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白い喉

餅は、あまりに白い。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを最初から知っている者の色だ。正月の台所で、まな板の上に置かれた切り餅は、まるで「新しい年」という語の皮膚そのものみたいに、冷たく、硬く、何かを拒んでいた。

玄関の戸を開けた瞬間、出汁の匂いが私の胸を殴った。鰹と昆布の、乾いたものが温められて解ける匂い。塩気を含んだ湯気が、喉の奥へ先に入り込み、息を吸うたび、私は「帰ってしまった」ことを思い知らされた。帰るという行為は、いつも遅い。遅い帰郷は、謝罪の形をしている。

「おかえり」

母は、台所で鍋を覗き込んだまま言った。振り向かない声だった。振り向かない声ほど、生活の声だ。生活の声は英雄譚を拒む。拒みながら、こちらの罪だけは正確に覚えている。

私はコートを脱ぎ、台所の縁に立った。湯気の向こうで、母の手が動く。手は、年のぶんだけ節くれだっている。節は努力の跡だ。努力の跡ほど、見苦しいものはない。見苦しいのに、見苦しさがなければ、暮らしは続かない。

「今年も、御雑煮、作るんだね」

私は自分の声を聞いて驚いた。声が、都会の乾きで固くなっている。乾いた声は、謝り方を知らない。

母は鍋の蓋を開けた。蓋の裏に結んだ水滴が落ち、鍋の中で音を立てた。小さい音ほど胸に残る。鍋の中の澄んだ汁が揺れ、柚子の皮の黄色が浮いている。黄色は祝福の色に見える。だが黄色は、腐りの前触れにも似ている。新年は祝福であり、同時に腐敗の開始でもある。

「作らないと、正月じゃないでしょ」

母はそう言って、餅を取り上げた。まな板の上で包丁が走り、硬い餅が、かすかな乾いた音を立てて割れた。割れる音は、骨の音に似ている。似ているから、私は息を止めた。

父のことを思い出すのが怖かった。

去年の正月、父は餅を喉に詰まらせた。救急車が来て、家族が走り、誰かが「背中を叩け」と叫び、私は電話口でただ立ち尽くした。立ち尽くすという動作は、選べない者の動作だ。選べない者は、いつも後で自分を責める。

父は死ななかった。死ななかったが、何かが死んだ。喉の奥の一瞬の窒息が、父の身体のどこかを静かに折り、以後、父は「飲み込む」という行為を疑うようになった。疑いは、人間を老けさせる。老いは、肉体の速度を奪う。

父はいま、二階の部屋にいる。階段を上がる音が、父の時間に刺さるから、私はまだ顔を見ていない。正月の挨拶は、こんなに近くにありながら、まるで海の向こうのように遠い。

母は、餅を小さく切った。小さすぎるほど小さく。小さくするという行為は、恐れの形だ。恐れはいつでも、丁寧さの仮面をかぶる。

「そんなに小さくしなくても……」

私は言いかけたが、言葉が途中で腐った。腐った言葉は、口の中に苦さだけ残す。

母は包丁を置き、私を見た。見られるという行為は、裁かれる行為に似ている。母の目は裁判官の目ではない。裁かない目ほど残酷だ。裁かない目は、こちらに逃げ道を与えない。

「あなた、覚えてないの?」

母は淡々と言った。淡々とした声ほど刃物のように切れる。

「お父さん、去年ね。自分で言ったの。『餅はもう、怖い』って」

怖い。父が「怖い」と言ったことが、私には衝撃だった。怖いという言葉は、子どもの言葉だ。子どもの言葉ほど、人間の芯を露わにする。父はいつも、怖いと言わない人間だった。怖いと言わないことで、家族の暮らしを支えていた。支えるという行為は、たいてい黙って行われる。黙って行われた支えほど、後で重い。

