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渡の字

 縫い箱の脇に置かれた小さな木の舟は、朝の光で、腹の丸さがいっそう目立っていた。 削り跡が、指の腹にやさしく引っかかる。 引っかかるのに、刺さらない。 刺さらない引っかかりは、「ここにある」を静かに教える。

 幹夫はその舟を、両手でそっと持ち上げた。 木は紙より重い。 でも石ほど重くない。 重さのあいだのものは、心のあいだのものに似ていて、幹夫は胸の奥がすこしだけ落ち着く気がした。

 縁側で父が、指先をこすっていた。 昨日の削りカスがまだ残っているのだろう。 こすって、止めて、またこすって――その繰り返しが、息みたいだった。

 父が舟を見て、ぽつりと言った。

「……それ、流してみるか」

 流す。 流れる。 行ってしまう。 戻るかもしれない。 その全部が一緒に来て、幹夫の胸の奥がきゅっとした。

 きゅっとしたときほど、息。

 ――いき。

「……どこで?」

 幹夫が聞くと、父は海のほうじゃなく、道の向こう――用水路の先を顎で少しだけ示した。

「……橋の下。……渡るとこ」

 渡る。 その言葉が、まだ柔らかくない音で落ちた。 でも父は落としたまま、逃げなかった。

 台所の境目に立った母が、声を急がせないまま言った。

「橋の下は冷たいで。……濡れるなよ」

 濡れるなよ、は叱りじゃなく、包む言い方だった。 包む言い方があると、外へ出る足が少し軽くなる。

 祖母が鍋の向こうから淡々と混ぜる。

「木の舟ぁ沈まん。沈むのは、変に慌てる手だら」

 慌てる手。 幹夫は、自分の胸の中で走りそうなものを見てしまって、石をポケットの中で握り直した。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。

 父が小さく言った。

「……置くんだぞ。投げるな」

 昨日と同じ言葉。 同じ言葉が続くと、家の中に道ができる。

 幹夫は頷いた。 頷きのかわりに、息をひとつ入れてから、声を出した。

「……うん」

 父はそれを聞いて、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。

 橋へ向かう道は、朝の湿り気を残していた。 砂利が少しだけ黒い。 黒いと、昨夜の冷えがまだそこにいるのが分かる。

 父は歩幅を大きくしなかった。 止まって、少し。 それを繰り返す歩き方。 歩の字の歩き方。

 橋が近づくにつれて、水の音が太くなる。 波の音とは違う、水の音。 波が丸いなら、用水の音は細い。 細い音は、耳の奥に入りやすい。

 父の肩が、ふっと上がった。 上がって止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父は足を止めずに言った。

