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結の字

 父が家に来てから、朝の匂いがひとつ増えた。 味噌の湯気でも、薪の煙でもない匂い。 濡れた縄の匂い――乾ききらない海の匂いだ。

 縁側に出ると、父が座っていた。 昨日より少しだけ「座っている」背中。 でもまだ、どこかよそ行きの背中。背中の中に、遠い場所が畳まれているみたいだった。

 父の膝の上に、古い麻縄がある。 縄の繊維が、朝の光を細く引っかけている。 父の指が、その繊維を撫でて、止まって、また撫でた。 撫でるたびに、縄が小さく鳴る。ざり、と。 ざり、の音は、針の音より太いのに、静かだった。

 幹夫は上着のポケットの石を握って、縁側の板にそっと座った。 丸い石。冷たい。重い。 重いのに痛くない。 角がない重さは、胸の走りを少し遅くしてくれる。

 父がぽつりと言った。

「……縄、ほどけちまった」

 ほどける。 束の逆。 散らばる手前の言葉。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、返事が出ない。 代わりに、口の中で言った。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、音は音のままでいられる。

「……結べる?」

 幹夫がやっと言うと、父は縄を見たまま、小さく笑った。 笑いきれない笑い。 全部が急に明るくならない明るさは、目にやさしい。

「結べるはずだ」

 父はそう言って、縄の端を指で探した。 探し方が、少しぎこちない。 ぎこちないのに、あきらめない指だった。

 父の左眉の上の細い傷が、朝の光で見えた。 網でできた傷。 その傷を見て、幹夫の胸がきゅっとする。 きゅっとするのに、目を逸らしたくはなかった。

 父は縄の端を合わせて、輪を作ろうとして――止まった。 止まったところで、指がほんの少し震える。 震えるのに、縄は落ちない。落とさない力が、ちゃんとある。

「……みき坊」

 父が幹夫を呼んだ。 呼び方が落ちるたび、幹夫の胸の奥に折り目が増える。 増える折り目は、飛ばないための折り目だ。

「手ぇ……貸せるか」

 手を貸す。 それは、触れること。 触れるのが、怖い。 怖いのに、触れたい。

 幹夫は石を握ったまま、手を膝の上で開いてみた。 開くと、手のひらが少し頼りなく見える。 頼りないのに、ここにある。

「……うん」

 声の「うん」はすぐ消える。 でも今日は、消えるのが怖くなかった。 隣に、消えない息があるからだ。

 幹夫は縄の端を押さえた。 縄はざらざらして、掌に小さな痛みを残す。 小さな痛みは、生きている痛みだ。 生きている痛みは、怖さを少しだけ現実にしてくれる。

 父の手が、幹夫の手の上にそっと重なった。 重なった瞬間、幹夫の胸が跳ねた。 跳ねたのに、叫ばない。叫ばない跳ね方だった。 父の手は温かくて、少し乾いていて、指の腹が固かった。

 固いのは、働いてきた固さ。 固いのに、怖くない。 怖くない固さは、丸い石の重さに似ていた。

「ここ、こう」

 父が小さく言って、幹夫の指を縄の輪へ導いた。 導き方が、押すんじゃなく、支える導き方だった。 幹夫は息をひとつ入れた。

 ――いき。

 縄をくぐらせる。 引く。 締める。 締めるとき、父の指が一瞬だけ強くなって、また緩んだ。

「固くしすぎると、切れる」

 父がぽつりと言った。 縄の話なのに、胸の話みたいだった。

 幹夫は頷いた。 頷くと、石がポケットの中で少し鳴った気がした。 小さい音。 小さいのに、腹に届く音。

 縄の結び目が、ひとつできた。 結び目は丸くない。 少し歪んで、少し角がある。 でも、刺さらない。 刺さらないのは、そこで「止まっている」からだ。止まって、繋いでいるからだ。

 母が台所から出てきて、縁側の手元を見た。 見る目が、叱る目じゃない。 見届ける目だった。

「……結べた?」

 母が言うと、父は縄を見たまま、小さく頷いた。

「ああ……みき坊が、押さえてくれた」

 みき坊。 父の口から出るその呼び方が、今日は縄の結び目に触って、少しだけ重くなった気がした。 呼び方が、手仕事の言葉になると、家の匂いがする。

 母はふっと息を吐いて、縫い箱を抱えて座敷へ戻りかけて――止まった。 止まって、幹夫と父の手元をもう一度見た。

「……それ、覚えときな」

 母は言った。

「結び目は、ほどけんようにするけど……息は入れとく」

 息。 許の字のときの息。 丸の字のときの息。 いまも、縄の結び目の中に息がいる。

 母はちゃぶ台に新聞紙の裏を広げて、鉛筆を取った。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「今日はな……“結”を書く」

