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慣の字


 朝の湯気は、味噌の匂いに紛れると、家の角を丸くする。 丸くなると、昨日の「おはようございます」も、ちゃんと家の中に座ってくれる気がした。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に戻る。

 縁側で父が、昨日の糸電話の糸を、指先でそっとたぐっていた。 たぐると、白い糸が少したわむ。 たわむと、切れない。 切れないと、慌てなくていい。

 父は糸の端を、結び目のところで止めた。 止めて、少し。 その「少し」に、父の息が入るのが、幹夫には分かった。

「……この糸……」

 父がぽつりと言って、目を細めた。

「……毎日、触ったら……慣れるんかな」

 慣れる。 その言葉はまだ、幹夫の胸の中で形になりきっていないのに、匂いだけが先に来た。 匂いは、怖いを薄くする匂いだった。

 幹夫は言葉を急がせず、袋を押さえて息を入れてから言った。

 ――いき。「……うん。……少しずつ」

 少しずつ。 父の口から外へ出たことがある言葉。 それを幹夫が返すと、言葉がいっしょに座る。

 そこへ、戸の外で草履が砂をこする音がした。

 ざり、ざり。

 生活の音。 でも突然だと、角が立つ音。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 戸の外から、男の声。

「おう、戻ったかい、兄さん」

 兄さん、の声。 この辺の網元の人だろう。 声が大きい。 大きい声は、良い悪いじゃなく、ただ“大きい”。

 母が台所の境目から、急がせない声で返した。

「おはようございますだに。……どうしただ」

 戸が開くと、潮と一緒に、男が入ってくる。 肩が広い。 笑い声が先に来るタイプの人。

「いやぁ、網がな。ほつれてしょんない。……兄さん、昔ぁ手ぇ早かったでしょ。ちょい見てもらえんか」

 “昔ぁ手ぇ早かった”。 その言葉は褒め言葉の形をしているのに、父の胸の中のどこかへ触れやすい。 昔、が入っているから。

 父の眉の間が、ほんの少し寄った。 寄って――止まる。 止まったまま、父は畳の目を見た。

 幹夫の胸がきゅっとなった。 きゅっとなったから、息。

 ――いき。

 母がすぐ、生活の低い声を置いた。

「網なら、音出さんように布敷いてな。……兄さん、無理せんでええ」

 無理せんでええ。 逃げ道のある言葉。 逃げ道があると、胸の中の杭が尖らない。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言った。

「慣れとらんもんを急ぐな。……急ぐと切れる。切れたら飯がまずい」

 飯がまずい、で話が暮らしに戻る。 戻ると、父の肩も少し落ちる。

 父はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。

「……見てみる」

 “やる”じゃなく、“見る”。 余地のある言い方。 それだけで幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 庭の端に、古い布が敷かれた。 布の上に網を広げると、網の匂いが立つ。 潮の匂い。 藻の匂い。 それに、少しだけ鉄の匂い。

 男が網を広げながら言った。

「ここだら。ほれ、穴ができかけとる」

 穴。 穴は怖い。 穴は落ちる。 でも穴は、塞げる。

 父はしゃがみ込んで、指先で網の目をひとつ、つまんだ。 つまむ指が、昨日より落ち着いている。 落ち着いていると、指が“ここ”にいる。

 父は網針――木でできた細い道具――を見た。 木の道具は、針より優しい。 尖って見えるのに、刺すためじゃなく、通すための尖り。

 でも、道具は道具だ。 道具の光や形は、胸の奥の古い場所を叩く日がある。

 父の喉がごくりと動いて、手がいちど止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は網針をいきなり握らなかった。 布の上へ、いちど置いた。 置いて、指でそっと押さえた。 置けると、道具は暴れない。

「……通すだけだ」

 父が口の中で、自分に言い聞かせるみたいに言った。

 母が布巾を絞りながら、低く返す。

「うん。……縫うのと同じだに。行って、戻る」

 行って、戻る。 針が行って、糸が戻る。 息が出て、入る。 家の中の道が、庭へも伸びる。

 父は糸を通して、網の目に針を入れた。 入れて、抜く。 引く。 ぎゅっとしない。 たわみを残す。

 網が、少しずつ整っていく。 整うと、胸の奥のざわざわが、少しだけ遠くへ座る。

 男が、驚いた声を出した。

「おお……兄さん、手ぇ覚えとるじゃん」

 覚えとる。 その言葉は嬉しいのに、父の眉の間をまた寄せそうだった。 寄せそうだから、幹夫は息。

 ――いき。

 父は返事を急がず、網の目から目を離さないまま、ぽつりと言った。

「……手が……先に動く」

 先に動く。 頭より先。 心より先。 それは“慣れ”の匂いだった。

 そのとき、庭の隅で、正夫が空き缶を落とした。

 がん。

 硬い音。 桶の縁の音みたいな音。

 父の肩が跳ねた。 跳ねて――でも、今日は叫ばなかった。 跳ねた瞬間、父は自分の息をひとつ吐いた。

 ふう……。

 幹夫は袋を押さえて、息を入れた。

 ――いき。

 父が、低く言った。

「……缶だ。……缶の音」

 言えた。 言えると、音は音のままでいられる。

 正夫が慌てて、缶を拾って布の上に置いた。 置く。 投げない。 落とさない。

「ご、ごめん……」

 正夫の声が小さい。 小さい声は、和の声。

 父は正夫を見すぎずに、網へ目を戻して、ぽつりと言った。

「……ええ。……次は、布の上だ」

 注意なのに、刃じゃない。 置く注意。 幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 男が、ふっと笑った。

