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熱の蝶

二月の京は、骨のように冷えていた。だが六波羅だけが燃えていた。燃えているのは松明でも瓦でもない。ひとりの男の体温である。権力というものは本来、冷たいはずだ。冷たいからこそ人はそれを「石」だの「玉」だのと呼んで拝む。ところが、ここに横たわる権力は、皮膚の下から熱を噴き上げ、触れる者の指をひるませた。

私は典薬寮の末端の医で、名など誰も覚えぬ。名を持たぬ者は、時に真実に近い。名がない分、恐れも誇りも薄く、薄いものほど匂いをよく嗅ぐ。私は廊下に漂う香の匂いの奥に、別の匂い——焦げの匂いを嗅いだ。過去の焦げである。南都の焼け跡が、時間を経てなおこの屋敷に染み込んでいるのだ。火の記憶は、紙よりも畳に残る。

障子を開けると、熱がこちらへ押し返してきた。熱は空気を重くし、重い空気は人の言葉を鈍らせる。寝台の上で、平清盛が息をしていた。息をしているだけで、周囲の水の器が湯気を立てる。湯気は、祈りのように白い。祈りに似たものほど、ここでは不潔だった。なぜなら、祈っているのは救いではなく、ただ「終わりの形」だからだ。

清盛の胸の上には、揚羽の蝶の紋があった。金糸の蝶は、灯の揺れに合わせて翅を動かすように見える。蝶は軽い。軽いものほど、燃えやすい。燃えやすいものほど、人は「永遠」を望んで刺繍する。永遠は、最も卑しい欲望の別名だ。

「水を」

声がした。声は低く、乾いていた。乾いた声は命令に似るが、命令の匂いはしない。ただ、喉が焼ける者の本能の音だった。

私は器を取り、唇へ水を含ませた。水が触れた瞬間、湯気が上がった。まるで水が拒まれている。拒まれる水ほど残酷なものはない。水は救いの象徴だと人は言う。だが救いは象徴であって、現実ではない。現実の水は、ただ蒸発する。

清盛は目を開いた。目の奥は濁っている。濁りは老いではない。濁りは、持ちすぎたものの色だ。持ちすぎた者の目は、世界を抱え込んだ分だけ濁る。濁った目がこちらを見ると、こちらの胸の中の澄んだ部分が恥ずかしくなる。

「……医か」

「はい」

「寒いな」

私は思わず、部屋の熱を見回した。寒い、と彼は言った。これほど熱いのに、寒いと言う。矛盾は病の言葉ではない。矛盾は、人間の言葉だ。権力者が人間になる瞬間は、いつもこういう矛盾の形をしている。

「外は雪でございます」

私がそう言うと、清盛の口元がわずかに歪んだ。笑いではない。歪みだ。歪みは、誇りの最後の痙攣に似ている。

「雪か。……伊勢の海には雪など降らぬ」

伊勢。海。その二語が、熱の部屋に冷たい穴を開けた。穴が開くと、人は急に過去へ落ちる。過去へ落ちるとき、権力はただの皮膚になる。

「海が見たい」

清盛は囁いた。囁きは弱い。弱い言葉ほど胸を刺す。海が見たい——それは都の頂点に立った男の言葉ではない。少年の言葉だ。少年の言葉ほど危険なものはない。少年の言葉は、死を美しくしやすい。

私は黙っていた。黙りは卑怯だが、言葉はもっと卑怯になり得る。慰めの言葉は、死を整えるからだ。整った死は、後世に磨かれ、光らされ、飾られる。飾られた死ほど、次の死を呼ぶ。

清盛の視線が、天井の梁へ移った。梁の木目が、波のように見えたのだろうか。彼の瞳孔が一瞬だけ広がり、熱の底から別の光が湧いた。

「海は……いい」

彼は言った。

「海は、誰の顔も見ぬ。名も、家も、官位も。海はただ、満ちて引く。満ちて引くことだけが正しい」

その言葉の正しさが、私の胸を痛めた。正しさほど人を殺すものはない。清盛の正しさは、海の正しさを借りていた。借りた正しさで、都を動かし、人を並べ替え、火を放った。海の正しさは、火の正しさより冷たい。冷たい正しさは、罪の臭いを消してしまう。

「……それゆえ、私は海のようになろうとした」

清盛は続けた。言葉は熱に途切れながら、それでも進む。進む言葉は、生の執着だ。執着は醜い。醜い執着ほど、こちらを感情移入させる。

「都は、女の化粧のようだ。白粉で顔を整え、香で匂いを隠し、絹で肉を包む。だが海は、肉を隠さぬ。肉を曝す。曝される肉が、いちばん正直だ」

私は思わず、彼の汗に濡れた首筋を見た。汗の粒が、蝋のように光る。光は美しい。美しい汗は、死の前でいちばん残酷だ。人間の肉体が、最後の最後まで「形」を保とうとするからだ。

