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済の字

 書留を出してから、家の時間は「いつも」に戻ったふりをした。 鍋のふたは鳴るし、祖母は芋の皮をむくし、母の針は布に入って出る。入って、出る。返し縫いの戻りと進みを、何事もない顔で繰り返す。

 けれど「いつも」は、どこか薄かった。 畳の目を踏む足が、少しだけ慎重。 障子を開ける手が、少しだけ遅い。 遅いのは怠けているからじゃない。遅くしないと、胸の中の音が追いつかないからだ。

 母は、控え帳の端に小さな棒を一本ずつ増やした。 棒は短い。短いのに、増えると列になる。列になると「待つ」が形になる。

 幹夫はその棒を、横から数えた。 一本、二本、三本。 数えると、胸の中の警報が少しだけ静かになる。数は、嘘をつかないからだ。

 数え終わったあと、幹夫は内ポケットの鉛筆を確かめた。 竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、数が自分の手の中に入る。

「母ちゃん、まだ?」

 幹夫が言うと、母は針を止めずに「まだ」とだけ返した。 「まだ」は、終わりじゃない言葉だ。 終わりじゃないのに、始まりでもない。宛名欄の白みたいに、ぽっかりしたまま立っている言葉。

 その朝、ちりん、と鈴が鳴った。

 郵便屋の音は、細い。 細いのに、いちばん先に胸を叩く。 胸が叩かれると、息が一拍遅れる。遅れても、逃げないでいる息。

「郵便でーす」

 母が立った。 立ち方が、前よりほんの少しだけゆっくりだった。ゆっくりは、怖いのに逃げないでいるゆっくりだ。

 母が受け取ったのは、封筒じゃなく、葉書より少し硬い小さな紙だった。 角がぴしっとしていて、紙が「役目」の顔をしている。 母はその場で裏返し、目を走らせた。

 走って、止まって、また走って――。

 止まったところで、母は息を吐いた。 その息は軽かった。軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、「落ちなかった」の息だ。

 母はその紙を、ちゃぶ台の上じゃなく、控え帳の横へそっと置いた。 落とさない置き方。飛ばさない置き方。 紙を紙のままにしておく置き方。

 祖母が台所から聞いた。

「なんだい」

「……届いた、って」

 母は短く言ってから、付け足した。

「“配達済”って書いてある」

 済。 み、という音だけが、幹夫の耳に残った。 済む。済んだ。 その音は、口の中で止まりやすいのに、胸の奥を少し冷やす。

「済って……なに」

 幹夫が聞くと、母は控え帳を開き、受領証と並べるようにその紙を挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。飛ばない顔になると、母の肩が少しだけ落ちた。

「出したのが、向こうへ届いたってこと」

 母は言った。 言い方が、教える言い方だった。 教える声は倒れない。倒れないと、聞くほうも倒れにくい。

 幹夫は胸がふっと温かくなるのを感じた。 届いた。 届く。 届の字を思い出す。屋根の下の由。触れるみたいな字。

 けれど、その次にすぐ、胸の奥がきゅっとなった。 届いた、のに、まだ答えじゃない。 届いた、は「行った」だけで、「帰った」じゃない。

「……じゃあ、返事は」

 幹夫が言いかけると、母は首を横に振った。

「まだ」

 たった二文字。 短いのに、ちゃんと重い。 重いのに、刃じゃない。母はいつも、言葉の角を丸める。

「でもな」

 母はそこで止まって、控え帳の端の棒を指でなぞった。 なぞる指が丁寧だった。丁寧に触ると、紙が落ち着く。

「“届いた”は、ひとつ前へ進んだってことだに」

 進んだ。 嬉しい進んだじゃない。 でも、進んだしかない進み方の中で、ひとつ前へ行けた、という事実。

 祖母が鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。

「迷子にならんで済んだ、ってこった」

 済んだ。 済が、生活の言葉になってしまう言い方だった。 生活の言葉にすると、少しだけ息ができる。

 昼過ぎ、母は新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆を、幹夫の前に置く。 継ぎ目の硬さが、今日は少し頼もしい。紙が迷子にならなかった日だからだ。