「……水の音、ここは早いな」

 早い、という言葉が、怖さじゃなく、確かめる言葉で出た。 確かめる言葉は、刃になりにくい。

 橋の上に立つと、水は下を通っていく。 通っていくのに、終わらない。 終わらないから、少し怖い。 でも終わらないのは、暮らしの水でもある。

 父は欄干に手を置かず、少し離れて立った。 立ち方が、まだよそ行きだ。 でもよそ行きでも、ここに立てている。

「……渡るってのは、上から見ると、怖ぇな」

 父がぽつりと言った。 怖ぇな、が出ると、幹夫の胸がきゅっとする。 きゅっとするのに、父が言えたことが、どこか嬉しい。 言えると、怖さは言葉の形になるからだ。

 幹夫は木の舟を両手で抱えた。 抱える木の重さが、胸の中の熱を少しだけ押さえる。

「……父ちゃん」

 呼んでみる。 呼ぶと、喉が熱い。 熱いときほど、息。

 ――いき。

「……橋、渡るだけだに」

 自分でも変な言い方だと思った。 母の「だに」を真似したからだ。 でも父は笑わなかった。 父は目を細めて、ほんの少しだけ口の端を上げた。

「……ああ。……渡るだけ」

 渡るだけ。 その「だけ」が、少し、に似ていて、幹夫は胸の奥がすこし軽くなるのを感じた。

 橋の下へ降りる小道は、草が濡れていた。 濡れた草は、裾に触れると冷たい。 冷たいと、今ここがはっきりする。

 父は足元を確かめながら、ゆっくり降りた。 降りて、止まって、少し。 止まって少しの繰り返しが、道になる。

 水面は、橋の影を黒く揺らしていた。 揺れる黒は、深く見える。 深く見えると、胸が走りそうになる。

 幹夫はポケットの石を握り、口の中で言った。

 ――いき。

 父が、木の舟を見た。 見て、幹夫の手を見た。 目が来るまでの「間」はやっぱり少し長い。 でも今日は、その長い間が「待てる間」だった。

「……置けるか」

 父の声が、小さく落ちた。 命令じゃない。 確かめる声。

 幹夫は頷いて、舟を水面へ近づけた。 指先が少し震える。 震えは怖さだけじゃない。 落としたくないときの震えだ。

 舟の腹が水に触れた瞬間、ふわっと浮いた。 紙の舟よりも、浮き方が落ち着いている。 落ち着く浮き方は、胸も落ち着かせる。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 舟は流れに乗って、すっと前へ進んだ。 進むのに、慌てない。 慌てない進み方は、「渡る」みたいだった。 水の上を歩くわけじゃないのに、水が道になる。

 父が、舟のあとを目で追いながら言った。

「……舟ってのは、渡るための腹だな」

 腹。 丸い腹。 沈まない形。 幹夫は昨日の「舟は沈まんってこと」という母の言葉を思い出した。

 少し先で、水が石に当たって「ぱしゃ」と鳴った。 その音は昨日ほど尖っていなかったのに、父の肩がいちど上がった。 上がって、すぐ落ちる。 落ちた、というだけで、幹夫の胸が少しだけ温かくなる。

 父は息をひとつ吐いて、ぽつりと言った。

「……水だ。……水の音」

 自分で言えた。 言えると、音は音のままでいられる。 幹夫は喉の奥の熱を、息で丸くして頷いた。

 ――いき。「……うん」

 舟は橋の下の影を抜けて、日向へ出た。 出たところで、木の表が光って見えた。 光は丸い。 丸い光は刺さらない。

 そのとき、舟の腹の横に、鉛筆の薄い字があるのに気づいた。 小さく、ぎこちない線。

 みき丸

 幹夫の喉の奥が、いっぺんに熱くなった。 熱くなりすぎると、息が浅くなる。 浅くなりそうになったから、幹夫は石を握りしめて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 父は幹夫の目線を追って、舟の字を見た。 見て、少し照れたみたいに鼻の下を擦った。

「……舟の名前だ。……丸、つけときゃ、角が立たん」

 角が立たん。 波の上でも。 胸の中でも。

 幹夫は、言葉が出なかった。 出ない言葉が喉に詰まると痛い。 痛いから、息。

 ――いき。

 やっと、小さく言えた。

「……ありがとう」

 父はすぐ返事をしなかった。 でも、返事をしないまま逃げなかった。 少し間があって、父がぽつりと言った。

「……渡すって、こういうことか」

 渡す。 木の舟を渡す。 息を渡す。 言葉を渡す。 道を渡す。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、「これから」の鳴り方だった。

 舟は、そのまま少し先の草に引っかかって止まった。 止まって、少し。 舟も歩いている。

 幹夫は川縁へ降りて、濡れた舟をそっと拾い上げた。 木は紙みたいにふやけない。 濡れても、形は形のままだ。 形が残ると、胸の奥が落ち着く。

 拾い上げた舟の腹を、幹夫は掌で軽く押さえた。 押さえると、木は少し温かい。 温かいのは、水が太陽をもらっていたからだ。

 父が、橋を見上げて言った。

「……橋ってのも、渡すもんだな」

 橋。 人を渡す。 水を渡す。 声を渡す。

 母が後ろから、低く言った。

「渡したらな、戻る道も残す」

 その言い方は、縫い箱の下に紙を残す言い方に似ていた。 飛ばないように。 迷子にならないように。

 祖母が、いつもの淡々で混ぜる。

「戻れん道ぁ、生活じゃねぇ。帰って飯だ」

 飯だ、で話が終わる。 終わり方が、家を家に戻す。

 家に戻る途中、父は橋の上を渡った。 渡る足は、昨日より少しだけ揃っていた。 揃っているのに、急がない。 急がない揃い方は、落とさないための揃い方だ。

 橋の真ん中で、父がいちどだけ足を止めた。 止めて、下の水を見た。 見る目が遠い。 遠いのに、逃げない。

 幹夫の胸がきゅっとして、でも急がせたくなくて、息だけ入れた。

 ――いき。

 父は、ふっと息を吐いて、足をまた出した。 それだけなのに、幹夫は胸の奥が温かくなるのを感じた。 止まってもいい。 止まっても、渡れる。

 昼前、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を取る。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫」

