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時の字


 雨の朝は、音が少ない。

 少ないのに、胸の中の音だけがよく聞こえる。布団の中で幹夫は目を開け、障子の向こうの白さがいつもより濁っているのを見た。濁った白は、空が泣きそうな顔をしている白だ。


 台所では祖母が火を起こしていた。薪が湿っていて、煙の匂いがいつもより重い。重い匂いは、喉に引っかかる。引っかかると、言葉が出にくくなる。


 母は縫い物をしていた。

 針が布に入って、出る。

 入って、出る。

 返し縫いの動きが、雨の日の呼吸みたいにゆっくりで、幹夫はその音に耳を預けた。


 ごぉん――。


 遠くで、鐘が鳴った。

 寺の鐘。昨日覚えた「寺」の字が、音と一緒に胸の中へ入ってきた。


 ごぉん――。


 幹夫は、思わず内ポケットの紙を指で確かめた。

 母の字の「まだ は いきてる ってこと」。

 折り目の中の「うん」。

 紙は薄いのに、そこだけが少し重い。重いと、胸の中の小さな警報が丸くなる。


「鐘、今日はよう響く」


 祖母が湯呑みを置きながら言った。

 母は針を止めずに、小さく頷いた。雨の日は音が遠くまで行く。遠くまで行く音は、戻ってくるのも遅い。遅い戻りは、待つの字みたいだと思った。


 幹夫は、ぽつりと言った。


「鐘って……サイレンみたい?」


 言ってしまってから、しまったと思った。

 サイレン、という言葉は家の中で固くなることがある。固くなると、母の眉間が固くなる気がして怖い。


 でも母は眉間を固くしなかった。

 母は針を抜き、糸を指で押さえてから、幹夫を見た。


「似てるとこもあるけど……違う」


 母はそう言って、少しだけ息を吐いた。湯気みたいな息。薄いのに、ちゃんと届く。


「サイレンは、急がせる。鐘は……知らせる」


 知らせる。

 郵便局の消印の「どん」。役場の赤い印の「どん」。

 どれも大きな声じゃないのに、残る知らせ方だ。


 祖母が言った。


「鐘はな、昔から時刻を言うで。海ぇ出るもんは、あれ聞いて動く」


 時刻。

 幹夫の胸の中で、昨日書いた「待」が少しだけ動いた。待つ、は、時の中にいる。寺の字が中にいる待つ。


 ごぉん――。


 鐘がもう一度鳴って、雨の匂いの中へ沈んでいった。

 沈んでいく音は、終わりじゃなくて、続きのために沈んでいく音に聞こえた。


 朝飯のあと、母はちゃぶ台の上に新聞紙の裏を広げた。

 真っ白じゃない白。

 真っ白じゃないのがありがたい。真っ白だと、書く前から「汚す」が先に来る。


 竹を継いだ鉛筆が、幹夫の前に置かれた。

 竹の継ぎ目は、掌に当たると少し痛い。痛いのに、その痛さが支えになる。痛い支えは、逃げないための支えだ。


「今日はな」


 母が言って、鉛筆を取った。

 母の指が竹の継ぎ目を越えるとき、幹夫の胸がちくりとした。自分の大事なものが、母の大事な用事に使われるちくり。


「“時”を書く」


 時。

 その音は、口の中で丸くなる。

 丸くなるのに、胸の奥は少し冷える。時は進む。進むものは、戻らない。


 母はゆっくり書いた。


 時。


 幹夫は目をこらした。

 左に「日」みたいな形。右に――寺。

 昨日の門で写した「寺」が、ここにもいる。寺は待つだけじゃない。時の中にもいる。


「ほれ、見て。寺、入っとるだろ」


 母が指で右側をなぞる。

 なぞると、鉛筆の黒が少しだけ指に移る。母は拭わなかった。拭わない指は、言葉を逃がさない指だ。


「日と寺で、“時”」


 日。寺。

 明の字のときも、日と月が入っていた。

 字の中に、空のものが入っていると、急に「ほんとう」みたいになる気がする。


 幹夫は、思わず聞いた。


「なんで、寺?」


 母は少しだけ困った顔をして、それから困ったまま、祖母のほうをちらりと見た。

 祖母は鍋のふたを洗いながら、「寺ぁ鐘つくでな」と言った。淡々とした声。泣く人の分まで淡々とした声。


 母はそれを受け取って、幹夫に戻ってきた。


「寺はな、鐘が鳴る。……鐘で時を知る。だから、寺が入る」


 鐘で時を知る。

 幹夫は、さっきのごぉん――を思い出した。音が、時になって家へ届く。サイレンは届かなかったのに、鐘は届く。届く音が時を作るなら、待つという字も少しだけ息がしやすい。


