石が胸に当たって、冷たい。 冷たいと、今ここがはっきりする。

「……ここ、押さえると……戻る」

 幹夫が言うと、父はそれを見て、目を細めた。 細めると、光が丸くなる。 丸い光は刺さらない。

「……戻る、か」

 父は息を、ひとつだけ、長く吐いた。 吐く息は、目に見えないのに、空気の角を丸くする。

 しばらく、二人で黙った。 黙っているのに、黙りが怖くない。 怖くないのは、息を数えているからだ。

 ――いき。 ――いき。

 父の肩が、少しずつ、上がり方を小さくした。 小さくなると、胸の奥の水が戻ってくる気がした。

 そこへ、母の声が台所から落ちた。 急がせない、倒れない声。

「朝だに。……飯、冷める」

 祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜた。

「冷めたら温めりゃええ。息も同じだに」

 同じだに。 祖母の言葉は乱暴なのに、道の太いところを踏ませる。

 父が小さく言った。

「……飯の前に……息、だな」

 その言い方が、少し照れくさいのに、嬉しかった。 父が自分で「息」を言えたから。

 幹夫は、喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 朝飯のあと、母が縫い箱の横から、紙を一枚引っぱり出した。 いつもの新聞紙じゃない。 少し硬い紙。 折り目がついている。

「これ、作るだに」

 母が言って、紙を三角に折り、また折って、切れ込みを入れた。 指が早いのに、乱暴じゃない。 生活の早さ。

 折った紙を広げると、羽みたいな形が出てきた。 母は小さな竹串を一本、真ん中に通して、指でくるりと回した。

 くる。

 音はほとんどしない。 しないのに、動く。

「風車だに。……息で回る」

 息で回る。 幹夫は胸の真ん中が、すとんと座るのを感じた。 息は見えないのに、回るなら見える。

 父が風車を見て、ぽつりと言った。

「……回るのは……音、出るか」

 母はすぐ「出る」とも「出ない」とも言わず、風車を指でそっと回して見せた。 紙がすれる、かすかな音。 布の「ぱたん」よりも小さい音。

「大きい音は出ん。……怖かったら、止めりゃええ」

 止めりゃええ。 許の字の匂いがした。

 母は幹夫に風車を渡して、低く言った。

「まず、みき。やってみ」

 幹夫は風車を口元に近づけた。 吹く前に、息。

 ――いき。

 ふう。

 羽が、くる、くる、と回った。 回るのに、叫ばない。 叫ばない回り方。 回るのに、怖くない。

 父がその回り方を見て、目を細めた。 細めると、光が丸くなる。

「……息、見えるな」

 見える。 見えると、怖さは少し丸くなることがある。 正体が分かるから。

 幹夫は風車を父へそっと差し出した。 差し出し方は、置くみたいに。

「……父ちゃんも」

 父は一瞬、手を止めた。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れる。

 ――いき。

 父は風車を受け取った。 受け取り方が、投げない。 落とさない。 置くみたいに受け取る。

 父は口元へ近づけて――いちど、止まった。 止まって、喉がごくりと動く。

 幹夫の胸がきゅっとした。 きゅっとしたから、息。

 ――いき。

 父が、短く言った。

「……吐く、だけだな」

 吐く、だけ。 “だけ”は、少しの匂い。

 父は息を、細く、長く吐いた。

 ふう……。

 風車が、ゆっくり回った。 ゆっくり回る。 ゆっくりは、落とさない速さだ。

 父の肩が、ふっと落ちた。 落ちると、息が入る。

「……回った」

 回った。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、守りが増えた鳴り方だ。

 父は風車をもう一度吹いて、また回した。 回るたび、父の眉の間が少しずつほどける。 ほどけると、家の空気が柔らかくなる。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「息はな、出せば入る。……溜めると苦しい。出せ」

 出せ。 乱暴なのに、優しい命令だった。

 昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆が、今日も“痛くない継ぎ目”で待っている。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 息

