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息の字

 朝の潮は、昨日より少しだけ冷たかった。 冷たいのに、匂いはやさしい。 やさしい匂いは、胸の奥の角を丸くする。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、待つのが“こわい”じゃなく、“まだ”になる。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 縁側に出ると、父がもう座っていた。 膝の上に、小さな木の札。 片面に「ま」。もう片面に「いき」。

 父は札の角を指で撫でて、ぽつりと言った。

「……今日は……使うかもしれん」

 使う。 札は道具なのに、言い方は“守り”の言い方だった。

 母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。

「昼、訓練だに」

 訓練。 その二文字は、紙の上に乗ると軽いのに、口から出ると重くなる日がある。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 母は続けて、急がせない声で言った。

「隣組のやつ。桶と、布と、頭かぶるもの。……集まりのとき言ってたやつだに。清水屋の裏の広場で」

 父はすぐ返事をしなかった。 間がある。 その間は、逃げじゃなくて、入口を探す間。

 父が、ふう、と息を吐いた。

 ふう……。

「……鳴るのか」

 鳴る。 その一言で、幹夫の胸が小さく鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が頷く。

「半鐘(はんしょう)か、拍子木(ひょうしぎ)だに。……こっちにサイレンは無いでな」

 父は、ほんの少しだけ眉の間を寄せたまま、ぽつりと言った。

「……音の種類が違っても……胸は動く」

 母は否定しない。 低く言った。

「動くでええ。……動いたら、札。間。息だに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「胸が動いたら腹も動く。腹が動いたら飯だに。……まず食え」

 飯。 太い道の言葉。 幹夫の胸が、すとん、と座る。

 昼前。 母は桶の底に布を敷いた。 桶の縁にも布を巻いた。 硬いものに布があると、音が眠る。

 父はそれを見て、ぽつりと言った。

「……布は……間だな」

 間。 音と胸の間。 叩く手と叩かれるものの間。

 幹夫は、頭にかぶる手拭いを握って、首の袋を押さえた。

 ――いき。

 外へ出ると、潮と砂と、どこか鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。 海の匂いと、線路の匂いと、人の匂い。

 清水屋の裏の広場には、もう人が集まっていた。 顔がいくつも。 桶がいくつも。 声がいくつも。

 声が集まると、音も集まる。 集まると、胸が忙しくなる日がある。

 父の足が、入口で止まった。 止まって、少し。 その少しに、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は懐に手を入れて、ま札を指でつまんだ。 つまんで、確かめる。 確かめると、胸の中に受け皿ができる。

 母が低く言った。

「端、行こ。……端は逃げ道ある」

 端。 縁の場所。 父は小さく頷いた。

 端のほうへ行く途中、正夫が見つけて駆けてきた。

「みきぼー! おじさーん!」

 正夫の声は大きい。 大きいのに、刃じゃない。

 でも、父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……子どもの声だ」

 名前を置く。 置けると、声は声のままで座る。

 正夫が桶を覗き込んで言った。

「布、巻いてある! かっこいい!」

 母が小さく笑って言った。

「かっこよくねぇだに。……鳴らさんため」

 正夫は目を丸くして、すぐ頷いた。

「鳴らすと、びっくりするもんね」

 “びっくり”。 子どもの言葉のほうが、時々正直で丸い。

 消防の人が前へ出て、声を張った。

「いいかー、今日は訓練だ。鳴ったら、桶持って集合! 火ぃ出たら、水! 声出して連携!」

 声が張る。 張る声は、胸を叩きやすい。

 父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 幹夫は袋を押さえて、息。

 ――いき。

 母が父の横で、息だけを落とした。

 ふう……。

 息は声より小さい。 小さいのに、よく届く。

 消防の人が拍子木を持ち上げた。

 カン、カン、カン。

 乾いた音。 乾いた音は、胸の奥の硬いところを起こす日がある。

 父の肩が跳ねた。 跳ねて――でも、叫ばない。 叫ばないで止まれた、その瞬間。

 父の手が、懐からま札を出して、掌の上に置いた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 父が口の中で言った。

「……拍子木の音だ」

 名前を置く。 置いたら、息が戻る。

 ふう……。

 幹夫も息を入れた。

 ――いき。

 周りの人が一斉に動き出す。 桶が揺れる。 布があるから、桶はがんと鳴らない。 鳴らないと、父の肩も鳴らない。

 広場の真ん中で、誰かが焦って桶を落としかけた。

 ごとっ。

 硬い音。 父の目が一瞬、遠くへ行きかける。 行きかけて――戻す。

 父はま札を指で撫でて、息を吐いた。

 ふう……。

 母が低く言った。

「ま」

 “ま”。 その一音が、父の背中を支える棒みたいに入った。

 父は小さく頷いて、口の中で言った。

「……桶の音だ」

 名前。 名前は守り。

 正夫が、幹夫の袖を引いて小さく言った。

「みきぼー、いまのおじさん、すごい。止まった」

 止まった。 その言葉が嬉しくて、幹夫の喉の奥が熱くなる。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 幹夫は小さく返した。

