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憶の字

 朝、ちゃぶ台の上の貝殻は、昨日より少し乾いて白かった。 白いと、冷たい。 冷たいと、今ここがはっきりする。

 幹夫は貝殻を掌にのせて、そっと耳に当てた。 耳たぶの裏に、ひんやりした縁が触れる。

 しゅう……。

 海みたいな音。 海じゃないのに、海の音。 殻の中に、波の息が小さく閉じ込められているみたいだった。

 ――いき。

 息をひとつ入れてから、幹夫は縁側の父へ向けて言った。

「父ちゃん……これ、海が入っとる」

 父は最初、返事をしなかった。 でも目が遠くへ行かない。 今ここで、貝殻を見ている目だった。

「……海、入るか」

 父がぽつりと言って、手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

 父は貝殻を受け取ると、掌でいちど温めるみたいに包んでから、耳に当てた。 耳に当てる動きが、急がない。 急がないと、胸の角が立ちにくい。

 しゅう……。

 父の肩が、ふっと落ちた。 落ちると、息が入る。

「……ほんとだな」

 ほんと。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、家の中に増えてきた鳴り方だ。

 父は貝殻を耳から離して、指で縁を撫でた。 角がない。 角がないと、刺さらない。

「……殻ってのは……覚えてるみてぇだな」

 覚えてる。 その言葉が出た瞬間、幹夫の喉の奥が少し熱くなった。 熱いのに、嫌じゃない。 嫌じゃない熱さは、ほどける手前の熱さだ。

 ――いき。

 父がもう一度、貝殻を耳に当てた、そのとき。

 遠くから、低い音が伸びてきた。

 ぼお――。

 汽笛。 海のほうから来る、長い音。

 父の肩が、ふっと上がった。 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は首の袋を押さえ、息を入れた。

 ――いき。

 父の目が遠くへ飛びかけて、でも今日はそこで止まれた。 止まったまま、父は貝殻を見た。 貝殻の白。 掌の丸。

 父が、ぽつりと言った。

「……音が来ると……昔が来る」

 昔。 その二文字は、見えないのに重い。 重いのに、父の声は刃になっていなかった。 言葉にできたからだ。

 母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。

「うん。……来るだに。勝手に来る」

 勝手に。 勝手に来るのは怖い。 でも“勝手に来る”と名がつくと、少しだけ持てる。

 祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。

「勝手に来るもんぁ、追い払うな。……来たら座らせろ。飯だに」

 座らせろ。 追い払わない。 投げない。 置く。 この家の合言葉が、また増えた気がした。

 父は貝殻を幹夫へ返した。 返す手が、置く手だった。

「……みき坊」

 呼ばれて、幹夫の胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……うん」

 父が、少しだけ喉を鳴らした。

「……昔が来たら……ここにも置けるか」

 ここ。 畳。 縫い箱の下。 綴じた冊子。 置ける場所があると、胸が尖りにくい。

 母が短く言った。

「置けるだに。……紙は、受ける」

 父はそれを聞いて、息をひとつ吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

 昼前、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の糸が、今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 憶

 幹夫はその字を見た瞬間、さっきの父の「昔が来る」を思い出した。 来るもの。 勝手に来るもの。 でも、置けるもの。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは心だに。胸の中のほう」

 忄。 心が、縦に立っている形。 立っていると、倒れそうで、でも立っている。

 次に右側をなぞった。 ちょっと複雑で、上に“音”みたいな顔がある。

「こっちは“意(い)”だに。気持ちとか、思いとかの“い”」

 意。 母はさらに、その上の部分を指で軽く叩いた。

「ここ、音って字に似てるだら」

 音。 今日の汽笛。 昨日の拍子木。 桶のがん。 父の肩を上げる音。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「憶ってのはな……心に、音や思いが入りこんで残る字だに」

 残る。 殻の中の海の音。 胸の中の昔。 残るものは、尖ることもある。 でも残るものを、紙に置けたら、丸くできるかもしれない。

 母は続けた。

「憶は、“記憶”の憶だに。……記すのは手で置く。憶は、胸の中で置いとく」

 胸の中で置いとく。 置いとけるなら、暴れにくい。

 父が新聞紙の「憶」を見て、ぽつりと言った。

「……音が、胸に残る……」

 父の声は低い。倒れない低さ。 倒れないのに、底が少し震える。

 幹夫の胸がきゅっとした。 きゅっとしたから、息。

 ――いき。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……残ってもええ。残ったらな、名前つけて、ここへ戻す。……“船の音”って言えたみたいに」