 母の声は低い。倒れない低さ。

「今日は、これだに」

 母がゆっくり書いた。

 渡

 幹夫は目をこらした。 左に水。 右に、度――「たび」みたいな形。

 母は水のほうを指でなぞった。

「これは水だに。流れ。……用水の水」

 次に右をなぞった。

「こっちは度。……何度も、って度だに」

 何度も。 止まって少し、を何度も。 息を入れて戻す、を何度も。 父の「少しずつ」が、胸の中で座った。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「渡るってのはな……水の上を、何度も“度”で越えることだに」

 度で越える。 一度じゃなく、何度も。 少しずつ。 それは、父が橋を渡った足そのものだった。

 母は続けた。

「渡すってのも、同じ字だに。……手から手へ。声から耳へ」

 声から耳へ。 声の字。 聞の字。 その道が、ひとつの字に入っている。

 父が新聞紙の「渡」を見て、ぽつりと言った。

「……渡すの、怖ぇときある」

 怖ぇ。 その言葉は痛いのに、刃じゃなかった。 渡したら、なくなる気がする。 なくなるのが怖い。 でも渡さないと、繋がらない。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。

「うん。……渡したら、減るんじゃない。増えるのもある」

 増える。 増える、は未来の言葉だ。 未来の言葉が出ると、胸がぽん、と鳴る。

 父はしばらく「渡」を見て、それから小さく言った。

「……みき丸、渡した」

 自分で言った。 言えると、渡したことがちゃんと形になる。

 幹夫は木の舟を両手で抱え直して、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 水を書いて、度を書く。 一回目の「渡」は、度が大きくなりすぎて、字が急いでいる顔になった。 急いでいると、水が溢れそうで胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「度が大きくなったらな……水、戻す。水があるから渡になる」

 水があるから渡になる。 水があるから、舟が浮く。 水があるから、息が戻る。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「渡」は、少し落ち着いた。 落ち着くと、字が「越える顔」をする。 越える顔は、刺さらない。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の水は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 父の度は、少し歪んだ。 歪むのに、ちゃんと“何度も”の顔をしている。

 書き終えた父が、ふっと息を吐いた。

「……渡、って字……何度も、が入ってるの、いいな」

 何度も。 それは、やり直していい、の匂いがした。

 母は「渡」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、橋の両端の印みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前に、木の舟を幹夫の枕元へそっと置いた。 置き方が、投げない置き方。 落とさない置き方。

 父は小さく言った。

「……渡した。……戻してもいい」

 戻してもいい。 その言葉は、渡す怖さを少し丸くする言葉だった。 渡して、戻せるなら、なくならない。 なくならないなら、安心して渡せる。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、でも声が出なくて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……うん」

 父はそれだけで、少し安心したみたいに息を吐いた。 息が戻ると、夜は夜のままでいられる。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に小さく足す。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > わたす って > なくす こと じゃなくて> ふえる こと も あるんだね> みきまる> うれしかった> こわいときは> いき> なんども

 最後に、小さく「渡」。 丸をひとつ。 橋の目印の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは橋の真ん中の「止まった間」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > わたる は> みず と> なんども> とまってもええ> いき> うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう> きのう> はし わたれた> すこし> こわくても> なんども> もどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。文字じゃなく――小さな紙片に、父の震える字で「みき丸」と書いてあった。その横に、いびつな丸がひとつ。丸の端が少し尖っているのに、刺さらない。刺さらないのは、「渡した」がそこに座っているからだ。

 幹夫はその紙片を胸に当てて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 渡る。 渡す。 何度も。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「はしわたれた」という父の字は届いた。 届いた“何度も”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日の橋も、今日の水も、今日の言葉も、少しずつ渡っていこうとしていた。

 
 
 

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