「……うん。……ま、した」

 正夫は頷いて、口の形だけで言った。

「ま」

 子どもが真似る“ま”は、遊びみたいで、でもちゃんと守りだった。

 訓練が終わるころ、父の額に汗が光っていた。 汗は疲れの印。 疲れは、やった印。

 消防の人が声を落として言った。

「よし、終わり。……みんな、よく動いた。帰って飯食え」

 飯食え。 最後が飯だと、終いが丸い。

 帰り道、父がぽつりと言った。

「……疲れた」

 幹夫は返事を急がなかった。 間を置いて、息。

 ――いき。

「……疲れた、って言えたね」

 父は一瞬、笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。

 ふう……。

「……言えた。……叫ばずに済んだ」

 叫ばずに済んだ。 その一言が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。 “できた”の形が、ちゃんとここにある。

 母が低く言った。

「札、効いたな」

 父が懐のま札を指で叩きそうになって、途中で止めて撫でた。

「……効いた。……でも札だけじゃねぇな」

 幹夫が見上げると、父は少し間を置いて言った。

「……おまえの“いき”が……間に入った」

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いて、畳があたたかくなったころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 息

 幹夫は、その字を見た瞬間、胸の奥がすとん、と座った。 毎日言ってきた“いき”が、今日は“字”で来た。

 母は上の形を指でなぞった。

「ここ、“自(じ)”だに。……自分の自」

 自分。 父が最近、少しずつ言えるようになった“俺”の匂い。

 母は下をなぞった。

「こっちは“心”だに。……ここ」

 ここ。 胸の真ん中。 幹夫がいつも息を入れる場所。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「息ってのはな……自分の上に、心がある字だに。鼻で吸って、心を落ち着かす。間に入れるのは、息だに」

 間に入れるのは、息。 今日の拍子木の間。 父の肩が止まった間。 全部がそこへ戻ってくる。

 母は続けた。

「それとな、“息子”の息もこれだに。……父ちゃんの息、みきの息。ふたりの息が続くってことだに」

 父の指が、ま札の角をそっと撫でた。 撫でて、止まる。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

 父がぽつりと言った。

「……息子、って……息か」

 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「息が続きゃ飯がうまい。飯がうまけりゃ、明日も続く」

 続く。 続く、は小さいけど強い。

 幹夫は鉛筆を握った。 自を書いて、心を書く。

 一回目の「息」は、心が小さくなって、字が窮屈な顔になった。 窮屈だと、息が入りにくい。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「窮屈ならな……心を太らせりゃええ。心が座れるくらい、広くする。……息は、広さだに」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「息」は、心がちゃんと下に座った。 座ると、字が“呼吸の顔”になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「息」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 心の最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……心、って……置くと……落ち着くな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……点は、置けるだに。置けたら、息は戻る」

 母は「息」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、胸の中の小さな受け皿みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

ひょうしぎおと きたかた うごいたでもま できたいき いれたさけばず に すんだみきぼういき たすかったきょう の じ息いきいき

 “息”が一つ、漢字で置いてある。 それだけで、幹夫の胸の奥があたたかい。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……息、続けたいな」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……ぼく、父ちゃんの息、見張る」

 言ってから少し恥ずかしくなる。 でも恥ずかしいまま、ここに置く。

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……見張る、じゃねぇな。……見ててくれ」

 見ててくれ。 頼む、の丸い形。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「見てりゃええ。……息は、ひとりで抱えん。間を作って、みんなで回すだに」

 祖母が淡々と言う。

「回せりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 息が続く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

いき の かんじ はじぶん の うえ にこころ が ある って かいて息 って なる んだねきょうひょうしぎ の おと きたでもま して息 いれたとうちゃんさけばず に すんだ息いき

 最後に、小さく「息」。 丸をひとつ。 胸の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは拍子木の乾いた音の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

息 はじぶん と こころま の なか に いれるひとり で せんうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうおと きた ときま できた息 いれたさけばず に すんだ息 って じすきすこしおれ の こころおちついた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――小さな木の札。 片面に「ま」。もう片面に、今日は「息」と書いてある。 角は丸く削ってあって刺さらない。 札の端に、父の震える字で小さく、

つづける

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその札を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 息。 間に入れるもの。 自分と心をつなぐもの。 そして、続けるための小さな道具。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、拍子木の乾いた音のあいだに、父が入れた「息」は届いた。 届いた“続ける”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、家の中のすきまに、やさしく光る呼吸を、そっと座らせていった。

 
 
 

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