 母はゆっくり書いた。

 結

 幹夫は目をこらした。 左に、糸。 右に、吉。

 母の指が左をなぞる。

「これは糸。縫い糸の糸だに」

 次に右。

「こっちは吉。……よし、って字」

 よし。 母が丸を描くときの「よし」。 ここまで、のよし。

 母は少しだけ間を置いて、息をひとつ入れた。

「糸を“よし”に結ぶ。……それが結」

 糸をよしに結ぶ。 その言い方が、胸の奥で静かに座った。 縛るためじゃない。 ほどけないように、でも切れないように。 よし、と思えるところで結ぶ。

 父が新聞紙の「結」を見て、ぽつりと言った。

「……結ぶってのは、終わらせるってのもあるな」

 終わらせる。 結末。 幹夫の胸がきゅっとした。 終わるのが怖い。終わると戻れない気がする。 でも終わらないと、息が入らない場所もある。

 母はすぐ否定しなかった。 息をひとつ入れてから、低く言った。

「うん。……でも今日は、繋ぐほうの結」

 繋ぐほうの結。 その言葉が、幹夫の胸の角を少し丸くした。

 幹夫は鉛筆を握った。 竹の継ぎ目が掌に当たる。硬い。 硬いと、手が震えても戻れる。

 糸、を書く。 吉、を書く。 一回目の「結」は、糸が細くて、吉が大きくなった。 大きい吉は、よし、が欲張りすぎた顔をした。 欲張りすぎると、結び目が固くなって切れる――父の言葉が胸で鳴る。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「よし、は大きくてもええ。……糸が切れんように、指をゆるめりゃええ」

 ゆるめる。 許の字。 力をゆるめて息を入れる。 結ぶときほど、ゆるめる場所がいる。

 二回目を書く。 今度の糸は少し太くなって、吉が少しだけ落ち着いた。 落ち着くと、字が「繋がっている顔」をする。

 父がその字を見て、小さく言った。

「……みき坊、結、ええな」

 褒める声は小さい。 小さいのに、胸の奥が熱くなる。 熱いのに、息ができる熱さだった。

 幹夫は返事が見つからなくて、ポケットの石を握り直した。 冷たさが戻ってきて、やっと言えた。

「……父ちゃんの手、上手」

 言ってしまってから、恥ずかしくなった。 上手、なんて子どもみたいだ。 でも父の手は、ほんとうに上手だった。 上手、というより――手が覚えていた。帰れなかった時間があっても、指先が覚えていることがある。

 父は一度だけ目を細めた。 目を細めると、光が丸くなる。丸い光は痛くない。

「……手ぇだけはな」

 父はそう言って、縄の結び目を指で軽く叩いた。 こつ。 小さいのに、腹に届く音。

 夕方、父は縁側で縄を結び続けた。 結び目が増えると、縄が縄の顔になる。 顔になると、ただの糸切れの怖さが、少しだけ「使える形」へ変わる。

 幹夫は、父の横で、結び目の数を数えた。 一本、二本、三本。 数えると、胸の中の警報が少し丸くなる。数は嘘をつかないからだ。

 母は座敷で、針を進めていた。 入って、出る。 戻って、進む。 糸も、結び目も、返し縫いも――全部、ほどけないための動きだ。

 祖母が鍋をかき回しながら、ぽつりと言った。

「結び目があると、風に負けん」

 風。 紙を飛ばす風。 胸の中を散らす風。

 結び目があると、負けない。 負けないと言っても、固くなるんじゃない。 ほどけないくらいに、ゆるんでいる――そんな負けなさ。

 夜。 父が布団に入ってから、幹夫は小さな紙を切って封筒の形を描いた。 宛名はいつもと同じにして、その下に小さく足した。

 > (とうちゃんへ も)

 中に書く。

 > むすぶ って > かたく しすぎると きれるんだね > いき を いれて > ほどけない くらいに ゆるめる > それが よし なんだね

 最後に、小さく書いた。

 結

 そして丸をひとつ。 結び目が飛ばないように置く丸。 息の場所を残す丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは恥ずかしさと、今日のあたたかさの名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝、縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

 > むすぶ は > しばる じゃない > つなぐ だに > いき が はいる くらいに > うん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

 > みきぼう > けつ むずかしいな > でも よし

 その下に、丸がひとつ。 昨日より少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――麻縄の短い切れ端が、ちいさな結び目になって置かれていた。 いびつな結び目。 でも、ほどけない結び目。

 幹夫は結び目を指でつまんで、そっと掌に乗せた。 麻縄はざらざらして、痛い。 痛いのに、嫌じゃない。 その痛さは「ここまで来た」痛さだった。

 幹夫は胸に手を当てて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 結び目は丸じゃない。 でも、丸になろうとしている形だ。 ほどけないように、切れないように、ゆるめながら繋いでいる形だ。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど、縫い箱の下に置かれた小さな結び目は届いた。 届いた結び目を、幹夫は丸い石みたいに胸の奥でそっと転がして――今日も、家の中の「居る間」を、ゆっくり結んでいった。

 
 
 

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