 幹夫は、その字を見た瞬間、口元で回った風車を思い出した。 見えない息が、見える形になったこと。 父の肩が落ちたこと。

 母は上の字を指でなぞった。

「こっちは自(じ)だに。……自分、の自」

 自分。 記の字の己と、匂いが似ている。 自分がここにいる、の匂い。

 母は少し笑いそうになって、笑わないまま続けた。

「それと、昔の言い方じゃ、鼻だに。……鼻で息するだら」

 鼻。 父が朝、胸に手を当てていたのを思い出して、幹夫は自分の鼻に触った。 冷たい。 冷たいと、今ここが分かる。

 母は下をなぞった。

「こっちは心だに。胸の中」

 心。 憶の心。 来るものが座る場所。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「息ってのはな……自分と心のあいだを、行ったり来たりするものだに」

 行って、戻る。 縫い目みたいに。 針が行って、糸が戻る。 線がたわんで続く。 綴じた糸がきつくなく束ねる。 全部が、息の中に入っていく気がした。

 父が新聞紙の「息」を見て、ぽつりと言った。

「……自と心……」

 父は自分の胸を指で一度だけ押さえて、それから鼻の下を擦った。

「……俺、心ばっかり見てた。……鼻、忘れてたな」

 忘れてた。 言えると、戻る道ができる。

 母は否定しなかった。 低く言った。

「うん。……鼻は戻し口だに。ここから戻る。……だから“いき”って言うと戻れる」

 幹夫は、胸の奥がすとん、と座った。 「――いき。」が、ただの合図じゃなく、字になった。

 幹夫は鉛筆を握った。 自を書く。 心を書く。

 一回目の「息」は、心が小さくなって、字が冷たい顔になった。 冷たいと、胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「心が小さいときはな……少し太らせりゃええ。胸も一緒に呼ぶだに」

 胸も一緒に。 父の胸に手が当たった朝。 風車が回った昼。 そこに胸がいた。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「息」は、心が少し座って、字が“戻れる顔”になった。 戻れる顔は刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「息」は、自の縦が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 心の最後の点を置くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

「……いき、って……点だな」

 点。 縫い目の点。 置く点。 父の指の赤い点。 点があると、続きができる。

 母は「息」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、風車の輪みたいに見えた。

 夕方、風が強くなって、戸の外で何かがころん、と転がった。 昨日なら父の肩が跳ねたかもしれない音。 でも今日は、父は風車を指で軽く回して、ぽつりと言った。

「……風だ。……息みたいな風」

 息みたいな風。 それは、音に名前をつける言い方だった。 名前がつくと、刺さらない。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 父が幹夫を見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……みき坊。……おまえの“いき”、俺に渡したな」

 渡した。 渡。 受けて、返して、綴って、記して、憶えて――いま、息になった。

 幹夫は言葉が出なくて、首の袋を押さえた。 鳴らない石が、胸の真ん中で重い。 重いのに痛くない。

 ――いき。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、表紙の下に小さく書き足した。

 > いき の ぺえじ

 父の字は震えている。 震えているのに、折れていない。

 父がぽつりと言った。

「……息、書けると……眠れる気がする」

 眠れる気がする。 無理をしない未来の言葉。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「息は戻り道だに。……道があれば、夜は刺さらん」

 祖母が淡々と言う。

「息が戻れば飯がうまい。飯がうまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 続きの言葉。

 幹夫は布の袋の上から石を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

いき はじぶん と こころ がいったり きたり する んだねきょうかざぐるま まわったとうちゃん も まわしたあさ とうちゃん いき あさい って いえたいま ここ に もどれたいき

 最後に、小さく「息」。 丸をひとつ。 戻り道の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは朝の浅い肩の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

いき はじ と こころもどりぐちいったり きたりかざぐるま みたいにすこし ずついきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうあさ いき あさい って いえたかざぐるま まわったいき が みえたすこしもどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな紙の風車。 羽の端が、父の手でほんの少し丸く切られている。 刺さらない端。 竹串の根元に、父の震える字で小さく、

いき

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫は風車を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 息は見えない。 でも、回せる。 戻れる。 自分と心の間を、少しずつ。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、回る風車の小さな“いき”は届いた。 届いた戻り道を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の真ん中に「ここ」を、そっと増やしていった。

 
 
 

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