私は餅の欠片を見た。白い欠片は、あまりに無垢で、無垢ゆえに凶器だった。無垢ほど危険なものはない。無垢は、責任の顔をしない。

母が椀を並べ、三つ葉を刻み、鶏肉を温め直す。御雑煮の支度は、儀式だ。儀式は、生活が自分を保つために作った「形式」である。形式は冷たい。冷たい形式だけが、泣かずに年を跨がせる。

「あなたも、上に行っておいで」

母が言った。「おいで」という語尾が、私を子どもに戻す。戻ることは甘い。甘いものは腐る。腐った甘さの上で、人はいつでも過去に逃げられる。私は逃げたくなかった。逃げたくないのに、足は階段に向かった。

二階の廊下は、暖房の匂いが薄かった。父の部屋の前で、私は一度だけ息を整えた。整えるという動作は、崩れる前提だ。崩れないふりをするために、人は息を整える。

襖を開けると、父は窓際に座っていた。背中が小さい。小ささは弱さではない。重いものを背負いすぎた者だけが持つ縮み方だ。テレビはついていなかった。静けさの中で、時計の針の音だけが「年」を刻んでいる。刻む音は、刃が骨をこする音に似る。似ているから、私は痛かった。

父は私を見た。目が濁っている。濁りは老いではない。濁りは、喉の奥の一瞬の暗闇を知った者の色だ。暗闇を知った者は、光を軽々しく祝えない。

「来たか」

父は短く言った。短い言葉は、会話を拒む。拒むのではない。守っているのだ。言葉は、出すほど弱くなる。弱くなることを、父は嫌った。

「……あけましておめでとう」

私は言った。言った瞬間、言葉が空気に浮いて、すぐ落ちた。落ちた言葉ほど惨めなものはない。父は頷いた。頷きは楽だ。頷けば、祝福の中身を問われずに済む。

「御雑煮、できたって。下、行こう」

私が言うと、父は一瞬だけ口元を歪めた。笑いではない。歪みだ。歪みは、誇りの最後の痙攣に似ている。

「……餅は、小さくしたか」

父は尋ねた。餅の話をする父。その事実が、私の胸を刺した。父の世界は、いま「飲み込めるかどうか」で形作られている。形作られてしまった世界ほど狭い。狭い世界の中で、人はやたらと誠実になる。

「小さくした」

私は言った。嘘ではない。だが本当の意味は、別のところにある。小さくしたのは餅ではなく、父の誇りなのだ。

父は立ち上がった。立つ動作が遅い。遅さは丁寧さに似る。似ているが、違う。遅さは、体が未来を恐れている証拠だ。

台所の明かりは、やけに明るかった。明るさは祝福ではない。明るさは、痛みを見えにくくする。母は椀に汁を注ぎ、餅の欠片をそっと入れ、三つ葉を散らし、柚子を浮かべた。柚子の香りは、刃物のように清冽だった。清冽な香りほど残酷だ。清冽さは、年の始まりに「清め」を求めてしまう。清めは、罪の臭いを消す。

父は椀を持った。椀の漆が、父の指の骨ばった輪郭を映した。椀は手の形を覚える。手の形を覚える器ほど、家族の時間を飲み込む。

父が箸で餅を探り、汁の中から小さな欠片を掬い上げた。白い欠片が、出汁の色をまとって半透明になる。白が白でなくなる瞬間ほど、人間的なものはない。純粋は、いつでも現実に触れると濁る。濁りは恥ではない。濁りは生だ。

父は欠片を口へ運んだ。私の喉が勝手に締まった。締まる喉は、感情移入だ。感情移入は、見ている者の呼吸まで奪う。父は、ゆっくり噛んだ。噛む音は小さい。小さい音ほど胸に残る。嚥下(えんげ)の瞬間、父の喉仏が動いた。動いたことが、まるで奇跡のように見えた。奇跡は美しい。美しい奇跡ほど危険だ。美しさは、すぐ物語になる。