 名前。 名の字。 返事。 謝。 許。 守。 字がまた、道の上で手をつないだ。

 父はしばらく「憶」を見ていて、それから小さく言った。

「……俺の憶は……音が多い」

 音が多い。 その言い方は、辛いのに、投げていない。 置こうとしている言い方だった。

 祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。

「音が多けりゃ、飯の音も増やせ。箸の音、味噌の音。……暮らしで上書きだに」

 上書き。 乱暴なのに、温かい。 暮らしの音は、刺さらない音が多い。

 幹夫は鉛筆を握った。 心を書く。 意を書く。

 一回目の「憶」は、右が大きくなりすぎて、字が息苦しい顔になった。 詰まると、胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「詰まったらな……心を太らせりゃええ。胸のほうを残す。……音だけじゃなくて、胸も一緒に置く」

 胸も一緒に。 それが、父の“戻る”に繋がる気がした。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「憶」は、少し落ち着いた顔になった。 落ち着くと、字が“しまえる顔”になる。 しまえる顔は、刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「憶」は、心の縦が少し歪んだ。 歪むのに、折れていない。 意の上の“音みたいなところ”で、父の眉が一瞬だけ寄って――でも止まれた。

 ――いき。

 父は息をひとつ吐いて、最後の点を置いた。 置いた点は小さい。 小さいのに、そこにいる。

 父が字を見て、ふっと息を吐いた。

「……憶って字……音が入ってるの、怖ぇけど……助かるな」

 助かる。 その言葉が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。 怖いものの形が分かると、手すりになることがある。

 母は「憶」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、貝殻の口みたいに見えた。

 夕方、幹夫は綴じた冊子を膝に置いて、浜で書いたページの隣を開いた。 白い紙の顔。 でも今日は、白い顔が怖くない。

 父が縁側で、貝殻を掌にのせて見ていた。 父の指が、殻の縁をゆっくりなぞる。 なぞると、角がないのが分かる。 角がないと、刺さらない。

 遠くでまた、汽笛が低く伸びた。

 ぼお――。

 父の肩が上がりかけて、でも、今日はそこで止まった。 止まって、少し。 止まれる肩。

 父が、ぽつりと言った。

「……いまの、憶、来た」

 来た。 来たと言えた。 それだけで、幹夫の胸がぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は続けた。

「……船の音。……胸の中、ざわざわ。……でも、ここだ」

 ここだ。 母の言葉。 家の言葉。 父の口から出ると、道が一本増える気がした。

 幹夫は冊子に、鉛筆で小さく書いた。

 > きょう > きてき > とうちゃん > いま の こと > いき

 “いき”は、線じゃなく、丸く書いた。 丸いと、刺さらない。

 父がそれを見て、ふっと息を吐いた。

「……置けたな」

 置けた。 紙に。 胸にも。

 母の低い声が、暗い中へ向かう手前の光の中で落ちた。

「憶は、来る。……でも来たら、置けるだに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。

「置けりゃ飯がうまい。うまきゃ、また明日だ」

 また明日。 明日が、続きの言葉になる。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

おく ってむね に おと が のこる こと なんだねきょうきてき が なってとうちゃん の むね が ざわ って したでもとうちゃん いま の こと って いえたぼく かみ に おいたいき

 最後に、小さく「憶」。 丸をひとつ。 殻の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは汽笛の余韻。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

おく はこころ におと や おもい が のこるのこってもええなまえ つけてここ に おくいきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうおと が きたおく も きたでもいま って いえたすこしここ に もどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――あの貝殻が、もう一つ。 小さくて、口の縁が丸い。 耳に当てると、やっぱり、しゅう……と鳴る。 殻の外側に、父の震える字で小さく、

おく

 とだけ書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫は貝殻を胸に当てて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 音は来る。 昔も来る。 でも、名前をつけて、ここへ置ける。 殻みたいに、丸くして。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、殻の中の小さな“しゅう”は届いた。 届いた“憶”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中に来るものを、刺さらない形で、そっと置いていこうとしていた。

 
 
 

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