憶の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月8日
- 読了時間: 7分

朝、ちゃぶ台の上の貝殻は、昨日より少し乾いて白かった。 白いと、冷たい。 冷たいと、今ここがはっきりする。
幹夫は貝殻を掌にのせて、そっと耳に当てた。 耳たぶの裏に、ひんやりした縁が触れる。
しゅう……。
海みたいな音。 海じゃないのに、海の音。 殻の中に、波の息が小さく閉じ込められているみたいだった。
――いき。
息をひとつ入れてから、幹夫は縁側の父へ向けて言った。
「父ちゃん……これ、海が入っとる」
父は最初、返事をしなかった。 でも目が遠くへ行かない。 今ここで、貝殻を見ている目だった。
「……海、入るか」
父がぽつりと言って、手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
父は貝殻を受け取ると、掌でいちど温めるみたいに包んでから、耳に当てた。 耳に当てる動きが、急がない。 急がないと、胸の角が立ちにくい。
しゅう……。
父の肩が、ふっと落ちた。 落ちると、息が入る。
「……ほんとだな」
ほんと。 その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、家の中に増えてきた鳴り方だ。
父は貝殻を耳から離して、指で縁を撫でた。 角がない。 角がないと、刺さらない。
「……殻ってのは……覚えてるみてぇだな」
覚えてる。 その言葉が出た瞬間、幹夫の喉の奥が少し熱くなった。 熱いのに、嫌じゃない。 嫌じゃない熱さは、ほどける手前の熱さだ。
――いき。
父がもう一度、貝殻を耳に当てた、そのとき。
遠くから、低い音が伸びてきた。
ぼお――。
汽笛。 海のほうから来る、長い音。
父の肩が、ふっと上がった。 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は首の袋を押さえ、息を入れた。
――いき。
父の目が遠くへ飛びかけて、でも今日はそこで止まれた。 止まったまま、父は貝殻を見た。 貝殻の白。 掌の丸。
父が、ぽつりと言った。
「……音が来ると……昔が来る」
昔。 その二文字は、見えないのに重い。 重いのに、父の声は刃になっていなかった。 言葉にできたからだ。
母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。
「うん。……来るだに。勝手に来る」
勝手に。 勝手に来るのは怖い。 でも“勝手に来る”と名がつくと、少しだけ持てる。
祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。
「勝手に来るもんぁ、追い払うな。……来たら座らせろ。飯だに」
座らせろ。 追い払わない。 投げない。 置く。 この家の合言葉が、また増えた気がした。
父は貝殻を幹夫へ返した。 返す手が、置く手だった。
「……みき坊」
呼ばれて、幹夫の胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
「……うん」
父が、少しだけ喉を鳴らした。
「……昔が来たら……ここにも置けるか」
ここ。 畳。 縫い箱の下。 綴じた冊子。 置ける場所があると、胸が尖りにくい。
母が短く言った。
「置けるだに。……紙は、受ける」
父はそれを聞いて、息をひとつ吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。
昼前、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の糸が、今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
憶
幹夫はその字を見た瞬間、さっきの父の「昔が来る」を思い出した。 来るもの。 勝手に来るもの。 でも、置けるもの。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは心だに。胸の中のほう」
忄。 心が、縦に立っている形。 立っていると、倒れそうで、でも立っている。
次に右側をなぞった。 ちょっと複雑で、上に“音”みたいな顔がある。
「こっちは“意(い)”だに。気持ちとか、思いとかの“い”」
意。 母はさらに、その上の部分を指で軽く叩いた。
「ここ、音って字に似てるだら」
音。 今日の汽笛。 昨日の拍子木。 桶のがん。 父の肩を上げる音。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「憶ってのはな……心に、音や思いが入りこんで残る字だに」
残る。 殻の中の海の音。 胸の中の昔。 残るものは、尖ることもある。 でも残るものを、紙に置けたら、丸くできるかもしれない。
母は続けた。
「憶は、“記憶”の憶だに。……記すのは手で置く。憶は、胸の中で置いとく」
胸の中で置いとく。 置いとけるなら、暴れにくい。
父が新聞紙の「憶」を見て、ぽつりと言った。
「……音が、胸に残る……」
父の声は低い。倒れない低さ。 倒れないのに、底が少し震える。
幹夫の胸がきゅっとした。 きゅっとしたから、息。
――いき。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……残ってもええ。残ったらな、名前つけて、ここへ戻す。……“船の音”って言えたみたいに」
名前。 名の字。 返事。 謝。 許。 守。 字がまた、道の上で手をつないだ。
