束の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月6日
- 読了時間: 5分

朝いちばん、母は控え帳の間から、床屋の親父の紙を抜いた。 紙はまだ新しくて、角が尖っている。尖っているのに、そこに書かれた言葉は、昨日の髪油の匂いを少しだけ連れていた。
左の眉の上 細い傷 みき坊 耳の後ろ 黒子(気がする)
母の指が「みき坊」のところで止まった。 止まって、すぐ動いた。 動いたのに、ほんの少しだけ、指の腹が紙を撫でた。撫でるのは、声の代わりだ。声にすると崩れるものを、指で支える。
幹夫は、上着のポケットの石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。角がないから。
母がぽつりと言った。
「……束ねる」
束ねる。 その音は、口の中でぎゅっと締まる。 締まるのに、苦しくない締まり方だった。ほどけないための締まり方だ。
母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げ、その上に紙を並べた。 控え帳。 受領証。 配達済。 報告。 写真屋の預り票。 清水で書いた「認」の紙。 そして、床屋の「証言」。
紙が増えると、白が減る。 白が減ると、胸が少し痛い。 でも白が減ると、迷子になりにくい顔になる。
母は紙の端を揃えた。 揃える指が丁寧だった。丁寧に揃えるのは、紙の角を守るためじゃない。紙の中にいる人を守るためだ。
「幹夫、これ押さえて」
母が言った。 “押さえる”の言い方が、いつもより少し強い。強いのは怒りじゃない。飛ばさないための強さ。
幹夫は両手で紙の束を押さえた。 紙のざらつきが掌に吸い付く。 吸い付くと、手が「手ぇ出す」の手になる。
母は細い紐を持ってきた。 紐は淡い色で、使い込まれて柔らかい。柔らかい紐は、強い。硬い紐より切れにくい。折り目みたいに。
母は紙の真ん中に紐を回した。 一回。 二回。 結び目ができる前に、母は息をひとつ入れた。
まず、いき。
結ぶ。
きゅっ。
紐が締まる音は小さいのに、幹夫の腹の底に届いた。 届く音は、怖いときもある。 でも今日は、その音が少し頼もしかった。散らばらない音だからだ。
母は結び目を指で押さえたまま、幹夫を見た。
「これが“束”だに」
「たば……?」
幹夫が言うと、母は新聞紙の隅に鉛筆を置いた。 竹を継いだ鉛筆。 母の指が継ぎ目を越えるとき、幹夫の胸がちくりとした。大事な硬さが、大事なことに使われるちくり。
母はゆっくり書いた。
束
幹夫は目をこらした。 木みたいな形に、ぎゅっと縛る線が入っている。 縛る線があるから、一本の木じゃなくて「まとまり」の顔になる。
「木をな、ひとつにまとめる字だに。……散らばらんように」
散らばらんように。 その言葉が胸に落ちた。 散らばるのが怖い。散らばると戻らない。戻らないものが増えると、家が家じゃなくなる。
幹夫は、思わず聞いた。
「……父ちゃんも、束になってる?」
言ってしまってから、しまったと思った。 束、という字には、束縛の影がいる。縛るのは痛いこともある。
母はすぐ答えなかった。 答えない間が、少し長い。 でも母は、その間に息を入れた。幹夫にいつも教えてくれる、刃を丸める息。
「……父ちゃんは、束じゃなくて」
母は静かに言った。
「こっちが、ほどけんように束ねとる」
ほどけんように。 父を縛るためじゃない。 自分たちが崩れないために束ねる。 その言い方が、幹夫の胸の角を少し丸くした。
幹夫は「束」を真似して書いた。 上の線が少しよろけた。 よろけると、字が子どもの顔になる。 でも、真ん中の“縛る線”が入ると、字が急に「逃がさない顔」になる。
「よし」
母が言った。 その「よし」は、紙の角を丸くする「よし」だった。
母は「束」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。
昼前、郵便局へ向かった。 風が少しあったので、母は束を腹んとこに入れて、上着を重ねた。 祖母の言い方どおりのやり方。腹は踏ん張る場所だ。
窓口で母が束を出すと、局員が目を細くして言った。
「ずいぶん、揃ってますね」
揃ってる。 畳の目みたいに。 揃うと、今日が片づく感じがする。
「書留で……速く」
母が言った。 速く、の音は少し尖りやすい。 でも母は速くの前に息を入れた。息が入ると、尖りは刃にならない。
局員が切手を貼り、朱肉をつけて――
どん。
どん、の音が、今日も残る。 残る音は、怖いだけじゃない。 「出した」を残す音だ。
受領証が渡される。 母はそれを折り、控え帳の間に挟む。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。 飛ばない顔が増えると、母の肩がほんの少し落ちた。
窓口を離れたところで、幹夫は小さく言った。
「束、行ったね」
母は一度だけ幹夫を見て、頷いた。
「うん。……行った」
行った、は「帰った」じゃない。 でも行った、は「出した」だ。 出したら、届くかもしれない。届かないかもしれない。 それでも、出さないと絶対届かない。
幹夫は上着のポケットを探り、石を指で確かめた。 石は今日、母に渡さなかった。 渡さなかったのに、石の冷たさだけが、まだ手のひらに残っている気がした。
家に戻ると、祖母が鍋をかき回しながら聞いた。
「束、出したか」
母は控え帳を少し持ち上げて見せた。
「書留。……速達も」
祖母は「ほう」と頷いて、それ以上は聞かなかった。 聞かない優しさは、家の匂いがした。
夜、母は縫い箱の脇に控え帳を戻し、束を作った紐を指で一度だけ撫でた。 撫でるのは、声の代わり。 声にすると崩れるものを、指で支える。
幹夫は小さな紙を切って、封筒の形を描いた。 宛名に「おかあちゃんへ」。 中に、今日の字を入れる。
> たばねるって > ちょっと こわいけど > とんでいかない ってことだね
最後に、小さく書く。
束
そして丸をひとつ。 結び目がほどけないように置く丸。 胸の中の「まだ」が飛ばないように置く丸。
幹夫は紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込んだ。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、言葉を出したあとの軽さ。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱の位置が畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の紙を開くと、母の字があった。
> たばねるのは > しばるためじゃない > なくさないため > うん
最後に、小さな丸。
幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。
束は、縛るだけじゃない。 散らばらないようにする形。 ほどけないように、戻って結び直す形。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、束ねた紙は歩き出した。 歩き出した束の行き先に、父がいるのかどうか――分からないままでも、幹夫は丸い石みたいに息を転がして、今日をそっと結んでいた。





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