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確の字

 朝の浜は、昨日より波が低かった。 低い波は、怒っていない顔をしている。怒っていない波は、足首をさらうときもやさしいふりをする。ふり、のやさしさに油断すると、心だけが先に冷える。

 幹夫は波打ち際で、丸い石を拾った。 掌に乗せると、ひんやりして、重い。 重いのに、痛くない。 角がないからだ、と幹夫は思った。角がないと、重さは支えになる。

 石の表面は、少し濡れていて、光を返した。 返す光は、叫ばない。 叫ばない光の下で、石の影が短く畳に落ちるみたいに砂に落ちた。

 ――影があるのは、ひかりがあるってこと。

 内ポケットの紙の、母の字が胸の中でしなる。 しなると、息ができる。

 幹夫は石を上着のポケットに入れて、家へ戻った。 濡れた石が布に触れて、ひとつだけ冷たい点を作る。 点の冷たさが、今日という日の始まりの印みたいだった。

 台所では祖母が鍋をかき回し、母は座敷で針を進めていた。 針は布に入って、出る。 入って、出る。 戻って、進む。 返し縫いの音は小さいのに、家の中の時間を揃える。

 そこへ、鈴が鳴った。

 ちりん。

 細い音が、畳の上をまっすぐ走って、幹夫の胸の奥を先に叩いた。 叩かれると、息が一拍遅れる。 遅れるのに、逃げない。

「郵便でーす」

 母が立った。 立ち方が、ほんの少しだけ遅い。 遅いのは迷いじゃない。迷いがあるのに、逃げない遅さだ。

 戸が開く。 紙が擦れる。 外の光が一瞬、畳の影を揺らす。

 母が受け取ったのは、封筒だった。 白い封筒。角がぴしっとしている。 紙が「役目」の顔をしている封筒。

 母はその場で裏返し、目を走らせた。 走って、止まって、また走って――止まったところで、母の喉がほんの少し動いた。

 幹夫はその喉を見てしまう。 見てしまうと、見なかったことにできない。 見なかったことにできないと、胸の中の警報が、尖りそうになる。

 母は封筒をちゃぶ台に置かなかった。 控え帳の横へ、そっと置いた。 落とさない置き方。飛ばさない置き方。 紙を紙のままにしておく置き方。

 祖母が台所から聞いた。

「来たか」

 母はすぐ答えず、封筒を開けた。 ぱき、と小さな音。 固い紙は、開くときに「決める」音を出す。

 中の紙を読んで、母は息をひとつ吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、次へ行くための息。

「……“確認”って書いてある」

 母が小さく言った。

 かくにん。 その音が、幹夫の口の中で止まりやすかった。 止まるのに、胸の奥が少し熱い。 確認――それは、答えが来る音にも、違うが来る音にも聞こえる。

「清水へ、来いって」

 母は続けた。 言い方が淡々としているのに、指先だけが少し忙しい。紙の端をそろえ、折り目を作り、またほどく。 忙しい指は、胸の中の波を押さえている指だ。

 幹夫は、思わずポケットの石を握った。 丸い石は冷たい。冷たいのに、重い。 重さがあると、胸の中の警報が少しだけ丸く鳴った。

「かくにんって、なに」

 幹夫が聞くと、母は針を置いた。 置いてから、息をひとつ入れた。 まず、いき。

「……確かめる、ってことだに」

 母はそう言って、新聞紙の裏を一枚広げた。 真っ白じゃない白。 真っ白じゃないから、言葉が座れる。

 母はゆっくり字を書いた。

 確

 幹夫は目をこらした。 線が多い。 でも左に、見覚えのある形がある。石の形。

「ほれ、ここ。“石”がついとるだろ」

 母が左側を指でなぞる。 石。 幹夫はポケットの石を、そっとちゃぶ台の端に置いた。 石が木に当たって、こつ、と小さく鳴る。 小さいのに、腹に届く音。

 母がその石を見て、ほんの少しだけ目を細めた。

「ええ石だに」

 褒める声が小さくて、幹夫は胸がきゅっとした。 小さく褒めるのは、褒めすぎると恥ずかしいからだ。恥ずかしさは、家の中でやさしいふりをする。

「石みたいに、動かんようにする。ぐらぐらせんようにする。……それが“確かめる”」

 母の言葉は、刃にならない言葉だった。 確かめる、は怖い。 でも母は怖さをそのまま尖らせず、石で丸めてくれた。

 祖母が鍋を止めて、座敷のほうを覗いた。

「石、ええぞ。紙飛ばん」

 祖母の一言は、生活の一言で、妙に効いた。 確かめることも、結局は「紙が飛ばんようにする」みたいなことなのかもしれない、と幹夫は思った。

 母は続けた。

「確認って書いてあるだろ。……“認”は、見て、うなずく字だに」

 見て、うなずく。 港で、名前を聞いて首を振った日。 縫い箱の下の紙を見て、何も言わずにしまった日。 見て、うなずくには、力がいる。

