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眠の字

 夜が明ける前の家は、音が少ない。 音が少ないと、ひとつの音が大きくなる。 竈の薪が、ぱち、と鳴る音。 桶の水が、布巾に吸われる音。 そして――息。

 昨夜までと同じはずの息なのに、今朝の息はどこか違っていた。 深い。 途中で引っかかっていたところが、少しだけ滑らかになっている。 滑らかになると、胸の奥がきゅっとする。 きゅっとするのに、怖いだけじゃない。 「少し」のきゅっだった。

 幹夫は布団の中で、口の中だけで言った。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、耳が聞く音が、音のままで居られる。 音が刃にならない。

 襖の隙間から覗くと、父――父になった男が、横を向いて寝ていた。 肩の線が、まだ細い。 細いのに、折れていない。折れていない細さ。 口は少しだけ開いていて、息が静かに出ている。

 幹夫は、昨日の縫い箱の下の紙を思い出した。 > きのう より すこし ねむれた あの「すこし」は嘘をつかない。 嘘をつかないから、胸が熱くなる。

 熱くなるときほど、息。 幹夫はそっと布団を抜け出して、足音を畳の目に合わせた。 畳の目に合わせると、家が家のまま目を覚まさない。

 朝飯のちゃぶ台で、父はいつもより長く椀を見ていた。 見てから、ゆっくり持ち上げる。 持ち上げるまでの「間」が、昨日より少し短い。

「……うめぇな」

 父が言った。 声は低い。倒れない低さ。 倒れないのに、今日は掠れが少ない。掠れが少ないと、湯気が声に混ざる。

 祖母は淡々と言った。

「味噌は味噌だ。寝たら腹も減る。飲め」

 寝たら腹も減る。 その言い方が、妙に頼もしかった。 眠れた、が生活の文になった気がしたからだ。

 母は父の茶を足して、言葉を少しだけ置いた。

「……昨夜、寝た?」

 父は一度だけ瞬きをして、頷いた。 頷きの角が、昨日より丸い。

「……少し」

 少し。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、返事の鳴り方だ。

 父は続けて言った。

「目が……勝手に起きる。けど、少し……」

 目が勝手に起きる。 その言葉は痛いのに、刃じゃなかった。 言えると、痛さは少し丸くなる。

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、預かる「うん」。

 午前、父は縁側で網を広げた。 昨日の結び目より、今日は「ほどく」時間が長い。 ほどく時間が長いと、指が疲れる。 疲れると、胸も疲れる。胸が疲れると、夜が怖い。

 空っぽの袖の男が来て、縁側に腰を下ろした。 帽子を膝に置いて、父の手元を見た。 見る目が、からかう目じゃない。 見届ける目だった。

「寝ぇ、どうだ」

 男が低い声で聞くと、父は網糸をつまんだまま答えた。

「……少し。……少しだけ」

 男は頷いて、口の端をほんの少し噛んだ。

「少し、が出りゃ上等だに。寝るってのはな……目を閉じる許可がいる」

 許可。 昨日の「許」が胸の奥でふわっと揺れた。 目を閉じる許可。 目を閉じると、見えない。見えないと、怖い。 怖いから、目は勝手に起きる。

 父は網糸の結び目を押さえながら、ぽつりと言った。

「……閉じると、戻るんだ。あっちに」

 あっち。 遠い場所。 白い壁の匂い。 海じゃない海。 幹夫の胸がきゅっとなった。

 男はそれ以上言わなかった。 言わないで、網の端を片手で押さえた。 押さえる、というのは「いま」を落とさないことだ。

 幹夫はその横で、上着のポケットの石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、「いま」に手を置く重さだった。

 夕方、日が斜めになって、畳の影が長くなるころ、父は早めに箸を置いた。 置いたあと、椀を見て、見て、見て――目を逸らした。 逸らす目は、疲れの目だった。

 母はそれを見て、何も言わず、湯たんぽを作り始めた。 湯が湯たんぽに入る音は、静かに重い。 重い音は、落ち着く。

 幹夫は、ふと聞いてしまった。

「母ちゃん……眠るって、どうやるの」

 言ってから、恥ずかしくなった。 眠るなんて、勝手に来るものだと思っていた。 でも今は、勝手に来ない夜があるのを知ってしまった。

 母はすぐ答えず、新聞紙の裏を一枚、ちゃぶ台に広げた。 真っ白じゃない白。 この白の上なら、言葉が転んでも大丈夫な気がする。

 母は竹を継いだ鉛筆を取り、ゆっくり書いた。

 眠

「これが“ねむる”の字」

 幹夫は目をこらした。 左に、目。 右に、民。

 母は左を指でなぞった。

「こっちは目だに。起きてるときの目。探す目」

 次に右をなぞる。

「こっちは……“たみ”。人だに」

 人。 母は少しだけ間を置いて、息をひとつ入れた。 まず、いき。

「目がな、番犬みたいになってると、眠れん。ずっと探しとるで」

 番犬。 父の「目が勝手に起きる」が、そこへ座った。

「眠るってのは……目が、人になることだに」

 目が、人になる。 探すのをやめて、ただそこにいる人になる。 その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。

