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結の字

 布の小さな袋は、朝のちゃぶ台で、ほとんど音を立てなかった。 幹夫が掌の上でそっと転がしても、石は「こつ」とも言わない。 言わないのに、ちゃんと重い。 重いのに痛くない。 “鳴らない重さ”は、胸の中の角を丸くしてくれる気がした。

 幹夫は袋を胸に当ててみた。 布越しに、石の冷たさが少しだけ伝わる。 冷たいほうが、今ここがはっきりする。

 ――いき。

 息をひとつ入れると、袋が胸の真ん中に座った。

 縁側で父が、昨日の袋より少し丁寧なほうを見ていた。 父の目は遠くない。 遠くない目は、幹夫の背中を押す。

「……これ」

 父がぽつりと言って、袋の口を指で示した。

「……紐、いるか」

 紐。 紐があれば、首から下げられる。 下げられたら、落とさない。 落とさないと、胸の中の警報が鳴りにくい。

 嬉しいのに、嬉しさが走りそうだったから、幹夫は石じゃないほうの手を握ってから言った。

 ――いき。「……ほしい」

 母が台所の境目から、声を急がせないまま言った。

「首に下げるか? 絡まるで」

 絡まる。 絡まるのは怖い。 でも、落ちるのも怖い。

 幹夫が迷って黙ると、祖母が鍋の向こうで淡々と混ぜた。

「絡まるほど長くすんな。短く結べ。……結び目ぁ、ほどけるようにしとけ」

 ほどけるように。 その言い方が、胸にすとんと落ちた。 結ぶのに、ほどける。 矛盾みたいなのに、生活のやり方の矛盾だ。

 父は小さく頷いて、立ち上がった。 立ち上がり方が急がない。 急がないと、家の空気が尖らない。

 父は縁側の端から、細い麻紐みたいなものを一本、持ってきた。 網の端から取ったのかもしれない。 指で触ると、毛羽が少し立っていて、ざらっとする。

 父は紐を掌にのせて、しばらく見ていた。 見ている間が、少し長い。 長いのに、怖い長さじゃない。 戻ろうとする長さだった。

 父の喉がごくりと動いて、息がひとつ落ちた。

「……結ぶの、俺……できる」

 できる。 その言葉が、未来の言葉の匂いを持っていた。

 父は袋の口に紐を通すため、布を少しつまんだ。 つまむ指が、昨日より落ち着いている。 落ち着いていると、指が“ここ”にいるのが分かる。

 でも、紐の端を引くところで、父の眉の間が一瞬だけ寄った。 寄ると、胸の中の空気が少し硬くなるのが、幹夫には分かった。

 結び目。 結び目は、ときどき固くなる。 固くなると、ほどけない。 ほどけないものは怖い。

 幹夫はポケットの石を握って、口の中で言った。

 ――いき。

 父はそこで手を止めた。 止めて、息をいちど吸って、吐いた。 吐いた息は、まだ少し硬い。 硬いのに、切れてはいない。

「……縛るのは、違うな」

 父がぽつりと言った。 縛る。 その言葉は痛い匂いがする。 でも父は、それを“違う”と言えた。

 母が布巾を絞りながら、低く言った。

「うん。……結ぶだに。縛るじゃない」

 祖母が鍋の向こうから、淡々と混ぜる。

「縛ると苦しい。結ぶと戻れる。覚えとけ」

 覚えとけ、は乱暴なのに、暮らしの毛布みたいに温かい。

 父は小さく頷いて、紐をふたつの指で扱い直した。 引っぱらない。 締め上げない。 “置く”みたいに、重ねる。

 指が、輪を作る。 輪を作って、通す。 最後に、きゅっと――じゃなく、ふわっと整える。

 袋の口に、蝶結びの小さな結び目が座った。 座ったのに、固くない。 固くない座り方は、畳の上の丸い石みたいだった。

 父が幹夫に見せるように、そっと言った。

「……引けば、ほどける。……でも、勝手にはほどけん」

 ほどけるのに、勝手にはほどけん。 それが、いちばん欲しかった形だった。

 幹夫は袋を首に下げてみた。 胸の真ん中に、布が軽く当たる。 石の重さが、ちゃんとそこにいるのが分かる。 分かると、怖さが少しだけ薄くなる。

 幹夫は試しに、袋を軽く揺らした。 音はしない。 しないのに、胸の中が「よし」と鳴った。

 ――いき。

 父が、ほんの少しだけ口の端を上げた。 笑いきれない上がり方。 でも今日は、その上がり方が昨日より丸い。

「……守りが、増えたな」

 守り。 増えた。 言葉が二つ並ぶと、道が太くなる気がした。

 昼すぎ、風が強くなって、戸口の外で小さな桶が転がった。 ころん、と軽い音。 昨日の「がん」ほど硬くない。

 父の肩が上がりかけて――でも、今日はそこで止まった。 止まった、というだけで、幹夫の胸が温かくなる。

 父は袋を見た。 幹夫の胸のところで鳴らない袋。 鳴らない石。 父はそれを見て、息をひとつ吐いた。

「……鳴らんと、助かるな」

 助かる。 その言葉は、幹夫の胸の奥をそっと撫でた。 撫でる言葉は、刺さらない。

 幹夫は、首の紐を指で少しだけ引いた。 結び目が、小さく揺れる。 揺れるのに、ほどけない。 ほどけないのに、固くない。

 それを見ているだけで、息が入りやすかった。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目の硬さが、今日も頼もしい。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 結

