結の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 7分

父が家に来てから、朝の匂いがひとつ増えた。 味噌の湯気でも、薪の煙でもない匂い。 濡れた縄の匂い――乾ききらない海の匂いだ。
縁側に出ると、父が座っていた。 昨日より少しだけ「座っている」背中。 でもまだ、どこかよそ行きの背中。背中の中に、遠い場所が畳まれているみたいだった。
父の膝の上に、古い麻縄がある。 縄の繊維が、朝の光を細く引っかけている。 父の指が、その繊維を撫でて、止まって、また撫でた。 撫でるたびに、縄が小さく鳴る。ざり、と。 ざり、の音は、針の音より太いのに、静かだった。
幹夫は上着のポケットの石を握って、縁側の板にそっと座った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、胸の走りを少し遅くしてくれる。
父がぽつりと言った。
「……縄、ほどけちまった」
ほどける。 束の逆。 散らばる手前の言葉。
幹夫は喉の奥が熱くなって、返事が出ない。 代わりに、口の中で言った。
――いき。
息をひとつ入れると、音は音のままでいられる。
「……結べる?」
幹夫がやっと言うと、父は縄を見たまま、小さく笑った。 笑いきれない笑い。 全部が急に明るくならない明るさは、目にやさしい。
「結べるはずだ」
父はそう言って、縄の端を指で探した。 探し方が、少しぎこちない。 ぎこちないのに、あきらめない指だった。
父の左眉の上の細い傷が、朝の光で見えた。 網でできた傷。 その傷を見て、幹夫の胸がきゅっとする。 きゅっとするのに、目を逸らしたくはなかった。
父は縄の端を合わせて、輪を作ろうとして――止まった。 止まったところで、指がほんの少し震える。 震えるのに、縄は落ちない。落とさない力が、ちゃんとある。
「……みき坊」
父が幹夫を呼んだ。 呼び方が落ちるたび、幹夫の胸の奥に折り目が増える。 増える折り目は、飛ばないための折り目だ。
「手ぇ……貸せるか」
手を貸す。 それは、触れること。 触れるのが、怖い。 怖いのに、触れたい。
幹夫は石を握ったまま、手を膝の上で開いてみた。 開くと、手のひらが少し頼りなく見える。 頼りないのに、ここにある。
「……うん」
声の「うん」はすぐ消える。 でも今日は、消えるのが怖くなかった。 隣に、消えない息があるからだ。
幹夫は縄の端を押さえた。 縄はざらざらして、掌に小さな痛みを残す。 小さな痛みは、生きている痛みだ。 生きている痛みは、怖さを少しだけ現実にしてくれる。
父の手が、幹夫の手の上にそっと重なった。 重なった瞬間、幹夫の胸が跳ねた。 跳ねたのに、叫ばない。叫ばない跳ね方だった。 父の手は温かくて、少し乾いていて、指の腹が固かった。
固いのは、働いてきた固さ。 固いのに、怖くない。 怖くない固さは、丸い石の重さに似ていた。
「ここ、こう」
父が小さく言って、幹夫の指を縄の輪へ導いた。 導き方が、押すんじゃなく、支える導き方だった。 幹夫は息をひとつ入れた。
――いき。
縄をくぐらせる。 引く。 締める。 締めるとき、父の指が一瞬だけ強くなって、また緩んだ。
「固くしすぎると、切れる」
父がぽつりと言った。 縄の話なのに、胸の話みたいだった。
幹夫は頷いた。 頷くと、石がポケットの中で少し鳴った気がした。 小さい音。 小さいのに、腹に届く音。
縄の結び目が、ひとつできた。 結び目は丸くない。 少し歪んで、少し角がある。 でも、刺さらない。 刺さらないのは、そこで「止まっている」からだ。止まって、繋いでいるからだ。
母が台所から出てきて、縁側の手元を見た。 見る目が、叱る目じゃない。 見届ける目だった。
「……結べた?」
母が言うと、父は縄を見たまま、小さく頷いた。
「ああ……みき坊が、押さえてくれた」
みき坊。 父の口から出るその呼び方が、今日は縄の結び目に触って、少しだけ重くなった気がした。 呼び方が、手仕事の言葉になると、家の匂いがする。
母はふっと息を吐いて、縫い箱を抱えて座敷へ戻りかけて――止まった。 止まって、幹夫と父の手元をもう一度見た。
「……それ、覚えときな」
母は言った。
「結び目は、ほどけんようにするけど……息は入れとく」
息。 許の字のときの息。 丸の字のときの息。 いまも、縄の結び目の中に息がいる。
母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げて、鉛筆を取った。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。
「今日はな……“結”を書く」
母はゆっくり書いた。
結
幹夫は目をこらした。 左に、糸。 右に、吉。
母の指が左をなぞる。
「これは糸。縫い糸の糸だに」
次に右。
「こっちは吉。……よし、って字」
よし。 母が丸を描くときの「よし」。 ここまで、のよし。
母は少しだけ間を置いて、息をひとつ入れた。
「糸を“よし”に結ぶ。……それが結」
糸をよしに結ぶ。 その言い方が、胸の奥で静かに座った。 縛るためじゃない。 ほどけないように、でも切れないように。 よし、と思えるところで結ぶ。
