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照の字

 翌朝、母は封筒をいちど開け直した。 昨夜、役場へ送るために宛名まで書いた封筒。折り目で閉じた口。そこへ指を入れるとき、母の動きが少しだけ遅くなる。遅くなるのは迷いじゃない。写真の角を折りたくない遅さだ。

 母は焼き増しの一枚を、白い紙で挟んでいた。 その白い紙を、さらにもう一枚の厚めの紙で挟む。挟んで、端を揃えて、息をひとつ入れてから封筒へ戻す。

「折れたら、顔が変わるでな」

 母はそう言った。 顔が変わる、という言い方が、幹夫の胸をきゅっとした。紙一枚の角で、人の顔まで変わる気がする。紙は軽いのに、軽いものほど怖い。

 幹夫は内ポケットの鉛筆に触れた。 竹の継ぎ目。硬い。 硬さがあると、折れそうなものに近づける気がした。

 祖母は握り飯を二つ、いつもの布に包んで渡した。

「風ぇ出たら、封筒、腹んとこに入れとけ」

 腹んとこ。 祖母の言い方は、紙を“胸”じゃなく“腹”に預ける。胸は波立つけど、腹は踏ん張る場所だと知っている言い方。

 母は風呂敷包みを抱えて、戸口で一度だけ振り返った。 押し入れの奥――元の写真の入った黄ばんだ封筒が眠っている場所を、目で確かめる。 確かめてから、戸を閉めた。閉める音が小さかった。小さいのに、家の中の空気がひとつ結ばれる音だった。

 外はよく晴れていた。 雨上がりの晴れじゃなく、最初から晴れている晴れ。空の青が薄くなくて、海の青とぶつからない。ぶつからない青は、胸を急がせない。

 浜のほうを見れば、波の頭が光っている。 光は刺さらない。光はただ、跳ねている。 跳ねる光を見ていると、幹夫の胸の中の警報は、尖らずに丸く鳴った。

 郵便局の赤い箱が見えた。 赤い口。暗い口。 暗いのに、今日は昨日より怖くなかった。 封筒が“写し”だからだ。元が家に残っているからだ。残るものがあると、手を離すのが少しだけ楽になる。

 局の中は、紙とインクの匂い。 その匂いに混ざって、朱肉の匂いが薄く漂っていた。朱肉の匂いは、いつも「残す」の匂いだ。

 母が窓口に封筒を出すと、局員の男が宛名と差出人を確かめて言った。

「写真ですね。……折れないように入れてありますか」

 母は頷いた。頷き方が小さいのに強い。 局員はそれを見て、少しだけ表情を柔らかくした。

「書留、続けますか」

 母は財布を握り直して、「お願いします」と言った。 お願いします、という声が、今日は少しだけ息を含んでいた。息が入ると、言葉は刃になりにくい。

 硬貨の音が台で鳴る。 鳴る音は恥ずかしそうで、でも今日はその恥ずかしさが少し薄かった。 払うのは痛い。けれど払うことで“逃げない”形を買っている、と幹夫は思った。

 局員が切手を貼って、朱肉をつけて、どん、と押した。 どん。 消すための音じゃない。預かった、の音。通る、の音。

 受領証が差し出された。母はそれを丁寧に折り、控え帳の間に挟んだ。 挟むと、紙は飛ばない顔になる。 飛ばない顔が増えると、母の肩がほんの少しだけ落ちる。

 窓口から離れて外へ出ると、光が強かった。 海が照り返して、目の奥が少し眩しい。 眩しいのに、怖くない眩しさだった。

 幹夫は我慢できずに聞いた。

「母ちゃん……役場の人、写真で、なにするの」

 母は歩きながら、少しだけ空を見た。 空を見る目は、答えの代わりに広さを持ってくる目。

「……照らし合わせる」

 母が言った。

「照らし合わせる?」

「うん。紙の名前とか年とかと、顔を……合うかどうか見る」

 合う。 幹夫は「答」の下にいた「合」を思い出した。 答えは、合う場所があること。 でも、合わない場所もある。合わない場所の影が、言葉の横に座る。

 幹夫は、もうひとつ聞いた。

「……照らす、の“てらす”って、あの……海が光るのと同じ?」

 母は一度だけ、海のほうを見た。 照り返す波を見て、それから幹夫に戻った。

「そうだに。明るくする。……見えるようにする」

 見えるようにする。 見えるようにすると、見たくないものも見えてしまう。 でも見えないままだと、迷子になる。迷子は、胸の場所がなくなること。

 母は、そこで少しだけ声を足した。

「昭和の“昭”も、明るいって字だに」

 昭和。 幹夫は、胸の奥がぽん、と鳴った。 自分が生まれた年――昭和十八年。母がときどき、帳面に書く年号。

「昭の字、照の中に入っとる」

 母はそう言って、指で空に線を引いた。 日があって、呼ぶみたいな形があって、その下に小さい火の点々。

「照はな、昭に火ぃつけて、もっと照る字だで」

 火の点々。 幹夫は、竈の赤を思った。 怖くない赤。生きるための赤。 照る、という字に火が入るのは、どこか救いみたいに見えた。

 幹夫は内ポケットから帳面を出した。 風が来ないように、体の影で隠して開く。 鉛筆を握る。竹の継ぎ目が掌に当たる。

「てらす、の字……書きたい」

 母は少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。

「帰ったら、書こ。……今日は風あるで、いまは閉じとけ」

 閉じとけ、は叱りじゃない。守りだ。 幹夫は帳面を閉じて、胸へ戻した。胸へ戻すと、紙が体温を吸って少しだけ丸くなる。

 家へ戻ると、祖母が戸口で「出したか」と聞いた。 母は控え帳を軽く持ち上げて見せた。

「書留で。……写真も」

 祖母は「ほう」と言って、鍋のふたを閉めた。 生活の音が、家を家に戻す。 戻る音があると、胸の奥の警報は丸く鳴る。

 夕方、母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げた。 幹夫の鉛筆を取り、ゆっくり書いた。

 照

 幹夫は息をひとつ入れて、それを真似した。 上の形を崩さないように。 下の小さい火を、落とさないように。 火の点は小さくて、すぐ飛ぶ。飛ぶ点を、紙の上に留めるのが難しかった。

 母が言った。

「点はな、急がせんように置く。……返し縫いみたいに」

 戻って、進む。 戻って、進む。 幹夫は点をひとつ置いて、息を入れて、またひとつ置いた。

 書けた「照」は、少しよろけた。 よろけたのに、ちゃんと火がついている顔をしていた。 その顔が、なぜだか幹夫の胸に似ていて、少しだけ落ち着いた。

 母は「照」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受領証の丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 その夜、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いて、宛名に「おかあちゃんへ」と書いた。 中に、今日の字をひとつだけ置いた。

 > てらす

 そして小さく、漢字でもう一度。

 照

 最後に、丸をひとつ。 光が飛ばないように、折り目の中にしまう丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、期待が触れた震え。 でも差し込めた。差し込めたぶんだけ、胸の中の警報は尖たない。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、今日は海がよく照っていた。 照る光は、答えじゃない。 それでも、見えるようにする光だ――母がそう言ったのが、幹夫の胸の中で小さく火を灯していた。

 
 
 

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