 母は続けた。


「待つってのは、時の中で待つってことだに」


 時の中で待つ。

 言い方が、少し怖かった。時は進む。進む時の中で待つのは、置いていかれる感じがする。

 でも母の声は、置いていく声じゃなかった。ほどけないように言葉を置く声だった。


「ほれ、やってみ」


 幹夫は鉛筆を握り直した。

 まず、日。四角。中に線。

 次に、寺。屋根、土、寸――母の指の動きを思い出しながら、線を置く。


 途中で、手が震えた。

 震えると、線がよけいに子どもになる。子どもの線は、すぐ「違う」顔をする。違う顔をすると、胸の中の警報がちくりと鳴る。


 幹夫は息を止めて、もう一度書いた。

 急がせない。

 針みたいに、入って、出る。

 入って、出る。


 二つ目の「時」が、少しだけ「時」になった気がした。

 なった気がしただけで、胸がふっと温かくなる。温かくなると、時は怖いだけじゃなくなる。


「よし」


 母が言った。

 その「よし」は、紙の上の丸みたいに、角を丸くする言葉だった。


 母は「時」の横に、小さな丸をひとつ描いた。

 消印の丸じゃない。

 受け付けの赤い印でもない。

 ただ、「ここまで」の丸。


 幹夫はその丸を見て、思った。

 時は進むけれど、ここまで、は置ける。

 置けるなら、迷子になりにくい。


 昼過ぎ、雨が少し弱くなった。

 弱くなると、海の匂いが戻ってくる。潮の匂いは、家の匂いと混ざると安心の匂いになる。安心は、痛みも一緒に連れてくるけれど。


 母は縫い箱の下をそっと確かめて、幹夫の「てら」の紙を取り出した。

 開いて、見て、畳んだ。

 畳むのが丁寧だった。丁寧に畳むのは、預かるためだ。


 母はその紙の裏に、小さく足した。

 足したのは、幹夫が今日覚えた字。


 時。


 そして、その下に、母のひらがなで書いた。


 > とき は すすむ

 > でも しるし は のこる


 最後に、小さな丸。


 幹夫はその紙を胸に当てた。

 紙が体温を吸って、少しだけしなる。

 しなる音が、返事の音に聞こえた。


「母ちゃん」


 幹夫は言いかけて、言葉が出なかった。

 ありがとう、と言いたい。

 でも言うと、紙が軽くなって飛びそうで怖い。

 軽くなるのが怖いから、幹夫は代わりに、首を小さく動かした。


 うん。


 母はそれを見て、湯呑みを置いた。

 置き方が、少しだけ柔らかかった。


 夕方、鐘は鳴らなかった。

 雨が止みかけて、空が少し明るくなったからかもしれない。

 鳴らない鐘を思うと、幹夫はふと、鳴らないサイレンを思い出した。


 鳴らないものは、届かないもの。

 届かないものは、なかったことになるわけじゃない。

 なかったことになるわけじゃないから、胸の奥が騒ぐ。


 幹夫は控え帳を開き、今日の日のところに、ひらがなで書いた。


 > てらの かね

 > とき


 その横に、今日書けた「時」をひとつ置いた。

 字がそこに座るだけで、今日が少しだけ片づく。片づくと、夜が来ても息ができる。


 夜、布団に入る前に、幹夫は内ポケットの鉛筆を確かめた。

 硬い。

 硬さは支えになる。


 支えがあるなら、時が進んでも、全部が流れていくわけじゃない。

 折り目と、丸と、綴じ糸と、母の「うん」。

 それらは、時の中で小さく残っていく。


 蒲原には、サイレンは届かなかった。

 でも、寺の鐘は届く。

 そして今日、幹夫は「時」という字の中に寺がいることを覚えた。

 待つ字の右側にいた寺が、時の右側にもいる――そのことが、幹夫の胸の奥をほんの少しだけ明るくした。

 
 
 

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