 幹夫は「確」を真似しようとして、手が止まった。 線が多いのが怖いんじゃない。 この字が、決める場所へ繋がっているのが怖い。

 母は幹夫の手元を見て、声を少しだけ柔らかくした。

「今日は、書けんでもええ。……形、覚えりゃええ」

 形だけ。 形だけでいいと言われると、胸が少しだけ息をする。 息ができると、また次が来る。

 幹夫は新聞紙の隅に、石だけを書いた。

 石

 書けた石は、少しよろけていた。 よろけているのに、ちゃんと重い顔をしていた。 重い顔が、なぜだか頼もしかった。

 母はその横に、小さな丸をひとつ描いた。 消す丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「ここまで」の丸。

 昼過ぎ、母は控え帳を広げた。 受領証。配達済。報告。写真屋の預り票。 紙が増えている。 増えるほど、家の中の空気が薄くなる気がするのに、増えないと進めない。

 母は紙を揃えて、細い紐で結んだ。 結び目を作る指が丁寧だった。 丁寧な結び目は、ほどけないための結び目だ。

 祖母が押し入れの奥から古い紙束を出してきた。 角が丸い紙。黄ばんだ紙。 紙は古くなると、角が丸くなる。 丸くなると、刺さらない。刺さらないと、触れる。

「これ、戸の帳だ。……ここにゃ色々書いてある」

 祖母の声は淡々としている。 淡々としているのに、紙の重さは分かっている声だった。

 母は頷いて、そこから必要なところだけを探した。 探す目は、針穴に糸を通す目と同じだった。 外さないように、外さないように。

 幹夫はちゃぶ台の上の石を指で転がした。 転がすと、石は少しだけ光を返す。 返す光は、叫ばない。 叫ばない光の中で、母の手の影が紙の上を行ったり来たりする。

 影はくっついて歩く。 母の影も、紙の上を歩く。 歩いて、確かめて、また戻る。

 そのとき、戸口に空っぽの袖の男が立った。 帽子を手に持って、いつもの笑いきれない笑いをしている。

「……確認、来たらしいな」

 男は言った。 言い方が、噂じゃなく、知ってしまった言い方だった。紙の町では、紙の音が先に歩く。

 母は「うん」と短く返した。 短い「うん」は、縫い箱の下の「うん」みたいだった。預かる「うん」。

「……行くなら、俺も行くで」

 男は続けた。 空っぽの袖が風で揺れる。揺れるのに、倒れない。

「確かめるのは、怖いでな」

 男がぽつりと言った。 その言葉が、幹夫の胸にすっと入って、刺さらなかった。 怖い、と言えると、怖さが少し丸くなる。

 母は男を見て、小さく頷いた。

「……ありがと」

 母の「ありがと」は、いつも最後の「う」がない。 ないのに、足りない感じがしない。 折り目の中の返事の形だからだ。

 男は「じゃあ、また」と言って帰った。 戸口の光が、いちど畳の影を揺らして、また落ち着く。 影が落ち着くと、家も落ち着いたふりをする。

 夜、幹夫は小さな紙を切って、封筒の形を描いた。 宛名に「おかあちゃんへ」。 中に、今日の言葉を入れる。

 > たしかめるって > こわいね > でも いし が ある

 最後に、小さく「石」を書いて、丸をひとつ描いた。 石が転がらないように置く丸。 怖さが飛ばないように置く丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、言葉を出したあとの軽さの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝、縫い箱の位置が畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の紙を開くと、母の字があった。

 > たしかめるのは > こわいのが ふつう > いし みたいに > まるく もって > うん

 最後に、小さな丸。

 幹夫は紙を胸に当てた。 紙が体温を吸って、少しだけしなる。 しなる音が、返事の音に聞こえた。

 石は、丸い。 丸いのは、叩かれたからじゃない。 波に触れられて、削られて、時間の中で少しずつ丸くなった。

 確かめるのも、きっと同じなのだろうか。 怖い角を、時間と息で少しずつ丸くして、持てる形にする。

 幹夫はちゃぶ台の端の石を握って、こつ、と木に当てた。 小さな音。 小さいのに、腹に届く音。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、確かめるための紙は届いた。 届いた紙の重さを、幹夫は丸い石みたいに胸の中で転がしながら、今日も「まだ」の息をひとつ、そっと守っていた。

 
 
 

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