竹の答
- 山崎行政書士事務所
- 2月4日
- 読了時間: 7分

縫い箱の下の紙は、朝になるといつも少しだけ温度が違う。 夜の体温を吸って、折り目のところがほんのり柔らかい。柔らかいと、言葉の角が丸くなったみたいで、幹夫はその柔らかさが好きだった。
「とい て いい?」の紙の返事は、もう内ポケットに入っている。 まず いき。 母の字の「いき」は、ひらがなのくせに、どこか芯があった。芯がある字は、急がせない。急がせないから、胸の中の警報が尖らない。
朝飯を食べていると、戸口の外でまた鈴が鳴った。
ちりん。
細い音が、背中の奥を叩く。 音が細いほど怖い日がある。細い音は、紙を連れてくる音だからだ。
「郵便でーす」
母が立った。 立ち方が、昨日より少しだけ遅い。遅いのは、怖いからじゃない。怖いのに、逃げないでいる遅さだ。
母が受け取ったのは、封筒だった。役場の封筒。角がぴしっとしていて、紙が固い顔をしている。 母はその場で裏返し、目を走らせた。走って、止まって、また走って――最後に、息をひとつ吐いた。
その息は、軽くも重くもなかった。 「来た」でも「だめだ」でもない。 ただ、次の息だった。
母は封筒をちゃぶ台に置かず、控え帳の横にそっと置いた。 落とさない置き方。飛ばさない置き方。 紙を紙のままにしておく置き方。
祖母が台所から聞いた。
「なんだい」
「……返事、みたいなもん」
母はそう言ってから、付け足した。
「問うてきたことの、続き」
続き。 続き、という言葉は、嬉しいときもあるし、怖いときもある。 幹夫は内ポケットの紙に触れた。折り目。丸。 続きが来たなら、また折り目が増える。
母は封筒を開けた。 開く音が、ぱき、と小さく鳴った。 固い紙は、開くときに「決める」音を出す。
中から出てきたのは、四角い枠がたくさん並んだ紙だった。 線。枠。小さな字。 紙の上に、迷子になりやすい場所がいっぱいある。
母は一番上を指で押さえて、声に出さずに読んだ。 読んで、黙った。 黙り方が、針を布に刺す前の黙り方だった。
幹夫は我慢できずに聞いた。
「なに、って」
母は顔を上げて、幹夫を見た。 見届ける目。 その目で、ゆっくり言った。
「これ、回答って書いてある」
かい・とう。 音が二つ、畳の上に落ちた。 落ちた音の中に、聞き覚えのある音が混じっている。
「……とう?」
幹夫が言うと、母は小さく頷いた。
「答える、の答」
答。 その音が口の中で丸くなる。 丸くなるのに、胸の奥は少しだけ熱い。答えは、来ると嬉しい。来ないと痛い。答えは、どっちの顔も持っている。
母は新聞紙の裏を引き寄せた。 真っ白じゃない白。 この白の上なら、言葉が転んでも大丈夫な気がする。
「今日、これ書こ」
母がそう言って、幹夫の鉛筆を取った。 竹を継いだ鉛筆。 母の指が竹の継ぎ目を越えるとき、幹夫の胸がちくりとした。ちくりは嫌じゃない。大事なものが、大事なことに使われるちくりだ。
母はゆっくり書いた。
答
幹夫は目をこらした。 上に、竹みたいな形が乗っている。 下に、合う、みたいな形がある。ふたつの口が重なっているようにも見える。
「ほれ、見て」
母が上を指でなぞった。
「これ、竹だに」
竹。 幹夫は思わず自分の鉛筆の継ぎ目に触れた。 竹の筒。折れた箸の竹。母が継いでくれた竹。 竹があると、短い鉛筆が“持てる形”になる。 竹があると、手が自分のものになる。
「答の上に、竹がある」
幹夫が言うと、母は小さく笑った。湯気みたいな笑い。
「な。……だから、幹夫の鉛筆で書くの、ちょうどいい」
ちょうどいい、という言葉が胸に落ちた。 足りないものに竹を足して、ちょうどよくする。 答えも、ちょうどよくするものなのかもしれない。
母は次に、下の形を指した。
「こっちは、合だに」
合う。合わせる。 合う、という言葉は、嬉しい匂いがする。 でも、合わない、という影も一緒に連れてくる。
「問うてきたことに、言葉を合わせる。……それが答え」
母の声は低かった。倒れない低さ。 倒れない低さで言われると、怖い言葉も少しだけ持てる。
幹夫は鉛筆を握り直した。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬さは、息の前にいる。
幹夫は「答」を真似して書いた。 竹を上に。 合を下に。
一回目の「答」は、竹がゆがんだ。竹がゆがむと、答えが頼りない顔をする。 胸の中の警報がちくりと鳴った。
「ええ」
母が言った。 その「ええ」は、転んでもいい「ええ」だった。
「答えは、真っ直ぐじゃなくてもええ。……合うとこがあればええ」
合うとこがあれば。 その言い方が、刃じゃなかった。 幹夫はもう一度書いた。今度は少しだけ、字が落ち着いた。
母は役場の紙をちゃぶ台の端に広げた。 枠がいっぱい。 枠の中に、書け、と書いてある顔。書かなかったら、白いまま残る顔。