父はしばらく「憶」を見ていて、それから小さく言った。
「……俺の憶は……音が多い」
音が多い。 その言い方は、辛いのに、投げていない。 置こうとしている言い方だった。
祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。
「音が多けりゃ、飯の音も増やせ。箸の音、味噌の音。……暮らしで上書きだに」
上書き。 乱暴なのに、温かい。 暮らしの音は、刺さらない音が多い。
幹夫は鉛筆を握った。 心を書く。 意を書く。
一回目の「憶」は、右が大きくなりすぎて、字が息苦しい顔になった。 詰まると、胸がきゅっとする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「詰まったらな……心を太らせりゃええ。胸のほうを残す。……音だけじゃなくて、胸も一緒に置く」
胸も一緒に。 それが、父の“戻る”に繋がる気がした。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「憶」は、少し落ち着いた顔になった。 落ち着くと、字が“しまえる顔”になる。 しまえる顔は、刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「憶」は、心の縦が少し歪んだ。 歪むのに、折れていない。 意の上の“音みたいなところ”で、父の眉が一瞬だけ寄って――でも止まれた。
――いき。
父は息をひとつ吐いて、最後の点を置いた。 置いた点は小さい。 小さいのに、そこにいる。
父が字を見て、ふっと息を吐いた。
「……憶って字……音が入ってるの、怖ぇけど……助かるな」
助かる。 その言葉が、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。 怖いものの形が分かると、手すりになることがある。
母は「憶」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、貝殻の口みたいに見えた。
夕方、幹夫は綴じた冊子を膝に置いて、浜で書いたページの隣を開いた。 白い紙の顔。 でも今日は、白い顔が怖くない。
父が縁側で、貝殻を掌にのせて見ていた。 父の指が、殻の縁をゆっくりなぞる。 なぞると、角がないのが分かる。 角がないと、刺さらない。
遠くでまた、汽笛が低く伸びた。
ぼお――。
父の肩が上がりかけて、でも、今日はそこで止まった。 止まって、少し。 止まれる肩。
父が、ぽつりと言った。
「……いまの、憶、来た」
来た。 来たと言えた。 それだけで、幹夫の胸がぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
父は続けた。
「……船の音。……胸の中、ざわざわ。……でも、ここだ」
ここだ。 母の言葉。 家の言葉。 父の口から出ると、道が一本増える気がした。
幹夫は冊子に、鉛筆で小さく書いた。
> きょう > きてき > とうちゃん > いま の こと > いき
“いき”は、線じゃなく、丸く書いた。 丸いと、刺さらない。
父がそれを見て、ふっと息を吐いた。
「……置けたな」
置けた。 紙に。 胸にも。
母の低い声が、暗い中へ向かう手前の光の中で落ちた。
「憶は、来る。……でも来たら、置けるだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜる。
「置けりゃ飯がうまい。うまきゃ、また明日だ」
また明日。 明日が、続きの言葉になる。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
おく ってむね に おと が のこる こと なんだねきょうきてき が なってとうちゃん の むね が ざわ って したでもとうちゃん いま の こと って いえたぼく かみ に おいたいき
最後に、小さく「憶」。 丸をひとつ。 殻の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは汽笛の余韻。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
おく はこころ におと や おもい が のこるのこってもええなまえ つけてここ に おくいきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうおと が きたおく も きたでもいま って いえたすこしここ に もどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――あの貝殻が、もう一つ。 小さくて、口の縁が丸い。 耳に当てると、やっぱり、しゅう……と鳴る。 殻の外側に、父の震える字で小さく、
おく
とだけ書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫は貝殻を胸に当てて、息をひとつ入れた。
――いき。
音は来る。 昔も来る。 でも、名前をつけて、ここへ置ける。 殻みたいに、丸くして。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、殻の中の小さな“しゅう”は届いた。 届いた“憶”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、胸の中に来るものを、刺さらない形で、そっと置いていこうとしていた。





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