結の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月9日
- 読了時間: 9分

朝の台所には、潮の匂いより先に、糸の匂いが立っていた。 縫い箱の蓋が、少しだけ開いている。 開いていると、そこに“続き”が見える。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れると、胸の真ん中が「ここ」に座る。
縁側で父が、昨日ほどいた糸電話の糸を、小さく巻き直していた。 巻き直す手は、急がない。 急がないと、結び目は尖らない。
そのとき、戸の外で声がした。 大きい声。 でも、怒っていない声。
「兄さん、約束のやつ、持ってきたに」
昨日の網元の男の声だ。 声と一緒に、魚の匂いが、ふっと入ってくる。 魚の匂いは、腹の底に落ちる匂いだ。 落ちる匂いは、暮らしの匂い。
母が台所の境目から、急がせない声で返した。
「おう。……まあ、わざわざ」
戸が開いて、男が桶をひとつ置いた。
ごとん。
桶の底が地面に当たる音。 硬い音。 硬い音は、胸の奥のどこかを叩く日がある。
父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
父は縁側から庭へ目を移して、ぽつりと言った。
「……桶の音だ」
桶の音。 名前がつくと、音は音のままでいられる。
男が気づいて、慌てたみたいに笑った。
「わりぃわりぃ、どんって置いちまった。……布、敷くべきだったな」
母がすぐ、布巾を一枚、桶の下へ差し込んだ。 差し込むだけ。 叩かない。 “置く”の手つき。
「次から、布の上だに。……今んとこ、ええよ」
父が縁側から降りてきた。 降り方が急がない。 急がないと、声が刺さらない。
父は桶の中を覗いて、少しだけ目を細めた。
「……鯵か」
「鯵だに。今朝、良いのが上がった。……兄さん、網、助かったでな」
男は桶の縁を、指でとん、と叩きそうになって、途中で手を止めた。 止めた手が、空中でふわっと迷う。 迷う手は、気遣いの手だ。
父が小さく頷いた。
「……飯になるな」
飯になるな。 父の口から出る“飯”は、刃じゃない。 戻れる言葉だ。
男が帰り際に言った。
「袋、持ってきたけど、紐が短ぇな。……結べるか?」
袋。紐。 “結ぶ”が、朝の空気に来た。
母が、縫い箱のほうを見て言った。
「糸じゃ切れる。……藁縄(わらなわ)出すだに」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「結ぶなら、きつくするな。……きつい結びぁ、解けん。解けんと、腹が荒れる」
腹が荒れる。 暮らしの言い方で、危ないところを教える。
父が、ぽつりと言った。
「……結びは……ほどけるほうがええ」
“解”の次に来た言葉。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
台所の隅で、母が藁縄を出した。 藁の匂い。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、手のひらを落ち着かせる。
母は鯵を新聞紙でくるんで、袋に入れた。 袋の口をたぐって、藁縄を回す。 回すところで、母の指が止まる。
「父ちゃん、結び、お願い」
父は「うん」とだけ返して、藁縄を受け取った。 受け取り方が、置くみたいだ。 ぎゅっと掴まない。 逃げない程度に、そっと持つ。
父は一度、藁縄を置いて、結び目になるところを指で確かめた。 確かめると、心が先走らない。
――いき。
父は、蝶結びみたいな形にした。 引けばほどける。 でも勝手にはほどけない。 余地がある結び目。
母が頷いた。
「うん。……それがええ。あとで解ける」
解ける。 解けると、戻れる。 戻れると、怖さは固まらない。
幹夫は、結び目を見ていた。 結び目の輪っかが二つ。 二つの輪っかは、茶碗の口みたいで、どこか丸い。
幹夫が、そっと言った。
「……ぼくも、やってみたい」
言う前に、息。
――いき。
父はすぐに「いい」とも「だめ」とも言わなかった。 少し間があって、その間に父の肩が落ちる。
「……やるか。……でも、急ぐな」
急ぐな。 守りの命令。
父は短い藁縄の切れ端を一本、幹夫へ渡した。 渡し方が、置くみたいだ。
幹夫は両手で受け取って、輪を作ろうとした。 作ろうとして――きゅっと引いた。 引いた瞬間、藁が鳴りそうになる。
きゅ。
小さいのに、硬い気配。
幹夫の胸が、きゅっと鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父が低い声で言った。
「……きつい」
責める声じゃない。 “今の形”に名前をつける声。
父は幹夫の手を取らず、藁縄の“輪”のところを指で指した。
「……ここ、息入るぶん残せ」
息入るぶん。 幹夫は、指を少し緩めた。 緩めると、藁が鳴らない。 鳴らないと、胸の角が丸くなる。
父は続けた。
「……結びはな……閉めるんじゃない。……座らせる」
座らせる。 綴じるときの糸。 線のたわみ。 間の隙間。 全部がそこにいた。
幹夫は、もう一度、ゆっくり結んだ。 引けばほどける輪っかが、やっと二つできた。
父が、ほんの少し口の端を上げた。
「……できた」
できた。 その一言が、幹夫の胸の奥をぽん、と叩いた。 鳴るのに、叫ばない。 叫ばない鳴り方は、続きの鳴り方だ。
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
昼前。 鯵を捌く音は、母ができるだけ小さくした。 包丁は布の上に置いて、叩かない。 音が眠ると、父の肩も眠る。
父は縁側で、藁縄の切れ端を指でくるくる回していた。 回すと、ほどけそうで、ほどけない。 ほどける余地があるのが、ちょうどいい。
父がぽつりと言った。
「……結ぶってのは……戻す道も一緒に作ることだな」
幹夫は頷いて、膝の上で冊子を開いた。 白い紙は、今日は刺さらない。 白い場所があると、戻れる。
鉛筆で小さく書く。
きょうあじ が きたとうちゃんむすんだぼく もいき いれてむすんだいき
“いき”は丸く書いた。 丸いと、刺さらない。
父がそれをちらりと見て、ぽつりと言った。
「……おまえ、結び、覚えるの早いな」
褒め言葉の形。 でも父の声は、押しつけない温度だった。 受け取れる褒めは、胸を丸くする。
幹夫は照れて、息だけ入れた。
――いき。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