「私は……形が欲しかった」

清盛は、ほとんど独り言のように言った。

「形があれば、恐れは薄くなる。形があれば、死ねる。——だが、形は増える。増えすぎた形は、内側を空にする」

増えすぎた形。官位、邸宅、宋の品、港、都、幼い帝。形が増えるほど、守るものが増える。守るという言葉は甘い。甘い守りは、すぐ燃える。燃えたとき、残るのは灰だ。灰は軽い。軽い灰が、重い責任を運ぶ。

清盛は突然、短く息を吸い込んだ。その吸い込みが、まるで火に触れた者のそれのようだった。

「水……!」

私はまた水を与えた。湯気が上がる。湯気は白い。白い湯気は、彼の唇を幽霊のように薄く見せる。幽霊ほど、人間を縛るものはない。

「源頼朝を……」

清盛の声が硬くなる。硬さは、生の最後の鎧だ。

「……討て」

命令が戻ってくる。命令が戻ると、彼はまた権力者になる。権力者になると、私は彼に嫌悪を覚えるはずだった。だが私は嫌悪できなかった。嫌悪は簡単だ。簡単な感情ほど、こちらを救う。救われることが、いまは怖かった。怖いのは、彼の熱が、私の中の何かを溶かしているからだ。

——この男は、何を守ろうとして燃えたのか。——国か。家か。己の名か。どれも、最後にはただの「形」だ。形にしがみつく滑稽さが、なぜこんなに人間的なのか。

清盛の目が閉じ、まぶたの下で眼球が動いた。夢を見ているのだろう。夢は、熱の中でいちばん真実になることがある。現実が熱に耐えられず溶けるとき、夢だけが骨の形で残る。

彼は、うわ言のように言った。

「福原……潮が……」

福原。彼が海の都を夢見た場所。私は一度だけその地を見た。波打ち際に、粗い石が並び、船が出入りし、異国の匂いがした。都の香より、はるかに生き物の匂いが濃かった。清盛はそこで、権力を「海」に近づけようとしたのだろう。だが権力は海になれない。権力はいつでも人間の手の形をしている。手の形をしたものは、必ず握りしめる。握りしめれば、熱が出る。

熱は、ついに彼を焼いた。

私は額の汗を拭い、脈を取った。脈は早く、浅い。浅い脈は、潮の引き際に似ている。引く潮は、もう戻らないかもしれない。

清盛の唇が、また動いた。

「蝶が……燃える」

蝶。揚羽の蝶が、炎に触れる幻を見ているのだろうか。蝶は軽い。軽いものは火に弱い。火は美しい。美しい火は、死を飾る。飾られた死は、物語になる。物語は、必ず誰かを次の炎へ誘う。

私は、その連鎖が嫌だった。だが嫌悪の中に、どうしようもない哀しみが混じっていた。哀しみは、感情移入の形をして忍び込む。私は医である前に、ただの人間だった。人間は熱に弱い。

夜更け、外の雪がいっそう深く降った。雪は音を立てない。音を立てないものほど、あとで世界の形を変える。

室内では、清盛の熱がいよいよ孤独になった。孤独な熱は、周囲の空気からも味方を失う。味方を失った熱は、急に冷える。冷えは死の前触れだ。冷えると、あれほど蒸発していた水が、ただの水になる。

清盛は、最後に一度だけ目を開いた。その目は不思議に澄んでいた。澄みは赦しではない。澄みは、手放した者の軽さだ。軽さは自由に似ている。自由に似た軽さほど危険なものはない。人は軽さを「救い」と呼びたがる。

彼は私を見て、ほとんど聞こえぬ声で言った。

「……海は、冷たいな」

そして、息が止まった。

私はしばらく、手を引けなかった。脈のない手の軽さが、あまりに正直だったからだ。正直なものは、美談を許さない。私は美談にしたくなかった。だが人は必ずする。蝶を刺繍し、火を語り、海を神風のように呼び、栄華の末と笑い、涙を節約し、また次の物語を織る。

部屋を出ると、廊下は冷たかった。冷たさは正しい。正しい冷たさは、人を現実へ戻す。外の雪は白い。白は潔白ではない。白は、血の色をいっそう鮮やかにするための背景だ。

六波羅の門の向こうで、京の夜が息をしていた。都は、明日も香を焚き、絹を着て、顔を整えるだろう。だが私は知ってしまった。どれほど整えても、最後に残るのは、ひとりの男の「熱」と、熱が去ったあとの「冷たさ」だけだということを。

私は袖の中で指を握りしめた。自分の皮膚の温度が、まだ生きていることが恥だった。恥は、忘却を拒む。忘却を拒む恥だけが、平家の蝶が燃えた夜を、物語にしないための、私の小さな抵抗だった。

 
 
 

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