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歩の字

2月7日
読了時間: 8分

 朝、戸口の土間に差す光が、きのうより少しだけ白かった。 白い光は、埃を見せる。埃を見せる光は、生活を生活のまま立たせる。

 父は、草履の緒を指でいじっていた。 いじって、止めて、またいじる。 結び目ほど硬くない、小さな輪を作ってはほどく手つき。

 その手を見て、幹夫は上着のポケットの石を握った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、「見ていい」をくれる。

 母は台所の境目に立って、声を急がせないまま言った。

「……どこ行く」

 問いかけなのに、詰める問いじゃない。 「行かない」も座れる声だった。

 父は草履から目を離さず、ぽつりと言った。

「……歩いてみたい」

 歩いてみたい。 その言葉は軽いのに、胸の奥で重かった。 重いのに刺さらない。 刺さらない重さは、丸い石の重さに似ていた。

 母はすぐ頷かなかった。 喉が小さく動いて、息がひとつ入ったのが幹夫には分かった。

 ――まず、いき。

「……どこまで」

 母の声は低い。倒れない低さ。 父は少し考えるみたいに、草履の緒をゆっくり引いた。

「……浜の角まで。……波、近いとこまで」

 波。 「話」の字で出た波。 「聞」の字で入った波。 父の中で、波が少しずつ“ここ”になっていく。

 母は、短く言った。

「幹夫、行くか」

 幹夫は頷きかけて、いちど止まった。 止まるのは、怖いから。 でも止まっても、逃げてはいない。

「……行く」

 声が出た。 出た声が、畳の目の上に座った。

 父は、そこでやっと顔を上げた。 目が来るまでの「間」はまだ長い。 でもその間に、幹夫は息を入れられた。

 ――いき。

「……みき坊、頼む」

 頼む。 手が繋がる言葉。 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。鳴るのに、叫ばない。

 外へ出ると、風が思ったより冷たかった。 冷たい風は、耳の中を洗う。 洗うと、遠い音が近づく。

 砂利を踏む音。 どこかの戸が閉まる音。 遠くで、汽車の気配みたいな低い唸り。

 父は最初の一歩を、いちどだけ大きく踏んだ。 大きく踏むと、土が沈む。沈むと「重さ」が分かる。

 次の一歩は、小さかった。 小さい一歩。 小さいのに、確かに前へ進む。

 父は歩きながら、息をひとつ、ゆっくり出した。 吐く息が白い。 白い息は、見える。見えると、「出ている」が分かる。 分かると、少しだけ怖さが丸くなる。

「……土、固いな」

 父がぽつりと言った。 土が固い、なんて、どうでもいい話なのに――どうでもいい話が出るのが、幹夫には嬉しかった。 どうでもいい話は、生活の匂いがするからだ。

 幹夫は、返事のかわりに頷いた。 頷くと、石がポケットの中でこつ、と鳴った気がした。 小さいのに、腹に届く音。

 道の角を曲がると、潮の匂いが濃くなる。 濡れた縄の匂い。 海藻の匂い。 乾ききらない木の匂い。

 父の肩が、ふっと上がった。 上がって、止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は、足を止めないまま、ぽつりと言った。