母は控え帳を開き、役場で押された赤い印のところを一度だけ指で確かめた。 確かめる指は、白い石を確かめる指と似ている。 ここにある、と言って自分を落ち着かせる指。
母はゆっくり書き始めた。 父の名前。生まれ。分かるところ。 分かるだけ、の線。
幹夫は横で、母の字を見ていた。 見ているだけで、胸の中の音が少し落ち着く。 見ている、は手を出していないみたいで、でも目は手より先に出る。
母の鉛筆が、ある枠の前で止まった。 止まって、鉛筆が紙の上でほんの少し揺れた。 揺れる鉛筆は、口の中で言えない言葉みたいだった。
母はそこで息をひとつ入れて、そして書いた。
不明
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 分からないの中に明るいがいる字。 母が書く「不明」は、駅の紙よりずっと静かだった。静かで、でも強かった。
幹夫は小さく言った。
「……それも、答え?」
母は顔を上げずに頷いた。
「そうだに。分からん、って書くのも答え」
分からん、と言えるのは迷子になりにくい。 母がそう言ったのを、幹夫は思い出した。 分からん、を紙に書くのは、負けじゃない。ほどけないための戻りだ。
母は続けた。 枠を埋める。埋められない枠は「不明」にする。 不明が増えるほど、紙の白は減る。白が減ると、胸が少しだけ痛い。 でも白が減ると、紙は紙のまま迷子にならない顔になる。
祖母が台所から言った。
「こっちの年は、あれだ。戸の帳に書いてある」
祖母が押し入れから古い紙束を出してきた。 紙は黄ばんで、角が丸い。 丸い角は、長く生きた紙の角だ。
母と祖母が、紙を挟んで小さな声で確かめ合う。 確かめる声は、叫ばない。 叫ばないけれど、ちゃんと家を動かす。
幹夫はその間に、控え帳を開いて、母が書いた「答」を自分でもう一度書いた。 竹。合。 竹の上に、合う場所。 答えは、竹で持てる形になる。
母がふっと言った。
「幹夫、これ……写しといて」
母は役場の紙の端を指した。 そこに、小さく印刷された字がある。 「回答期限」。 幹夫は読めないのに、期限の線が怖い顔をしているのが分かった。紙が急ぐ顔になる字だ。
母はその字を、新聞紙の裏にゆっくり書いて見せた。
「期は、約束みたいな字。限は、ここまでって線」
ここまで。 母がいつも丸を描く「ここまで」。 丸じゃなく、線で切るここまで。 幹夫は少しだけ喉が乾いた。
「明日、出しに行く。……郵便局」
母が言った。 出す。届く。消印。 紙が歩く日だ。
幹夫は、勇気を出して聞いた。
「出したら……返ってくる?」
母は、答えの前に息をひとつ入れた。 それは、幹夫にくれた「まず いき」の息と同じ息だった。
「返事が来るかもしれん。来んかもしれん」
母は正直に言った。 正直さは痛いのに、刃にならない。母はいつも言葉の刃を丸めてくれる。
「でもな」
母は控え帳を指で軽く叩いた。 綴じ糸の結び目。ほどけない白。
「出したってことは、残る。……控えがあるでな」
残る。 残るなら、時の中で迷子になりにくい。 幹夫の胸の奥の警報が、ふわっと丸く鳴った。
夜。 母は役場の紙を封筒に入れた。 封筒の口を、丁寧に折った。のりがない代わりに、折り目で閉じる。折り目は、声をしまう形だ。
母は封筒の表に宛名を書いた。 字がまっすぐで、迷いが少ない。宛名は歩く場所だ。歩く場所は、迷ってはいけない。
幹夫はその横で、自分の小さな帳面を開いて、今日のページに書いた。 「問」と「答」を、並べて。 門の中の口。 竹の上の合。
並べると、二つの字が、少しだけ近づいた気がした。 問うことは、口を門に入れること。 答えることは、竹で持てる形にして、合う場所を作ること。
幹夫は、ふと、父のことを思った。 父は今、どこかで誰かの問いを聞いているのだろうか。 それとも、父に問いが届かない場所にいるのだろうか。
分からない。 不明。 でも、不明の中には明がいる。 明がいるなら、今日の紙も、真っ暗じゃない。
幹夫は帳面の端に、小さく書いた。
> とう は たけ > たけ が あると もてる
そして、小さな丸をひとつ描いた。 消印の丸じゃない。受け取る丸でもない。 ただ、「今日ここまで」の丸。
母は封筒を風呂敷に包み、縫い箱の脇にそっと置いた。 置き方が、いつもと同じだった。落とさない置き方。 母は最後に、幹夫の頭に手を置いた。置いただけ。撫でない。崩れないように押さえる手。
「明日、行くでな」
母が言った。 明日、という言葉が、今日の終わりに小さく灯った。 明日があるなら、答えも、まだ途中だ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 でも、竹を継いだ鉛筆で書いた「答」は届いた。 届いた字の上で、幹夫は胸の奥に息の間をひとつ作って、明日をそっと置いた。





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