 幹夫は、その字を見た瞬間、首の結び目を思い出した。 袋の口に座っている、小さな蝶結び。 ほどけるように結ばれた結び目。

 母は左を指でなぞった。

「こっちは糸だに。縫い糸の糸。……縫い箱の中の」

 糸。 縫い箱。 紙の下の声。 糸の匂いが、この家の“続き”の匂いと繋がる。

 次に右をなぞった。

「こっちは吉(きち)だに。……ええこと、って意味の字」

 吉。 ええこと。 その言い方が、少し照れくさいのに、嬉しかった。

 母は少し間を置いて、息をひとつ入れた。

「結ぶってのはな……糸で、ええことをつなぐ字だに」

 ええことをつなぐ。 結び目が、ただの結び目じゃなくなる言い方だった。

 母は続けた。

「でもな、固く結びすぎると……苦しい。だから、ほどける余地も残す。……“ほどける結び”が上等」

 ほどける余地。 余地があると、息が入る。 息が入ると、夜が夜のままでいられる。

 父が新聞紙の「結」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、結ぶのは得意だった。……でも、ほどくのが下手だった」

 ほどく。 解。 網のほどける。 胸の結び目のほどける。

 母は否定しなかった。 息をひとつ入れて、低く言った。

「うん。……だから今、ほどける結び、覚えとるだに」

 覚えとる。 その言葉が、父の指の上に座った気がした。

 幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、吉を書く。 一回目の「結」は、糸が細くなりすぎて、ほどけそうな顔になった。 ほどけそうだと不安で、胸がきゅっとする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「糸が細いときはな……重ねりゃええ。一本で無理せん。……二本、三本で支える」

 二本、三本。 母の声。 祖母の鍋の音。 父の小さい言葉。 全部で支える。

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「結」は、糸が少し太って、字が落ち着いた。 落ち着くと、字が“つながる顔”になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 母が父を見て、頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。

 父の「結」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 吉の口が少し歪んで、糸の最後が少し尖った。 尖るのに刺さらない。 刺さらないのは、その尖りが“つなぐ”ための尖りだからだ。

 父は書き終えて、ふっと息を吐いた。

「……結、って字……糸のほうが先にあるんだな」

 母は「うん」とだけ返した。 縫い箱の下の「うん」みたいな、折り目のある「うん」。

「先につないでから、ええことが来る。……逆じゃない」

 逆じゃない。 それは、今日の父の指の動きと同じだった。 先にほどける形を作ってから、結ぶ。

 母は「結」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、蝶結びの輪みたいに見えた。

 夜。 布団に入る前、父が幹夫の首の紐を見て、ぽつりと言った。

「……きつくないか」

 きつくないか。 その問いかけが、守りの問いかけだった。

 幹夫は指を入れて確かめた。 指が一本入る。 一本入ると、苦しくない。 苦しくないと、息が入る。

 ――いき。

「……だいじょうぶ」

 父は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……苦しくなったら、引け。……ほどけるように結んだ」

 引け。 ほどける。 それは“逃げろ”じゃない。 “戻れ”の合図だった。

 幹夫は布の袋の上から石を押さえて、静かに言った。

「……父ちゃんも、ほどけるようにして」

 父は一瞬黙って、それから小さく笑った。 笑いきれないのに、笑いの形。

「……ああ。……ほどけるように、だな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「結び目は、ほどくためにもあるだに。……固くしすぎん」

 父の息が、ふっと落ちていった。 落ちていく息は、布団の奥へ戻っていく息だった。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

むすぶ ってほどける ように むすぶ んだねきょうひも つけてくれていし が ならなくてぼく の むね がすこし らくいき

 最後に、小さく「結」。 丸をひとつ。 輪の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは朝の「がん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

むすぶ はいと でつなぐ ことかたく しすぎんほどける よちいきうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうひも むすべたほどける ようにむすぶ ほうがこわくないすこしもどれた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――短い麻紐がひとつ。 小さな蝶結びが作ってあって、引っぱるとほどける。 ほどけたら、また結べる。 紐の端に、父の震える字で小さく、

むすび

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその紐を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 結ぶ。 ほどけるように。 つながるように。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、ほどける結び目は届いた。 届いた“余地”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、きつくない結び方で、家の中の続きをそっとつないでいった。

 
 
 

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