「兄さん、今の言い方、やわらかいじゃん」

 やわらかい。 昨日の「和」。 和が、今日の庭で動いた。

 父は少し照れたみたいに、鼻の下を擦った。

「……慣れねぇと……」

 慣れねぇと。 父の口から出た“慣れ”。 それが、幹夫の胸の奥へ静かに落ちた。

 網は、昼前にはひとまず形になった。 穴は塞がり、ほつれたところは“道”みたいに糸が通っている。

 男が頭を下げた。

「助かったに。……今度、魚持ってくるで」

 父は手を止めて、ふっと息を吐いた。 息が落ちると、肩が落ちる。

「……礼は……いい。……飯があれば」

 飯があれば。 祖母の言い方に似ている。 でも父の声は、祖母より柔らかい。

 男が帰ったあと、父は布の上に網針を置いて、しばらく見ていた。 見ている目が遠くへ行かない。 今ここで、見ている目。

 父がぽつりと言った。

「……昔の手が……戻ると……怖ぇのも戻る」

 怖ぇのも戻る。 正直な言い方。 正直は痛い日もあるのに、今日は刺さらなかった。 それは、父が“戻る”を自分で言えたからだ。

 母が、網の縁を整えながら低く言った。

「戻ってもええ。……でも、戻ったら今の手つきで上書きだに」

 上書き。 祖母の言葉の匂い。 暮らしの太い道。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「慣れはな、薬みてぇに効く。……でも飲みすぎるな。少しずつだ」

 少しずつ。 またそれが来る。 幹夫は首の袋を押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 慣

 幹夫はその字を見た瞬間、庭で父が言った「慣れねぇと」を思い出した。 慣れねぇと、叫ばなくて済む。 慣れねぇと、外の声が刺さらない。 慣れねぇと、手が戻っても倒れない。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは心だに。胸の中」

 忄。 憶と同じ心。 置ける場所。

 次に右側をなぞった。

「こっちは“貫く”の“貫”だに。……つらぬく、ってこと」

 つらぬく。 まっすぐ通る。 糸の線。 糸電話の声。 今日の網の糸。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「慣れるってのはな……心に同じことが何度も通って、驚きが減ることだに」

 驚きが減る。 祖母の言ったこと。 父が止まれたこと。 全部が、字の中で座った。

 母は続けた。

「慣れってのは、鈍くなるってことじゃない。……怖いを小さくして、手を戻すってことだに」

 鈍くなる、じゃない。 怖いを小さくする。 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息。

 ――いき。

 父が新聞紙の「慣」を見て、ぽつりと言った。

「……貫く、か……」

 父は自分の胸に手を当てて、少しだけ押さえた。

「……怖ぇのも貫く。……でも、飯の匂いも貫く」

 飯の匂いも貫く。 その言い方が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。

 母は否定しなかった。 低く言った。

「うん。……だから、ええ匂いを増やす。ええ音も増やす。……慣れは、選んで作るだに」

 選んで作る。 それは、父が自分で止まって息を吐いたことに似ていた。

 幹夫は鉛筆を握った。 心を書いて、貫を書く。

 一回目の「慣」は、貫が大きくなりすぎて、字が硬い顔になった。 硬いと、心が押されて苦しい。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「貫が大きいときはな……心を太らせりゃええ。胸も一緒に通すだに」

 胸も一緒に通す。 息も一緒に。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「慣」は、心が少し座って、字が落ち着いた顔になった。 落ち着いた顔は刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「慣」は、心の縦が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 貫の最後の点を置くとき、父は一度息を止めて――止めたあと、ふっと吐いた。

「……慣れ、って……息の形だな」

 母は「うん」とだけ返した。 折り目のある「うん」。

「うん。……息も、毎日通るから、戻り道になるだに」

 母は「慣」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、網の目みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

 > あみ > ぬえた > がん が あった > でも > かん の おと って いえた > なれたい > いき

 “なれたい”。 その四文字が、幹夫の胸の奥をあたためた。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……俺、慣れるの……怖い」

 怖い。 慣れるのが怖い。 それは、戻るのが怖いと同じ匂い。

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。

 ――いき。

「……うん。……でも、父ちゃん、少しずつ、やった」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……少しずつなら……貫けるか」

 貫けるか。 問いの形の未来。 無理をしない未来。

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「慣れは、毎日の糸だに。……切れそうなら二本にする。ひとりで引っぱらん」

 祖母が淡々と言う。

「ひとりで背負うな。飯も網も、みんなでやれ」

 みんなで。 和の続きの言葉。

 幹夫は首の袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

なれる ってむね に おなじ の が なんども とおっておどろき が へる って こと なんだねきょうあみ の いととうちゃん の てかん の おととうちゃん いえたすこしずついき

 最後に、小さく「慣」。 丸をひとつ。 網の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「がん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

なれる はこころ におなじ の が なんども とおっておどろき が へるにぶく じゃないこわい を ちいさく するいきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうあみ ぬえたおと で かた うごいたでもとまれたいえたなれたいすこしもどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――網の切れ端が、小さく折って置いてある。 糸の結び目は固くない。 引けばほどける余地がある。 切れ端の端が、父の手で少し丸く整えられている。 刺さらない端。 その隅に、父の震える字で小さく、

なれ

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその網の切れ端を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 慣れは、同じ道を何度も通ること。 驚きを減らして、手を戻すこと。 ひとりじゃなくて、糸を増やして。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、網の目の小さな「なれ」は届いた。 届いた“少しずつ”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、心に通る道を、刺さらない形で、そっと太くしていった。

 
 
 

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