礼の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 8分

干し芋の甘い匂いは、朝になると少しだけ薄くなる。 薄くなると、昨夜の「受け取った」が夢みたいに遠のきそうで、幹夫はちゃぶ台の隅の包み紙を、指先でそっと押さえた。
押さえると、紙はまだ少し温かい。 温かいのは、昨日の手の温度が残っているからだ。 残っている温度は、落ちない。
縁側で父が、木の玉――「みき」と彫られた玉を転がしていた。 くる、くる。 止まって、少し。 また、くる。
転がすたび、父の眉の間がほんの少しだけ寄る。 寄って、すぐほどける。 ほどけると、息が入る。
「……もらうと、嬉しいな」
父が、誰に言うでもなくぽつりと言った。 嬉しい。 その音が、畳の目の上に静かに座った。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、家の中に増えてきた鳴り方だ。
嬉しい、は走りやすい。 走りそうになったから、幹夫はポケットの石を握って、口の中で言った。
――いき。
父は玉を止めて、もうひとつ、続けた。
「……でも、嬉しいのあとに……申し訳ねぇが来る」
申し訳ねぇ。 硬い音なのに、刃になりきらない。 父が、ちゃんと家の中へ置いたからだ。
台所の境目にいた母が、鍋をかき回す手を止めずに言った。
「うん。……それは来るだに」
来るのを否定しない「うん」。 預かる「うん」。
「来たらな……礼をする。礼は、返すのと違う」
礼。 幹夫はその音を、胸の奥で小さく転がした。 礼、は「返」と似ている匂いがするのに、どこか違う匂いがする。 返すは物を戻す。 礼は、気持ちを置く。
祖母が鍋の向こうで、淡々と混ぜた。
「礼ぁ、腹の座りだ。食ったら“ごちそうさま”言え。そんで終いだに」
終いだに。 祖母の言葉は時々乱暴なのに、暮らしを暮らしに戻す。 戻ると、胸の角が尖りにくい。
母が棚の上から、小さな網袋を下ろした。 中に、みかんが三つ。 冬の色。 手に取ると、皮が少し冷たい。
「これ、ひとつ。隣へ持ってく」
ひとつ。 少し。 小さくてもいい、の形。
父がみかんを見て、目を細めた。 細めると、光が丸くなる。丸い光は痛くない。
「……礼、か」
「うん。……礼だに」
母はみかんを紙で包んだ。 包む手つきが丁寧すぎない。 丁寧すぎないと、生活の手つきになる。 生活の手つきは、息ができる。
戸口へ向かうとき、父がいちどだけ言った。
「……俺も、行く」
その一言が、幹夫の胸の奥でぽん、と鳴った。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばないのに、熱い。
熱いときほど、息。
――いき。
母は驚いた顔をしそうになって、しなかった。 驚きを刃にしない顔で、短く言った。
「……ええよ。止まったら止まってええ」
止まってええ。 歩の字の許しが、そのまま戸口へ続く。
父は紙包みのみかんを、両手で受け取った。 受け取り方が、投げない受け取り方。落とさない受け取り方。
幹夫は父の横に立って、ポケットの石を握った。 冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、外へ出るときの手すりになる。
隣の戸までの道は、昨日より短いのに、今日は少しだけ長い。 長いのは距離じゃない。 父の中の「間」が増えたからだ。
父は戸の前でいちど止まった。 止まって、少し。 その「少し」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父は、こん、こん、と戸を叩いた。 小さい音。 小さいのに、家と家のあいだをちゃんと渡る音。
「はいよ」
昨日と同じ声。 隣のおばさんが顔を出した。
「……あら」
おばさんの目が、父のみかん包みへ行って、それから父の顔へ戻った。 戻る目は、急がない目だった。
父の喉が、ごくりと動いた。 動いて、止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父が言った。
「……昨日は……もらった。……礼」
礼。 声は小さい。 小さいのに、届いた。
父はそこで、少しだけ上体を前へ倒した。 深いお辞儀じゃない。 でも、ちゃんと“曲がる”。 曲がると、気持ちは形になる。
おばさんは大げさに笑わなかった。 大げさに笑うと刃になるのを知っている笑わなさで、ただ、手を差し出した。
「そんな、いいのに」
いいのに、は断る言葉のふりをして、受け取る準備の言葉だった。 受け取れるように、空気を柔らかくする言葉。
父は紙包みを、投げずに置くみたいに渡した。 渡す手が少し震える。 震えるのに、落とさない。 落とさない震えは、戻ってくる途中の震えだ。
「……どうも」
短い。 短いのに、そこに礼が入っている。
おばさんは包みを受け取って、声を落として言った。
「ありがとね。……嬉しいよ」
嬉しいよ。 その音が、父の胸の中へ入っていく気がした。 入るとき、父の肩がほんの少しだけ下がった。 下がると、息が入る。
父は、返事まで少し間があって――その間に、幹夫は息を入れた。
――いき。
「……よかった」
父の「よかった」は小さい。 小さいのに、真ん中が温かい音だった。
戸が閉まって、外の光が静かになる。 静かになっても、今日は静かが怖くなかった。 静かの中に、「礼」と「嬉しいよ」が残っているからだ。
帰り道、父がぽつりと言った。
「……礼ってのは……軽くなるな」
軽くなる。 昨日の「返せた」の軽さ。 今日の「受けた」の温かさ。それが、少し混ざった軽さだった。
幹夫は喉の奥が熱くなって、返事の前に息をひとつ入れた。
――いき。
「……うん」
父はその「うん」を聞いて、ふっと息を吐いた。 軽くも重くもない息。 ただ、「ここまで」の息。