「今日はな」

 母が言った。

「“済”を書く」

 母はゆっくり字を書いた。

 済

 幹夫は目をこらした。 左に、三つの小さな点――水の形がついている。 右は、細かい線が重なっていて、少し騒がしい。

「ここ、見て」

 母が左の三つを指でなぞった。

「これは水。川の水の水」

 水。 幹夫はすぐ、蒲原の用水の音を思い出した。雨のあとに少し増える、水の早足の音。 水は流れていく。 流れていくものは、止めたくても止められない。

「済むってのはな……流れて、片がつく、ってことだに」

 片がつく。 片づく。 祖母が夜に畳の目を揃えるときの手つき。 物の角がそろうと、心も少しそろう。

 幹夫は、ふと聞いてしまった。

「……母ちゃんの心も、済む?」

 言ってしまってから、しまったと思った。 まっすぐすぎる問いは、門の中の口が刃になることがある。

 母はすぐ答えなかった。 答えない間が、また少し長い。 でもその長い間の中で、母は息を一つ入れた。幹夫に教えてくれた「まず いき」の息。

「……紙は、済んでも」

 母は静かに言った。

「心は、まだ済まんこともある」

 まだ。 ここで「まだ」が出たのが、幹夫には救いだった。 済まない、は終わりに見えるけれど、まだ、は生きている言葉だ。

 幹夫は鉛筆を握り直した。 まず、水の三つ。 点を打つとき、三つの点が涙みたいに見えた。涙みたいなのに、これは水だ。水は泣くだけじゃない。流れる。運ぶ。

 次に右側の形。 線が多くて、手が震えた。震えると、字が子どもになる。子どもになると、胸の中の警報がちくりと鳴る。

「ええ」

 母が言った。 転んでもいい「ええ」。

「済はな、きれいに書かんでもええ。……水がついてりゃ、済だで」

 水がついてりゃ。 その言い方が、少し笑えて、幹夫の胸がほんの少し軽くなった。 軽くなるのに、飛ばない軽さだった。

 二つ目の「済」が、少しだけ「済」になった気がした。 なった気がしただけで、幹夫は息がしやすくなる。 息がしやすいと、待つ手も少しだけ楽になる。

 母は「済」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消印の丸じゃない。受領の丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

「配達済、って書いてあるけどな」

 母が言った。

「済んだのは、配達。……返事は、これから」

 これから。 これから、は明日より遠い。 遠いのに、置ける言葉だ。

 幹夫は控え帳を見た。 棒の列。 そこに、今日、母が小さく「配達済」と書き足した。 書き足す鉛筆の先が、少しだけ落ち着いている。

 幹夫は自分の帳面を開いて、今日のページに書いた。

 > すんだ > でも まだ

 そして、今日の字を一つ置いた。

 済

 字の左の水を指でなぞると、黒い粉が少し指についた。 汚れじゃない。 届いた証拠みたいな黒だった。

 夕方、海のほうから風が入ってきて、障子が少し鳴った。 鳴る障子は、戸口の門みたいだ。 門が鳴ると、胸が一瞬だけ構える。

 でも今日は、控え帳の間に「配達済」の紙が挟まっている。 挟まっているだけで、家の中に小さな柱が一本立ったみたいだった。

 母は縫い箱の脇に控え帳を戻してから、幹夫の頭に手を置いた。 撫でない。押さえる。 崩れないように押さえる手。

「今日は、よう頑張ったな」

 母が言った。 頑張ったのは字じゃない。 待つ手を、逃がさなかったことだと幹夫は思った。

 幹夫は、声で返した。

「うん」

 声の「うん」はすぐ消える。 でも、消えるのが怖くなかった。 今日、紙の中に「済」が残ったからだ。残る水。残る丸。残る棒。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、配達の「済」は届いた。 済の字の左の水が、幹夫の胸の中で、静かに流れていた。流れながら、まだ、を運んでいた。

 
 
 

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