 父が、新聞紙の「眠」を見ていた。 見て、すぐ逸らさない。 逸らさない目は、少しだけ近い。

「……目が、人に戻る……か」

 父の声が低く落ちた。倒れない低さ。 倒れないのに、底が少しだけ震える。 震えは弱さじゃなく、触れてしまった証拠みたいだった。

 母は頷いた。

「うん。……戻る、だに」

 戻る。 帰る。 返る。 解ける。 少し。 今日までの字が、畳の目みたいに並んだ。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、胸が走りそうになっても戻ってこられる。

 目を書く。 民を書く。 一回目の「眠」は、目が大きすぎて、民が小さくなった。 大きい目は、番犬の目だ。 番犬の目は、眠れない。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「目が大きくなったらな……息を入れて、民を広げりゃええ」

 民を広げる。 人の場所を増やす。 幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 二回目の「眠」は、民が少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が座る。 座る字は、「居」に似ていた。

 父が、新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。震えるのに、逃げない。

「……俺も、書けるか」

 母がいちど父を見て、頷いた。 頷きは、許しになる。 許の字が、胸の奥でふわっとゆるむ。

 父は鉛筆を握った。 握り方がぎこちない。 ぎこちないのに、落とさない。

 父は「目」を書いた。 線が揺れる。 揺れるのに、折れていない。折れていない揺れは、戻る途中の揺れだ。

 次に「民」。 最後の払いで、父の息がいちど止まった。 止まった間に、幹夫は自分の息を入れた。

 ――いき。

 父の「眠」ができた。 少し歪んでいる。 歪んでいるのに、ちゃんと「眠」の顔をしていた。 目が、少しだけ人になっている顔。

 父はそれを見て、ふっと息を吐いた。 軽い息。 軽いのに、笑いじゃない。 軽い息は、落ちなかった息だ。

 母は「眠」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 その夜、家の明かりが消えても、幹夫はすぐ眠れなかった。 眠れないのに、怖くて眠れないんじゃない。 耳が、父の息を聞いていたいからだ。 聞いていたい、が胸の中でこっそり動いていた。

 父の息が、ときどき引っかかる。 引っかかるたび、幹夫の胸がきゅっとなる。 きゅっとなると、息を入れる。

 ――いき。

 ふと、隣の部屋で布団が擦れる音がした。 父が起き上がったのだと分かる音。 音は小さいのに、家の中が一段、硬くなる。

 母の布団も、静かに動いた。 母は音を立てない。音を立てないのに、そこにいる。

 幹夫は布団の中で、石を握りしめた。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、暗い中での手すりだった。

 父の声が、低く聞こえた。

「……寝れねぇ」

 母の声が、もっと低く返す。

「うん。……今は、目が番しとる」

 少し間があって、母が続けた。

「番してもええ。……でも番の手ぇ、少しだけゆるめる」

 ゆるめる。 許す。 息を入れる。

 父はしばらく黙って、それから、息をひとつ吐いた。 吐いた息は軽くも重くもない。 ただ、ここまでの息。

 母がぽつりと言った。

「眠の字、覚えとる?」

 父の返事が小さく聞こえた。

「……目が、人」

 その言葉が落ちた瞬間、幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。叫ばない鳴り方は、「続き」の鳴り方だった。

 しばらくして、父の息がまた布団の中へ戻っていく音がした。 戻る音。 戻る音があると、幹夫の胸の走りは少しだけ遅くなる。

 ――いき。

 幹夫は、そのまま目を閉じた。 目を閉じるのが怖くないのは、隣の息が消えないからだ。 消えない息があると、暗さは暗さのままでいられる。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、二つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > ねむり は > からだ が かえる じかん > め が やすむ じかん > こわいときほど > いき > うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう > きのう より > すこし > め が やすんだ

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 「目が休んだ」。 それは、眠れた、よりももっとやさしい言葉だった。 勝ち負けみたいに聞こえない。 ただ、休んだ。 休めた。 少し。

 幹夫は上着のポケットの石を握って、冷たさを確かめた。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。

 眠る、は終わりじゃない。 目が人になる時間。 息が戻る時間。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「目が休んだ」という父の字は届いた。 届いた“少し”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日という一日を、そっと眠へつないでいった。

 
 
 

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