家へ戻ると、母は何も聞きすぎなかった。 聞きすぎると、刃になることがあるのを知っているからだ。 母はただ、ちゃぶ台を拭きながら言った。
「……置けた?」
置けた。 投げないで、置くみたいに渡せたか。 礼が、落ちなかったか。
父は短く頷いた。
「……置けた」
その言い方が、報告みたいで、幹夫の胸がぽん、と鳴った。
祖母が鍋をかき回しながら淡々と言った。
「礼ぁ終わったら、飯だ。腹が先だに」
腹が先。 祖母の言葉は、いつも道のいちばん太いところを踏ませる。
昼前。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
礼
幹夫は、その字を見て、さっきの父の小さなお辞儀を思い出した。 曲がる背中。 曲がると、気持ちが落ちない。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは“しめす”だに」
礻。 示す、の形。
「見せるってこと。気持ちを、外に出して見せる」
次に右側をなぞった。 細い線が、少し曲がっている。
「こっちはな……“まがる”みたいだろ。お辞儀の背中だに」
曲がる背中。 礼の字の中に、ちゃんと背中がいる。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「礼ってのはな……気持ちを示して、背中を少し曲げることだに。小さくてもいい」
小さくてもいい。 父の小さな礼。 幹夫の小さな「いるー」。 全部、ここへ繋がる。
父が新聞紙の「礼」を見て、ぽつりと言った。
「……示す、ってのが……怖ぇときある」
怖ぇ。 言えると、怖さは少し丸くなる。
母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。
「うん。……示したら、刺さるときもある。だからな、少しでいい」
少し。止まって、少し。息を入れて、少し。礼も、そのやり方でいい。
母は続けた。
「礼は、返じゃない。受とも違う。……でも、どっちにも繋がる」
返す前に受ける。 受けたら返す。 その間に、礼がある。 道の途中の、曲がる背中。
幹夫は鉛筆を握った。 示すほうを書いて、曲がるほうを書く。 一回目の「礼」は、右がまっすぐになりすぎた。 まっすぐだと、お辞儀の背中じゃない。 背中が曲がらないと、気持ちが落ちそうで胸がきゅっとした。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「まっすぐになったらな……少し曲げりゃええ。曲げるのは、弱さじゃない。落とさない工夫だに」
落とさない工夫。その言い方が、父の「置く」に似ていた。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「礼」は、右が少しだけ曲がった。 曲がると、字が「礼の顔」になる。 礼の顔は、刺さらない。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「礼」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 右の曲がりが少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“示そう”としている尖りだからだ。
父は書き終えて、ふっと息を吐いた。
「……礼、って……曲がっていい字だな」
母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。
「曲がってもええ。……曲がって、戻る」
戻る。 返。 渡。 道。 字がまた、道になる。
母は「礼」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、頭を下げたときの影みたいに見えた。
夜。 灯りが落ちる前、父が布団の中から小さく言った。
「……幹夫」
幹夫の名。 呼ばれると、胸の奥がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
「……うん」
父は少し間を置いて、ぽつりと言った。
「……礼、できた。……俺、今日、少し眠れそうだ」
眠れそうだ。 未来の言葉。 未来の言葉は、胸の奥を温かくする。
幹夫は石を握って、小さく言った。
「……うん」
言葉はそれだけで足りた。 足りる夜は、夜のままで刺さらない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> れい は> きもち を しめす> せなか を すこし まげる> おとさない ため> いき> うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう> きのう> れい できた> みかん わたせた> すこし> ここ が かるい
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――みかんの皮が、ひとひら。 乾いて、少し縮んで、端がくるんと丸まっている。 丸まっているから刺さらない。 指で触ると、まだ微かに甘い匂いが残っていた。
幹夫はその皮を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
礼は、曲がる背中。 曲がって、落とさない。 曲がって、戻れる。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、「ここがかるい」という父の字は届いた。 届いた軽さを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日の道の真ん中に、小さな礼の印を、そっと置いた。





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