父は、飲み込めた。飲み込めたあと、父はほんの少しだけ息を吐いた。息を吐く音は、勝利の音ではない。降伏の音だ。喉が、恐れに勝ったのではない。恐れが、今日はたまたま牙を引っ込めただけだ。

母は、父の椀を見ながら言った。

「ほら、大丈夫だった」

大丈夫。その語は甘い。甘い言葉は腐る。腐った大丈夫の上で、人は次の無理をする。だが母の「大丈夫」は、甘くなかった。甘くない大丈夫は、苦い祈りに似る。祈りに似た言葉ほど、こちらの胸を痛める。

父は汁を一口すすった。出汁の温かさが、父の口元に生を戻す。生はいつも温度の形をしている。父が言った。

「……うまいな」

それだけだった。それだけで、私の胸の奥に、何かが崩れた。崩れたのは涙ではない。涙は湿っている。湿り気は物語を呼ぶ。私は物語にしたくなかった。崩れたのは、私の中で硬く固めていた「間に合わなかった」という塊だ。

間に合わなかった。東京へ出たこと。父の老いに気づかなかったこと。去年の正月、電話口で立ち尽くしたこと。間に合わなかったことは、取り返せない。取り返せないことほど、重い。だがいま、父が餅の小さな欠片を飲み込んだ、その一瞬だけは——間に合った気がした。間に合ったという錯覚は危険だ。錯覚は甘い。甘い錯覚は腐る。それでも、その錯覚がなければ、人は翌日を食べられない。

母が、私の椀にも餅を入れた。白い欠片が浮く。浮くものは、沈む前提を持つ。沈む前提を持つ浮遊ほど、正月らしいものはない。

私は餅を噛んだ。柔らかさが、歯にまとわりつく。まとわりつく粘り気は、執着の味だ。執着は醜い。醜い執着ほど、人間を生かす。喉に送るとき、私はわざとゆっくり飲み込んだ。飲み込むという行為が、こんなにも意識される日が来るとは思わなかった。飲み込めた瞬間、私は自分が恥ずかしくなった。恥は、生きる側の感情だ。恥がある限り、私はまだ人間でいられる。

父が、椀の底を見つめた。汁の底に、柚子の皮が一片残っている。黄色い皮片は、かすかな苦味を残す。苦味は真実だ。真実は、いつも最後に残る。

父が言った。

「餅はな……」

言いかけて、父は言葉を探した。探す言葉ほど誠実だ。父は続けた。

「白いくせに、よく人を殺す」

母が一瞬、箸を止めた。私は息を止めた。父の言葉は残酷だった。だが残酷さの中にだけ、本当の恐れがある。恐れを言える人間は、まだ生きている。

父は、少し笑った。薄い笑いだった。薄い笑いは、照れの仮面だ。そして言った。

「だから……小さくして食う。——それでいいんだろうな」

小さくして食う。命を、小さくして食う。誇りを、小さくして食う。正しさを、小さくして食う。家族を、小さくして食う。

私は、涙が出そうになった。泣けば、御雑煮が美談になる。美談は甘い。甘い美談は腐る。腐った美談の上で、人はまた「正しい家族」を演じたがる。私は演じたくなかった。だから、ただ汁をすすった。熱が喉を通り、胸を温めた。温める熱は、生の最低限の祝福だ。

窓の外で、正月の空が青かった。青は無関心の色だ。無関心の青の下で、私たちはただ、白い欠片を小さくして飲み込み、苦味を残し、息を続ける。

御雑煮とは、そういう料理なのだと思った。新しい年を食べるのではない。「生き延びるために小さくしたもの」を、椀の中で確かめ直す料理だ。

そして私は、確かめた。父の喉が動いたこと。母の手が止まらないこと。自分の恥がまだ残っていること。

それだけが、正月の現実で、その現実だけが、私にとっての祝福だった。

 
 
 

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