父が新聞紙の「結」を見て、ぽつりと言った。
「……結ぶってのは、終わらせるってのもあるな」
終わらせる。 結末。 幹夫の胸がきゅっとした。 終わるのが怖い。終わると戻れない気がする。 でも終わらないと、息が入らない場所もある。
母はすぐ否定しなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。
「うん。……でも今日は、繋ぐほうの結」
繋ぐほうの結。 その言葉が、幹夫の胸の角を少し丸くした。
幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、手が震えても戻れる。
糸、を書く。 吉、を書く。 一回目の「結」は、糸が細くて、吉が大きくなった。 大きい吉は、よし、が欲張りすぎた顔をした。 欲張りすぎると、結び目が固くなって切れる――父の言葉が胸で鳴る。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「よし、は大きくてもええ。……糸が切れんように、指をゆるめりゃええ」
ゆるめる。 許の字。 力をゆるめて息を入れる。 結ぶときほど、ゆるめる場所がいる。
二回目を書く。 今度の糸は少し太くなって、吉が少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が「繋がっている顔」をする。
父がその字を見て、小さく言った。
「……みき坊、結、ええな」
褒める声は小さい。 小さいのに、胸の奥が熱くなる。 熱いのに、息ができる熱さだった。
幹夫は返事が見つからなくて、ポケットの石を握り直した。 冷たさが戻ってきて、やっと言えた。
「……父ちゃんの手、上手」
言ってしまってから、恥ずかしくなった。 上手、なんて子どもみたいだ。 でも父の手は、ほんとうに上手だった。 上手、というより――手が覚えていた。帰れなかった時間があっても、指先が覚えていることがある。
父は一度だけ目を細めた。 目を細めると、光が丸くなる。丸い光は痛くない。
「……手ぇだけはな」
父はそう言って、縄の結び目を指で軽く叩いた。 こつ。 小さいのに、腹に届く音。
夕方、父は縁側で縄を結び続けた。 結び目が増えると、縄が縄の顔になる。 顔になると、ただの糸切れの怖さが、少しだけ「使える形」へ変わる。
幹夫は、父の横で、結び目の数を数えた。 一本、二本、三本。 数えると、胸の中の警報が少し丸くなる。数は嘘をつかないからだ。
母は座敷で、針を進めていた。 入って、出る。 戻って、進む。 糸も、結び目も、返し縫いも――全部、ほどけないための動きだ。
祖母が鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。
「結び目があると、風に負けん」
風。 紙を飛ばす風。 胸の中を散らす風。
結び目があると、負けない。 負けないと言っても、固くなるんじゃない。 ほどけないくらいに、ゆるんでいる――そんな負けなさ。
夜。 父が布団に入ってから、幹夫は小さな紙を切って封筒の形を描いた。 宛名はいつもと同じにして、その下に小さく足した。
> (とうちゃんへ も)
中に書く。
> むすぶ って > かたく しすぎると きれるんだね > いき を いれて > ほどけない くらいに ゆるめる > それが よし なんだね
最後に、小さく書いた。
結
そして丸をひとつ。 結び目が飛ばないように置く丸。 息の場所を残す丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、今日のあたたかさの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
> むすぶ は > しばる じゃない > つなぐ だに > いき が はいる くらいに > うん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
> みきぼう > けつ むずかしいな > でも よし
その下に、丸がひとつ。 昨日より少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――麻縄の短い切れ端が、ちいさな結び目になって置かれていた。 いびつな結び目。 でも、ほどけない結び目。
幹夫は結び目を指でつまんで、そっと掌に乗せた。 麻縄はざらざらして、痛い。 痛いのに、嫌じゃない。 その痛さは「ここまで来た」痛さだった。
幹夫は胸に手を当てて、息をひとつ入れた。
――いき。
結び目は丸じゃない。 でも、丸になろうとしている形だ。 ほどけないように、切れないように、ゆるめながら繋いでいる形だ。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、縫い箱の下に置かれた小さな結び目は届いた。 届いた結び目を、幹夫は丸い石みたいに胸の奥でそっと転がして――今日も、家の中の「居る間」を、ゆっくり結んでいった。





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