結
幹夫は、その字を見た瞬間、藁縄の輪っかを思い出した。 引けばほどける結び。 息が入る結び。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは糸だに。……線も、継も、綴も、ここだに」
糸。 家の中の続きの匂い。
次に右側をなぞった。
「こっちは吉(きち)だに。……ええ、って意味。ええ日、って意味」
吉。 ええ。 和らぐ“ええ”。 父の口から出た“ええな”の匂い。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「結ぶってのはな……糸を、ええ形でつなぐ字だに。きつく縛るんじゃない。ほどける余地、残して、ええ方へつなぐ」
ええ方へつなぐ。 幹夫の胸の奥が、すとん、と座った。
母は続けた。
「結はな、“結末”の結でもある。……終わりにするためじゃない。まとめて、次へ渡すための結だに」
次へ渡す。 継。 続き。 家の中の字が、手をつないだ。
父が新聞紙の「結」を見て、ぽつりと言った。
「……吉が入ってるの、いいな」
父の声が少し笑っている。 笑いきれないのに、笑いの形。
「……俺の結びにも……吉、入れたい」
入れたい。 未来の言葉。 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息。
――いき。
祖母が鍋の向こうで淡々と言った。
「吉ぃ欲しけりゃ飯食え。……結び目みてぇに噛め。ほどけんように、でもきつくすんな」
祖母の言葉は乱暴なのに、いつも“余地”が混ざっている。
幹夫は鉛筆を握った。 糸を書いて、吉を書く。
一回目の「結」は、糸が細くなりすぎて、吉が固い顔になった。 固いと、縛りたくなる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「固くなったらな……糸を太らせりゃええ。一本で無理せん。二本、三本で支える。……結びは、支えだに」
支え。 糸電話の糸。 縫い目の糸。 手紙の紙。 全部が支え。
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「結」は、少し丸い顔になった。 丸いと、ほどける字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
母が父を見て頷いた。 頷きは許しになる。 許しがあると、手が伸びる。
父の「結」は、糸の線が少し揺れた。 揺れるのに、折れていない。 吉の最後の点を置くとき、父は息をいちど止めて――止めたあと、ふっと吐いた。
「……点を置くと……結び目みてぇだな」
結び目の点。 ほどけ口の点。 入口の点。
母は「結」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、蝶結びの輪っかみたいに見えた。
夜。 魚の匂いは、もう家の奥へ落ち着いていた。 腹の底が温かいと、声は尖りにくい。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
あじむすんだほどける ほうみきぼう も むすんだきちいれたいいき
“きち いれたい”。 その言葉が、幹夫の胸の奥をあたためた。
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……俺、結ぶの、怖い日がある」
怖い。 結ぶのが怖い。 それは、また絡まるのが怖い、に似ている匂い。
幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が尖るときがある。 だから、間。
――いき。
「……うん。……でも、ほどけるように、むすべばいい」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……ほどける余地が……吉、か」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「うん。……余地は、吉だに。結びは、閉めるためじゃない。戻るため」
祖母が淡々と言う。
「戻れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 続きの言葉。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
むすぶ っていと を きち(ええ) で つなぐ んだねきょうあじ の ふくろとうちゃん ほどける ように むすんだぼく も むすんだいき が はいる ぶんいき
最後に、小さく「結」。 丸をひとつ。 輪っかの丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは桶の「ごとん」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
むすぶ はいと と きちきつく しめんよち を のこすもどれる の が きちいきうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうおと が あったでもおけ の おと って いえたむすべたほどける ほうきち いれたいすこしもどれた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――短い藁縄が一本。 蝶結びの形で結んである。 引けばほどける。 ほどけたら、また結べる。 縄の端は、父の手で少し丸く切りそろえられていて、刺さらない。 結び目のそばに、父の震える字で小さく、
きち
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその結び目を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
結ぶ。 ほどける余地を残して、ええほうへつなぐ。 戻れるように、刺さらない形で。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、掌の上の小さな蝶結びは届いた。 届いた“吉の余地”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、結んで、ほどいて、また結べる暮らしを、そっと続けていった。





コメント