「……匂い、覚えとる」

 覚。 「背中だけ」と言った日の覚。 匂いだけでも戻ってくる覚。

 幹夫は小さく言った。

「……ここだに」

 母の言い方を真似したら、少し恥ずかしかった。 でも恥ずかしさは、刺さらない恥ずかしさだった。家の匂いがしたから。

 父は、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 でも今日は、その上がり方が昨日より丸い。

 浜の角が見えるころ、金属がぶつかる音がした。

 がん。

 波の音じゃない。 木でもない。 硬い音。

 父の背中が、一瞬で固くなった。 固くなると、空気が尖る。 尖ると、幹夫の胸の中の警報も尖りかける。

 だから、息。

 ――いき。

 幹夫は石を握り直した。 冷たさが、胸の熱を少し丸くする。

 父の足が止まった。 止まって、父の喉がごくりと動いた。 動いて、でも言葉にならない。

 幹夫は父の横顔を見て、勇気を出して言った。

「……がん、って音。……桶だに。たぶん」

 断言じゃない。 たぶん、の逃げ道がある言い方。 逃げ道があると、言葉は刃になりにくい。

 父はすぐ頷かなかった。 目が遠い。遠いのに、逃げない。 そして、息をひとつ、ゆっくり出した。

「……いまのは……桶か」

 言えた。 言えたことが、幹夫の胸の奥をあたためた。

 浜の角を曲がると、男が桶を重ねていた。 桶の縁が当たって、さっきの「がん」になったのだ。 男は父に気づいて、いちどだけ視線を落とし、それから小さく言った。

「……戻ったな」

 言い方が派手じゃない。 派手じゃない言い方は、痛くない。

 父は、返事までに少し間があった。 その間に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

「……ああ。……少しずつだら」

 少しずつ。 父の口から出た「少しずつ」が、波の音に混ざって、砂の上で丸くなった気がした。

 男は「おう」と頷いて、余計なことを言わなかった。 言わない優しさが、潮の匂いと一緒にあった。

 帰り道、父の歩幅はさっきより少しだけ揃っていた。 揃っているのに、急がない。 急がない揃い方は、落とさないための揃い方だ。

 父がぽつりと言った。

「……歩くって、息だな」

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方。

 幹夫は小さく言った。

「……自と心」

 息の字。 鼻と胸。

 父は、ふっと息を吐いた。

「……そう。……走りそうになったら、戻す」

 戻す。 帰。 息。 字が、道の上で手をつないだ。

 家へ戻ると、母がちゃぶ台を拭いていた。 拭き方が丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。

 母は二人の足元を見て、声を落として聞いた。

「……どうだった」

 父は草履を脱ぎながら、短く言った。

「……歩けた。……止まったけど」

 止まったけど。 止まった、を隠さない言い方。 隠さないと、胸の中で固くならない。

 母は「うん」と頷いて、間をひとつ置いてから言った。

「止まってええ」

 許し。 その許しは、すこし温かかった。

 母は新聞紙の裏を広げて、竹を継いだ鉛筆を取った。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれ」

 母がゆっくり書いた。

 歩

 幹夫は目をこらした。 どこか見覚えがある形が二つ、くっついている。

 母は指で左をなぞった。

「これ、止だに。止まる、の止」

 次に右側の下をなぞった。

「こっちは……少、が入っとる」

 少。 少し。 少しずつ。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「歩くってのはな……止まって、少し。それを繰り返すことだに」

 止まって、少し。 それは、今日の父の足だった。 それは、幹夫の「いき」だった。 それは、家の中でずっとやってきたことだった。

 父が「歩」を見て、ぽつりと言った。

「……止まるのが、悪いと思っとった」

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、静かに言った。

「うん。……でも、止まらんと、転ぶ」

 祖母が台所から、淡々と追い打ちみたいに言った。

「胸だけ走ると足が転ぶ。言っただら」

 父は、ほんの少しだけ笑った。 笑いきれないのに、今日は少しだけ笑いの形。

「……おまえさん、昔から正しいな」

 祖母は「正しいんじゃなく、生活だ」と言いたげに、鍋をかき回す音を大きくした。 その音が、家の匂いを濃くした。

 幹夫は鉛筆を握った。 止を書いて、少を置く。 一回目の「歩」は、少が大きくなりすぎて、歩幅が広すぎる字になった。

 広すぎると、転びそうで胸がきゅっとした。 きゅっとしたから、息。

 ――いき。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「少が大きくなったらな……止を戻す。止があると、歩になる」

 止があると、歩になる。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。

 二回目は、少が少しだけ小さくなって、字が落ち着いた。 落ち着くと、字が「進む顔」をする。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「止」は、少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 父の「少」は、小さかった。小さいのに、ちゃんとそこにいる。 最後の点を置くとき、父の息がいちど止まって――止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「歩」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、刺さらない。 刺さらないのは、そこに「止まっていい」が入っているからだ。

 父は字を見て、ふっと息を吐いた。

「……歩、って……止まるのが入っとるんだな」

 母は「うん」とだけ返した。 その「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。 受け取って、折り目にして、飛ばさない「うん」。

 母は「歩」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 夜。 灯りが落ちる前、父が布団の中から小さく言った。

「……みき坊」

 幹夫は返事をする前に、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……うん」

 父はそれだけで、少し安心したみたいに息を吐いた。 息が戻ると、夜は夜のままでいられる。

 幹夫は寝る前に、小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > あるく って> とまって すこし なんだね> きょう とまっても> ころばなかった> いき が あったから> あしたも すこし

 最後に、小さく「歩」。 丸をひとつ。 足が転ばないための丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、砂を踏んだ「ぎゅ、ぎゅ」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > あるく は> とまる と> すこし の くりかえし> いき が はいる ぶん> すすむ> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

> みきぼう  
> きのう  
> あるけた  
> がん って おと  
> こわかった  
> でも  
> とまって  
> すこし  
> もどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――浜の砂が、ほんのひとつまみ。 紙に包まれて、角が丸い袋になっている。 握るとさらさらして、指の間から落ちそうなのに、ちゃんとそこにいる。

 幹夫は砂の袋を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、砂を踏む「ぎゅ、ぎゅ」は届いた。 届いた足音を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――止まって、少し、を胸の中で何度も繰り返しながら、今日の道をそっと歩き始めた。

 
 
 

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